恋の魔法をかけたというのなら、君の恋が終わらない保証はあるのか? ****** 「チョコレート、新しく買ったほうがいいのかしら」 ぽつり、と井ノ瀬が言った。 彼女が手に持つ『猫の舌の形をしたチョコ』の箱はとうに空になっている。 俺が受け取らないと宣言するなり、井ノ瀬は全部中身を食べてしまったから、 この現状……。 「いらない、チョコが凄く好きなわけでもないし」 「せっかくの恋のイベントなのに」 見た目も行動も俺から見ればクールであるのに、彼女はその見た目に反した 考えをするようで、まさか井ノ瀬の口から魔法だの世界は薔薇色だのと聞かさ れるとは予想していなかった。 「恋のイベントって意味では成功なんじゃないのか」 一応、チョコレートは貰ったような気もするし。 「んー、そうなの?」 井ノ瀬は首を傾げて、その猫のような瞳を俺に向けてくる。 ……本当、からかっているのか本気なのかが判らなくて、俺はどうしたもの かと考えてしまう。 「……家、来るか?」 「え?」 「俺の家だよ」 呼んだからと言って何か思惑がこちらにあるわけでもない。 別に食事をして帰るのでも良かったんだけど。 彼女は、ふっと笑った。 「いいの?」 長い睫毛で縁取られたアーモンドアイを細める仕草は魅惑的なものだった。 「いいけど」 「じゃあ、お邪魔させていただこうかしら」 指を顎に置きながら、井ノ瀬は笑った。 やっぱり、微妙にからかわれているんじゃないかという気持ちにさせられる んだよな……。 魔法だの、義理チョコではない、と彼女は言ったけれど、俺が好きだとは一 言もその口からは聞いていない。 ――――俺自身も。 井ノ瀬が好きなのだろうか? と考えた。 猛烈に欲する気持ちはある。 それは決して性的な意味ではなかったけれど、いい歳をして掴みどころのな い気持ちにさせられるとは思ってなかった。 ただ、触れた唇の感触を思い出すと、熱くなる想いはあった。 ****** 「ふぅん、結構良いところに住んでいるのね」 俺が住んでいるマンションの部屋に入るなり、井ノ瀬はそう言った。 「何か飲むか」 「何があるの?」 「ビールとか」 「飲もうかな」 猫の目がきらりと光る。 「おまえ、ビール好きだよな」 「飲みやすいからね」 冷蔵庫から出した缶ビールを一本彼女に渡すと、キッチンからリビングにす たすた歩いて行った。 飲みやすいって意味だったら、果汁の入ったチューハイ系のほうが飲みやす いんじゃないかとちらっと思ったりもした。 ビール苦くて飲めないの。というキャラクターの女と付き合うことが多かっ たから、やはり俺の目には井ノ瀬はクールな女性にしか見えない。 恋の魔法って言いそうなキャラクターじゃないんだよな。 ソファに座り、ビールを開けてから煙草に火をつけた。 井ノ瀬はビールを飲んでいるだけで鞄から煙草を出さない。 「吸わないのか?」 灰皿を少しだけ彼女に寄せながら俺が言うと、井ノ瀬は小さく笑った。 「今はいいかな、必要じゃないから」 「……必要じゃないって?」 「煙草を理由にしなくても、あなたの傍にいられるから必要ないのよ」 「え?」 「部屋の中、結構シンプルなのね」 「……あ、ああ、ごちゃごちゃしてるの、好きじゃないからな」 「ふーん、うちとは正反対ね」 「散らかってるって意味か?」 「散らかっているっていうか、ぬいぐるみとかいっぱいあるし」 「え?」 ぬいぐるみって、イメージじゃないんだが。 「クッションも地味よね」 ソファに置いてある茶のクッションを見ながら彼女は言った。 「……地味……か?」 「うちにあるのは、ハート柄だもの。あと、アヒル柄」 いよいよからかわれているんじゃないかと思ったが、彼女は表情を崩さない まま、じっとクッションを見つめ小さく溜息をついた。 