光に透けて茶色の髪がいっそう茶色に輝いている。 ビスクドールの様な白い肌のなかで静かに瞬いている茶の双眸に魅 了される。 カサブランカの様に美しい彼だから、もっと傍で見ていたい。 そう思った。 彼は放課後よく図書室にいる。 それを知っている私も図書室の住民だ。 話し掛けたりはしない。 ただ遠くから彼の姿を眺めるだけ。 それでも満足だった。 こんな想いをなんて言うかは知らない。 感情に名称なんて要らない。 私から見た彼は光そのものだった。 実体化した光が彼なのだから。 美しいなんてありふれた言葉では表現しきれない。 ―――――そんな彼。 ただ見ているだけで十分だった。 それ以上を望むのは、私の役目じゃないから。 実際彼は女性には不自由ない感じだった。 それでも、彼を見ていたかった…。 静かに流れていた時間が終わりを告げる。 彼がノートを閉じ、参考書等を鞄に入れた。 窓の外ではまだ部活動をやっている時間でボールの音や人の声が聞 こえていた。 彼は一瞬だけ窓の外を見てから席を立った。 (ばいばい、池上君) 図書室から出て行く彼に、心の中で呟いた。 鞄の中からアポロチョコの箱を取り出し、一粒ころんと手のひらに 落とす。 (私も帰ろうかなぁ) 口に運べば苺チョコの味が広がった。 彼が居た席に目をやると、薄型の黒い携帯電話があった。 彼の物?置き忘れて行ってしまったのだろうか? それを手に取り、急いで図書室を出て彼を追ったがその姿はもう何 処にも無い。 (どうしよう…) 取りに戻ってくるかもと思い、暫く待ったが彼は来なかった。 仕方がないので、忘れ物として先生に渡して帰ろうかと思った時、 携帯が光った。 ****** 「ありがとう、助かった」 学校に引き返してきた彼に携帯を渡す。 彼は私服だったので、一度家に帰ったのだろう。 「うん…どうしようかと思って先生に渡して帰ろうかと思っていた んだけど」 「あー、それは拙い。ヤバイメールとかあるから」 彼は笑って携帯をポケットに仕舞った。 「やばいメール?」 私の言葉に池上君は笑った。 「先生に渡さないでくれたお礼に何かおごってやるよ月嶋さん」 「え?なんで…私の名前…」 「さぁ?」 池上君は首を傾げて笑った。 さらさらの前髪が茶の双眸の前で揺れる。 「で、何が良い?」 「あ…ううん、何も要らない。そんな大した事してないから」 「でもなぁ、なんか貸し作ったみたいで嫌なんだよね」 「池上君が嫌なら…何か奢られるけど」 彼はククッと笑う。 「君こそ、なんで僕の名前、知ってるのかな」 「え…あ、うん…なんで…かなぁ」 「まぁいいけど、とりあえず…駅ビルにでも行くか?」 「駅ビル?私、コンビニのチョコレートで良いよ」 「チョコ好きなの」 「うん」 彼は少しだけ目を細めた。 「でもなぁ、僕はお腹が空いてるんだよね」 「そうなの?」 「君は空いてないの」 「多少は、空いてるけど」 「じゃ、決まり。なんか喰おうぜ」 初めてちゃんと聞く、池上君の声。 ビスクドールの彼の声は高くもなく低くもなく、耳の鼓膜を優しく 震わす聴き取りやすい声だった。 駅ビルの中にある、イタリアンレストランに連れて行かれる。 テーブルには白いクロスが掛けられ、小さなグラスの中でキャンド ルの炎が揺らめいている。 「ここ…ちょっと高くないかなぁ」 「お金はあるからご心配なく、さて何を食べる?」 「え、えっと…」 メニューを開いてみても、ちょっと気安く奢られるという値段では 無かったので眉根が寄ってしまう。 「やっぱり、高いんだね」 「気にせず好きな物喰えよ」 「…う、うん…じゃあ」 一番安そうなやつで。 「きのこのバジルスパゲティーにしようかな」 「本当にそれが喰いたいわけ?」 彼は頬杖をつきながらじっと私を見る。 「だ、だって、こういう所来た事ないし、何が良いか判らないよ」 「そう?だったら」 ひょいっとメニューを取り上げて彼は笑う。 「ディナーコースで良いんじゃない?それなら色々喰える」 「ディナーコースっていくらするの?」 「さぁ?」 池上君は笑いながら手を上げると、お店の人がやってくる。 「ディナーコースね」 「かしこまりました」 じっと彼を見ると、池上君は微笑んだ。 「ここの料理はどれも美味いよ」 「携帯ひとつで、ディナーコースって高すぎると思う」 「うん、まぁそんな事よりさ、君は何でいつも図書室に居るの?」 突然核心に触れるような事を彼は言ってくる。 「…お勉強、だよ。私あまり成績良くないし…」 「だったら塾でも行った方が効率良くね?」 「それは…そうかも知れないけど」 「お目当てがあるんじゃないの?」 彼は背もたれに体重をかけるようにしてから腕を組む。 私が、彼を見ていた事がばれているのかと思い、俯いてしまう。 