■■あなたの居る場所 17■■



私は大学を辞める事を決意した。
景ちゃんにとって、私はもう存在するだけで苦しいものでしかないから。
彼の前から消えていなくなろうと思った。

そして、透也からも―――――。

みっともなくて恥ずかしい。
彼の前で醜態を晒した。
自分が招いた出来事だったのに、透也を巻き込んだ。
自分一人で処置をして貰うべきだった。
私は何て無知だったのだろう。
オトナなのに、泣く事しか出来ずに。
誰かに依存しなければ生きていけない弱い私を、もうこれ以上彼に知られたく
なかった。

親に大学を辞める事を話したら呆れられた。
理由は勉強についていけないからと話したからだ。
それで一体これからどうするつもりかと問われた。
…働いて、自立出来る様に頑張ると私は言った。
今すぐは無理でも。
私は親に借りて貰っていた部屋を引き払い、兄の所に身を寄せる事にした。
実家に戻れば景ちゃんが来るかもしれなかったから。

『ごめんなさい』

私はそう書いた手紙と共に、透也に与えられた携帯電話と部屋の鍵を彼の家の
郵便受けに入れた。
透也にもう逢えないのかと思ったら涙が溢れた。
だけど彼に蔑んだ目で見られるよりは、こうした方がマシだと思った。

******

「…お兄ちゃん、ごめんね」
私は彼を見上げた。
お兄ちゃんは私に紅茶を入れてくれる。
「本当は何があった?俺には話してくれる?」
お兄ちゃんは優しく微笑んでくれる。
この5つ年上の彼は何時でも私には優しかった。
私はこういう人たちに囲まれて育った。
透也が言う様に、私は本当に”温室の花”なのだと痛感させられる。
「恋愛関係のもつれ…」
「…恋愛って…おまえ確か、景と付き合っていたよな?」
「うん」
「どうした?浮気でもされたか?」
私は首を振る。
「浮気したのは私のほう」
「おまえが浮気?」
お兄ちゃんは一瞬固まって、吸っていた煙草の灰を落としそうになっていた。
「…私、景ちゃんやお兄ちゃんが思っている様な女じゃないんだよ、どうしよ
うもない淫乱な女なの」
「おまえの口から淫乱って言葉を聞くとは思わなかったね」
お兄ちゃんは苦笑いをして煙草の灰を灰皿に落とした。
「だけど、愛してた」
涙が零れる。
私はやっぱり泣く事しか出来ない女で…。
「…誰を?」
「透也…」
「とうや?」
「透也ってね、同じ学部の人で、凄く綺麗な人で、勉強しながら夜はホストを
やってる人なの」
「ホスト?おまえ…それ、騙されてたんじゃないの?」
「違うよ、騙していたのはきっと私の方、私の何かが彼を騙していて彼を勘違
いさせてたの。私を想う気持ちが愛だって」
「…」
「だって私は彼に愛して貰えるような人間じゃないんだもん…綺麗じゃないし
気が利いた事も出来ないし、自分の事も自分で出来ない様な、そんな人間だか
ら」

子供を堕ろすなんて言葉を彼に言わせた。
そんな事だって、自分で考えなければいけなかったのに。

「なんにも無くなっちゃった…」

私は無理に微笑もうとして、それが出来なくて、やっぱり涙が零れた。
「当たり前だよね、私は景ちゃんを裏切って、哀しませて苦しめて、それで幸
せになろうなんて…出来るわけがなかったのに」
「みのり…」
お兄ちゃんが私の肩を抱いてくれる。
私はその胸に縋って泣いた。

だけど愛してた。
多分もう一生忘れられない人。

数週間後、生理が来た。
私は、ほっとした。

******

それからの私は、花屋でバイトを始めた。
不慣れな事が多くて失敗ばかりしているけれど、オーナーさんは優しく指導し
てくれる。
ネオン街が近い場所にあるのでバーやスナックに花を配達する事もしばしばだ
った。
ホストクラブも見える。
だけどこの辺りのホストクラブは営業時間が深夜1時ぐらいからなので、花の
配達には行った事が無かった。うちのお店は夜8時までだったから。