「この分じゃ、お風呂場にアヒル隊長もいないわね」 「アヒル隊長ってなんだよ」 「アヒルのおもちゃよ」 「おまえの家の風呂にはあるのか」 「あるわ」 「……井ノ瀬さんって何人暮らし?」 「一人暮らしだけど?」 彼女は俺のほうに目を向けながら言った。 「アヒルと風呂に入ってるのか?」 「たまにね」 「本当に?」 「そうだけど、何か?」 イメージ出来ないんだけど。 俺は煙草の火を消してから、彼女を見た。 「さっきの、煙草を理由にしなくても俺の傍にいられるってどういう意味?」 「ああ、私、煙草吸わない人だから」 「え?」 「綾城さんの煙草を吸う姿が好きで……でも、うちの会社って分煙だから」 「俺が吸っているところが見たくて、吸い始めたとでも?」 「うん、まぁ、そんな感じ」 「前から吸ってたって言っていたのに?」 俺の言葉に、彼女はじっと見つめてきた。 「信じる信じないはあなた次第だけど」 「疑っているわけじゃない、だけど自主的に吸いに行っていたときだってあっ ただろ」 「自主的って?」 「シュークリーム貰ったときだよ。あの時は井ノ瀬さんが先に喫煙所に行った だろ」 「……ああ、あの時ね」 彼女は目を逸らして、ふっと笑った。 「あなたが日比野さんを気にしていたみたいだったから」 「ダイエット中だって言っていたからな」 「……綾城さんが他の女の人のことを考えている様子を見ていられなかったの よ」 「考えてるって、そんな大げさなものではないし」 「シュークリームが食べられないのは、彼女だけじゃないのに」 「どういう意味だよ」 「……」 「最近痩せたのと関係してるのか? おまえ、どこか悪いのか」 「んー、病気ではあるわね」 心配していた部分ではあった。 痩せてその美貌に磨きがかかったと言えばそうであったけれど、もともと痩 せていたから病気にでもかかっているのではないかと懸念していただけに、彼 女の言葉に俺は動揺させられた。 「酒とかは飲んで大丈夫なのかよ」 「お酒は、別。飲めば世界がふわふわして、現実から離れられるから」 「現実逃避したくなるぐらい、悪いってことなのか?」 「悪いって言うか……」 井ノ瀬は俺をじっと見つめてくる。 「かかっているのは恋の病だから」 「――――っ、そういう冗談、よせ」 「冗談じゃないんだけど」 「俺は、本気でおまえがどこか悪いんじゃないかとずっと心配していたんだ。 なのに……」 「心配? 綾城さんが私を」 「そうだよ」 彼女は何度か瞬きをしてから、ふっと零れるような笑みを浮かべた。 「嘘……嬉しい」 井ノ瀬の白い頬がほんのりと朱に染まる。 そんな彼女の表情にどうしようもない気持ちにさせられた。 「……井ノ瀬」 自分が気がついたときには、彼女を引きよせ抱きしめた後だった。 井ノ瀬は俺の腕の中で居心地のよさそうな表情をしてみせる。 ああ。 この女は本当に俺が好きなんだろうなと思わされた。 口よりも雄弁な猫の瞳。 その瞳の色が変わるのは、俺の腕の中だったとは。 「おまえ、チョコレート好きなのかよ」 「甘いものは大好きよ。今はさっき食べたチョコのせいで胸焼けしてるけど」 「……今日は無理だけど明日、なんかチョコレートを買ってやるよ」 「ん?」 彼女は顔を上げて俺を見つめてきた。 「一日遅れのバレンタインだよ。逆チョコとか、そういうのがあるんだろ?」 井ノ瀬は微笑んだ。 「私、ザッハトルテがいい」 「ああ」 彼女の白い頬に手を添えて、キスをした。 完全に俺は魔法にかかってしまったなと脳裏で考えていた。 恋の魔法なんて優しそうなものではなく、囚われの魔法に――――。 −FIN−
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