「ごめん…なさい」 「何で謝るの」 「迷惑、だったのかなって思うから」 「迷惑って?」 「見てるの」 「別に僕は迷惑じゃないし、僕が何か言う権限もないけどさ」 ふっと彼は笑った。 顔を上げるとまた彼は微笑む。 「図書室からは、部活動の様子が見える。サッカー部とかさ、誰を 見てるのかなって思ってね」 グラスに注がれた水を飲みながら彼は言う。 池上君を見ている事がばれているんじゃないと思えて私はほっとし た。 ほっとしたけど、見ていると言ってしまった以上今更何も見ていな いとは言えない。 「…誰を見てるとかは、女の子の秘密だから言えないよ」 「ふぅん、秘密ねぇ」 「池上君にだって隠しておきたい事とかあるでしょ?」 「それはまぁそうだな」 彼が綺麗に笑った所で前菜が運ばれてきた。 うすくスライスされたタコのカルパッチョ。 「あ、美味しいね」 「だろ?」 「うん」 表情を変えないと思っていたビスクドールがキラキラと、微笑んで いる。 唇の形とかが本当に綺麗で見ていたいと望む心が強くなってしまう。 でも。 見るんだったら彼からは私が見えないところが良い。 例えばマジックミラー越しだとか。 見ていたいとは思うけど、見られたいとは思えない。 彼の綺麗な瞳に美しくない自分が映るのは、耐え難い事だったから。 「ごちそうさまでした」 「うん」 「池上君は電車?」 「いや、僕は寮に入ってるから」 「あ、そうだったんだ」 「うん」 「じゃあここで、私は電車だから」 「あぁ、またね、月嶋さん」 私は小さく彼に手を振って改札をくぐった。 ”また”は無い。 もう図書室には行けないと思った。 私があなたの事を知っててもあなたは私を知らないで居て欲しかっ た。 ****** 「みのり、最近図書室には行ってないの?」 友人の香穂がそんな風に言ってきた。 毎日通っていたのに急に行かなくなったので不思議に思っているの だろう。 「うん、お勉強飽きちゃった」 「そう」 池上君のクラスは本館にあり、私のクラスは別館にあるので会いた くないと思えば、本当に会わずに済む。 教室の窓の外から景色を眺める。 『誰を見てるのかなって思ってね』 彼の声が心に響いて、心の中にある水面を揺らした。 あなたを見ていました。 そんな風には言えない自分、言わない私。 美しい大輪の花、カサブランカな彼。 言っても言わなくても、彼との接点を断ってしまうのであれば、冗談 っぽくでも言えば良かったのかな。 ”あなたを見ている時間が一番好きです”と。 ―――――そんな真実を。 「月嶋さん」 下駄箱に向う途中で、声を掛けられ振り返ると、其処には池上君が 居た。 「久しぶり、最近図書室来ないんだね?」 綺麗に笑って彼は言った。 その笑顔が、綺麗で眩しすぎて涙が零れそうになる。 「うん…行く理由が、無くなっちゃったから」 何も考えずにそう言うと彼は驚いた様な顔をした。 「んー…そう、か」 一瞬真顔になってからそれから又微笑み、言う。 「そうだ、手を出して」 「え?こう?」 言われた通りに手を出すと、彼は鞄に手を入れてチョコレートの箱 を私の手の上に乗せた。 「…あの」 「好きって言ってただろ、チョコレート」 それこそ花の様に彼は笑う。 その笑顔と言葉に心を鷲掴みにされた。 確かに好きだと言った。 そんな私の言葉を、今日まで覚えていてくれたのかと思うとどうし ようもなくなる。 「月嶋さん?」 涙が溢れて、ありがとうの言葉すら言う事が出来なくなった。 「どうして、泣くの」 彼は笑いながら言う。 それから彼はグレーチェックのハンカチで私の涙を押さえてきた。 「よ、ごれちゃうから」 「構わないよ、それに涙は汚いものじゃない」 見上げると、少しだけ首を傾けて私を見詰めた。 さらりとした前髪が、綺麗に輝く双眸の前で揺れる。 ”もっと傍で見ていたい”と望んだ瞳がすぐ傍にあった。 「悲しい事でもあったのか、もしかしてそれを思い出させてしまっ た?」 私は首を振る。 「じゃあ、どうして泣くの?」 彼は私の頬をハンカチで押さえながら言う。 ハンカチ越しに彼の温度が伝わってきそうだと思えた。 「チョコレート、くれたのが嬉しくて」 そんな風に私が言うと、彼は難しそうな表情をする。 「―――――こんなチョコレートひとつがそんなに嬉しいのか」 「嬉しいよ、池上君が…私の言葉を覚えていてくれた事、が」 「…え?」 言い終わって私は逃げる様にして階段を駆け下りた。 痛い、痛い。 心が痛い。 ぎゅうぎゅう締め付けられる痛みに身体が震えた。 苦しくて堪らないのに捨てたいと思う感覚ではなかった。 指先までもが甘く痺れる感覚。 心が支配されるという事は、こういう事なのではないかと思えた…。 -NEXT-