「ねぇーちょっとぉ」
お客さんがやってくる。
水商売風の女性だ。
「いらっしゃいませ」
「胡蝶蘭の鉢植え、あるかしら?」
「ありま…ご、御座います」
「一番大ぶりなのを頂戴。で、それをココに届けて欲しいんだけどぉ」
「あ…はい」
渡された名刺を見ると、フェイクタウン・ヒカルと書かれていて、住所も明記
されている。
フェイク…タウン…。
「ヒカル様へって入れておいてね、目立つ様に。そこの営業時間、7時からだ
からその前には配達済ませておいてね」
「…」
「ちょっとぉ、聞いてるの?」
「あ、はい…すみません」
「忘れずに届けてよ?今日は彼のバースディなんだから。そのイベントに私か
らの花が無かったら恥ずかしいわ」
「今日、ヒカルさんの誕生日なんですか?」
「そうよ?何?あなたヒカルを知ってるの?」
「あ…あの…有名な方なんで」
「とにかくちゃんと届けてね?頼むわよ」
「判りました」

……今日、透也の誕生日なんだ……

私は6時にフェイクに着く様にお花を持っていく。
透也は家を6時過ぎに出ているから、この時間なら彼には逢わない。

「すみません。お花の配達に来ました」
「はーい」
店内の掃除をしていた男性が私に近付いてくる。
お店の中にはお花がいっぱいだった。
全部ヒカル宛のもの。
「アレ?みのりさんじゃないですか?」
そう男性が言った。
よく顔を見ると、その人は朔さんだった。
「あ…朔さん…お久し振りです」
「お花屋さんになったんだ?」
「はい。えっと…これ…ヒカルさん宛です」
「ひゃー見事な胡蝶蘭だなぁ、流石ヒカルさんだ」
彼は感心した様にそう言って私から鉢植えを受け取る。
「あの…ヒカルさん…今日お誕生日なんですってね」
「うん、そう。今日は大イベントだよNO.1の誕生日だからね!お店の中は
ヒカルさんのお客さんで埋め尽くされて今日は一体何本ドンペリが入るかなぁ」
「……」
今の私には、彼におめでとうと言う権利も資格も無い。
「じゃあ、あの、失礼します」
「うん!また香穂さんと一緒に遊びに来て下さいね!」
「はい…朔さんも、頑張って下さい」

私はそう言ってフェイクタウンを後にした。

透也…

涙がじわっと瞳に滲む。
彼の生きている世界から遠く離れた今でも、やっぱり彼が愛しくて、一目でも
いいから彼を見たいと思ってしまう。
彼の手が、温かかったから、私は忘れられずに…

******

翌日、花屋の閉店作業をしていると、お兄ちゃんが訪ねてきた。
「あれ…お兄ちゃん、どうしたの?」
「得意先回りでこの辺に来たから一緒に帰ろうかと思って」
「お兄ちゃんも遅くまでご苦労様です」
「ああ、じゃあみのりちゃん上がってくれて良いわよ」
「すみません、それじゃあお先に失礼します」
私はエプロンを外して、お兄ちゃんと一緒に店を出た。

「どう?仕事には慣れた?」
「うーん、まぁぼちぼちかな」
「大変なんじゃないの?今まで働いた事なんてなかったから」
「でも、良い勉強になってるよ」
「そっか」
「…お兄ちゃん、ごめんね」
「うん?」
「なるべく早く、部屋を出るようにするから」
「そんなの気にするなっておまえみたいな妹は手元に置いておいたほうが余程
安心だ」
「…お兄ちゃん」
私はお兄ちゃんの腕に自分の腕を絡ませた。
「ごめんね、こんな妹で」
「ばーか」
お兄ちゃんは、くしゃっと私の頭を撫でた。
誰かに依存せずに生きられる様になれたらいいのに…。
涙が零れた。
「何泣いてるんだよ」
お兄ちゃんが肩を抱いてくれる。
「私…オトナになったのに、全然大人になりきれてない」
「成人したからって、そうすぐに大人になれる物でもないよ」
お兄ちゃんの腕が温かかった。

それから近所のスーパーに立ち寄って、私達は帰宅した。
予約してあった御飯がきちんと炊けている。
「今支度するね」
「ああ、頼むよ。疲れているのに悪いね」
「コレぐらい居候させて貰っているんだもん当たり前だよ。レパートリーは少
ないけどね」
キャベツをまな板の上に置いた時、インターフォンが鳴る。
「…お兄ちゃん、誰か来たよ」
上着を脱いでいるお兄ちゃんに向かって私は言った。
「んー?誰だ?こんな時間に新聞の勧誘か?」
お兄ちゃんはそう言いながら玄関の扉を開いた。
「…どちら様?」
扉が、がんっと開かれる。
私はその物音に驚いて、玄関を覗き見た。

―――――玄関には、透也が立っている。

私の姿を確認した透也が無表情な瞳で私を見た。
「…ちょっと、来てくれない?」
彼は私を呼んだ。
冷えたその声に、私は震え上がる思いだった。
「なに?君…みのりの何?」
「”みのり”…ね」
透也はそう言うと、お兄ちゃんを睨んだ。
「今は貴方には用事はない。みのりを出して貰える?」
「だから、君は誰って聞いているの」
「…お邪魔させて貰うよ」
透也はそう言うとお兄ちゃんを押しのけて部屋に入ってきた。
まっすぐ歩いてきて、右手を私の首にかけると私の背後にあった冷蔵庫に私を
押しつける。
「ん…く…」
「君…僕に殺されたいみたいだね?」
透也の指が私の首に食い込んでくる。
「おまえ!なんだよ、何やってるんだ!」
お兄ちゃんが私達の間に割って入ってきて、透也の手が私の首から外れた。
「…けほっ…」
「みのり、大丈夫か!」
透也は台所のまな板の上に置いてある包丁をちらりと見る。
「…みのり、刺し殺されるのと、絞め殺されるのと、どっちがいい?」
彼はふっと笑ってそう言った。
お兄ちゃんは私を背に隠して言う。
「みのり、逃げろ」
逃げる?
何処へ?
彼が居る世界から逃げ出してきて、これ以上何処に逃げるって言うの?
私は透也を見上げた。
冷たい瞳で見下ろしてくる彼だったけれども、私の胸は愛しさでいっぱいにな
っていく。
「とう…やぁ…」
苦しかったよ、貴方の居ない世界は。
どんな色も私の目には映らなくて、ただ透明の世界が広がっていて。
これから先も貴方が居ないのかと思ったらやっぱり苦しくて
ひとりで生きていくなんて
貴方が居ないのに、生きていくなんて

そんな世界、私は要らないの

それを透也が終わらせてくれるのなら、私は―――――

「私、死ぬ。透也に殺されて死ぬの」
「み、みのり?」
お兄ちゃんが驚いた声を上げる。
透也が目を細めた。
その瞳はパープルで
お兄ちゃんは少し狼狽えたように、だけど深呼吸をして言った。
「ちょっと、おまえら、落ち着け、殺すとか殺されるとか、その前に何か話し
合え」
そう言ってお兄ちゃんは透也を見る。
「君、トウヤって人?ホストの?」
透也は瞳だけを動かしてお兄ちゃんを見た。
「僕がホストだからって何?それであんたの方が偉いとでも言うわけか?」
「そうじゃない。君が何者かを確認しただけだ」
透也がピリピリしているのはその様子だけでも判った。
触れてくるものを壊してしまいそうな勢いだった。
「とにかく座って話合おうよ」
「何を話すって言うの?僕に話す事は何もないよ」
「…君は、みのりをどうするつもりだ?」
「それを何故あんたに答えなければならない?」
「俺はみのりの兄だからだ。彼女を守る義務がある」
「兄?」
透也はお兄ちゃんをじっと見て、それから小さく息を吐いた。
「…あぁ、そういえば5つ上の兄が居ると…言っていたな」
「そうだ。俺はみのりの兄だ」
透也がふっと笑った。
「僕は…新しい男なのかと思ったよ」
私は透也を見上げる。
私がどうして貴方以外を愛せるの?
涙が溢れた。
「透也が居なくても生きていけると思った。生きていかなきゃいけないんだっ
て思った。だけど私の心は貴方の名前を聞いただけでも反応するの”ヒカル”
って貴方のもうひとつの名前でさえ…」
「どうして僕の前からも消えた?」
「傍に居られないって思ったから」
「何故?」
「私は、透也には相応しくないから」
「そんなの誰が決めた?」
「…だって私は、自分の事も自分で出来ない、誰かに寄りかかっていなければ
立っていられない様な、そんな人間だから」
そう言って私が泣くと、透也が溜息をついた。
「だから、これから先は僕が君を守ると、言ったじゃないか」
「私はこれ以上透也にみっともない姿を見られたくないの。貴方に…呆れられ
て、蔑まれたくないの」
「……」
「透也が見ていた私は幻想の私で、現実の私じゃない。そうでなかったら透也
が私なんかを好きになるわけがないもの。私が貴方に愛される要素なんてひと
つもないの」
「僕は君が君だから愛しているのだと言ったよね?僕の言葉はそんなに信じら
れないの?僕が君無しでは生きていけないと言ったのを嘘だと思っているの?
君はまた、自分だけが苦しい思いをしていると思っているの?君が居なくなっ
てから僕がどれほどの思いでいたか、君は考えてくれた事はあるのか?」
「透也…」
「…生きていたくないと、僕は思ったよ」
透也は目を伏せて、少しだけ笑った。
「ねぇ?どうしても僕から離れたいと言うのなら君が僕に言ってよ、”死ね”
って」
「…」
「そうしたら、君を解放してあげる。もう二度と君の前には現れない」
「透也が死ぬのは嫌だよっ」
「…だったら、傍に…居てよ」
透也の紫色の瞳から、ぱたぱたっと涙の雫が宝石の様に煌めいて落ちていった。
「僕は、君の居ない世界では生きられない」
「…透也」
「君無しでは生きられない」
私は透也に近寄り、手を伸ばし、彼をぎゅっと抱きしめた。
透也は私の肩に顔を寄せた。
「…帰ってきて…僕の所に」
「透也…透也…」
私は強く強く彼を抱きしめた。
彼の温もりが離れていかない様に。
「何も無い僕に、君が教えて。生きていて良いと、君が許して」
透也はそう言って、その腕で私の身体を包み込んだ。
離れられない、透也からは…
私達は強く抱きしめ合った。
もう二度と、離れないと約束をする様に。

******

それから私は、透也と一緒に暮らす事になった。
親に反対されると思ったけれど、お兄ちゃんが間に入って説得をしてくれた。

景ちゃんとはあれから会っていない…
ごめんねと私は呟いた。
それから私を愛してくれてありがとうとも。

「…みのり」
彼が優しく私を呼んで抱きしめてくれる。
この腕を私は信じたい。
透也は私の頬に短く口付けて、ふっと笑った。
「みのり…か、”実り”とは…良い名だね」
背中にある彼の温もりを感じながら私は彼に問い返す。
「”透也”っていう名前にはどういう意味があるの?」
「知らない。僕の、母が付けてくれた様だが」
「お母さんに聞いてみた事ないの?」
「僕は母に逢った事がない」
「…え…そうなの?」
「僕を育ててくれた人から貰った写真だけでしか母を見たことがない」
「…」
「母は日本人とアメリカ人とのハーフでね」
「透也ってクォーターなの?」
「そう。だから他の人間よりも色が白く、髪は金色に近い色で、瞳も色素が薄
い茶色。全て母親譲りなんだ」
「お母さんは…生きているの?」
「生きていると思う、だけど、僕は母に望まれずに生まれた子供だから、生ま
れてすぐ彼女の手から離された」
「…」
「西園寺物産っていう会社知ってる?」
「え?あ…うん、知ってるよ、よくコマーシャルとかもやってる大きな会社だ
よね?」
「僕の”チチオヤ”はそこの会社の社長だ」
「え、そ…そうなの?」
だとしたら透也は有名企業の御曹司という事だ。
でも名字が…あそこの社長の名字は会社名そのままに西園寺といった筈だ。
「そこで、”チチオヤ”が再婚していないという話になるんだけど」
「あ、うん」
「母は西園寺の愛人なんだ。正妻じゃない、西園寺の正妻は別に居る。つまり
は”アニ”の母親と言う事なのだけど」
「…」
「僕は愛人の子だから、”アニ”よりも優れていてはいけない。だから大学は
日本最高峰と呼ばれる大学に行く事は叶わなかった」
「そうだったんだ…」
「西園寺は僕の事を認知はしている。だから生活費やその他お金のかかる事は
全て彼が出してくれている。お陰でお金に苦労をした事はない。恐らく、母も
喰うに困る生活はしていないと思う」
「…お母さんに逢いたい?」
私が訊くと、透也は短く息を吐いた。
「そうだね…逢って…どうして要らない子供なら産んでくれたのかと聞いてや
りたい」
「だから、透也は…私に要らない子供なら堕ろしてあげてと言ったのね?」
「うん…僕にはそんな風にしか言えなかったから…そんな風に生まれた子供が
どれだけ不幸かを僕は知っているから」
「…透也…」
透也は私の肩に顔を埋めた。
「僕は…長い間一人だったよ」
「…」
私はそっと透也の頬に触れる。
その手に透也が手を重ねてきた、愛おしそうに頬を寄せながら。
「…君に出会うまでは」

私は透也と生きていく。
彼の隣で生きていきたい。

そして私はもっと、本当の意味での大人になって、彼の悲しみや寂しさを判る
人間になりたいと思った。

透也の居る場所に私はずっと居たいから

あなたの居る場所、それが私の居場所だから。


−END−

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