『お兄ちゃん、こっち、こっちだよ』 ツインテールに真っ白いリボンをつけた少女が手を振っている。 彼は少女に向かって走っていく。 『由眞のコックピットだよ! カッコいいでしょ?』 公園内にある木の枝で囲われた小スペースを、彼女はコックピットと言った。 『ブルーインパルスが一番大好き』 思い出の中の彼女が言う。 あぁ、またあの子の夢だ、と柊吾は思った。 彼女の手が、すぐ傍にある。 (握りしめたら、離さない) 手を伸ばそうと腕を伸ばした瞬間、夢から覚める。誰かに身体を揺すられた。 揺すった相手はブルーインパルスの平野《ひらの》隊長だった。 「うたたねしてるとこ悪かったな」 「……ええ、本当です」 柊吾《しゅうご》は鬱陶しげにゆっくりと瞼を開ける。 あぁ、また捕まえられなかった。 「昼休みに、何の用事ですか?」 「来週の飲み会、おまえ参加出来るかなと思って」 「……はぁ、まぁ、参加できますけど」 伸びをしながら言うと、寝不足なんだなぁと平野隊長が言う。 「寝不足というか……追いかけっこしてる夢を見ていたんで」 「フーン?」 いつか再会したいと思っている少女の夢。 だが、夢が覚めるたびに、どっと疲れが出る。 何故なら、いつも彼女を捕まえられないからだ。 (あの子のことが忘れられない。何年経っても) むしろ、時間が経てば経つほどに、会いたさや、恋しさが募る。 たった一度しか、会ったことのない子なのに――――。 遠い昔のことだ。 柊吾はため息をついた。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 『あなたは、自分の好きなことをしていいのよ。柊吾《しゅうご》』 赤坂《あかさか》家の三男、柊吾が中学受験を控えたある日、母親の舞子《まいこ》は真っ白い花瓶に色鮮やかな花を生けながら、そんなことを彼に言った。 『……それは、どういう……意味ですか? お母様』 柊吾には六歳年上の兄の藤吾《とうご》と、三歳年上の兄の桜吾《ようご》のふたりの兄がいた。 そのどちらも帝王大学病院《ていおうだいがくびょういん》の院長である、父親の冬樹《ふゆき》の仕事を継ぐために医者を目指しているというのに、何故自分にだけ自由にしていいなどと母は言うのだろうか? 今歩んでいる道は、柊吾にとって“当たり前の道”ではなかったのか? と柊吾は疑問に思った。 『柊吾は、他に何かやりたいことはないの?』 舞子は柊吾の質問には答えずに、話を続けた。 『ぼ、僕は……医者になりたい……です』 『お兄様たちが、医者を目指しているから?』 『そうです。僕も、お父様のお役に立つ仕事に就きたいと、思っています』 柊吾がそう言うと、舞子は朗らかに微笑んだ。 『そう。でもこの世の中、医者だけが仕事ではないわ。柊吾が本気で医者を目指しているなら私は何も言わないけれど、でも、もしもいつか、他にやりたいことが出来たら、必ず言って欲しいの』 『……わかりました』 このとき、柊吾は小学校六年生で、他人の言動を詮索できる年齢でもなかった。 だから舞子の言葉は、彼を不安にさせた。 ――――兄たちの後を追い、同じ道を進むのがベストだと思っていた。 今の今まで、そのことに対して誰も何も言わなかった。 もちろん、母も。だから何故急に母がそんなことを言い出したのか、という気持ちが大きかった。 もしかしたら自分は父や母から見て、医者に向いていないのだろうか? そんなことがあってから深く悩みもしたが、歩んでいる道を軌道修正することなく、 名門中学校に入学することになった。全寮制の中学校だったから、かつて兄たちがそうであったかのように、柊吾は一人この町を出ていく。 とうとう、この町とも今日でお別れだな――――と、柊吾は心の中で呟いた。 特に好きな町というわけでもなかったし、仲の良い友達がいたわけでもなかったから、離れることに対しては何の感情も湧いてこなかった。 それは彼が、帝王大学病院の院長の息子という理由で、クラスメイトが対等に接しては来ず、柊吾もまたそんなクラスメイトたちに自ら歩み寄ることもしなかったから、心を開ける友人ができなかったのだ。 ――――彼にはよくわからなかったが、尊敬の念とでもいうのだろうか? 『赤坂くんもお医者さんになるのよね? 凄いよねぇ』 周りはチヤホヤと柊吾を持ち上げたが、凄いこと――――とは、柊吾は思ってはいなかった。 彼にとって、当たり前の道だったから。 彼は昨日まで通っていた小学校の通学路にある、シロツメクサの花が生い茂っている公園に立ち寄った。 幼い子どもたちが、ブランコやジャングルジム、すべり台などの遊具で楽しそうに遊んでいる。 (公園で遊ぶことも、しなかったな) 柊吾の母、舞子は花が好きで、フラワーコーディネーターの資格を持ち、自宅で教室を開くほどではあったが、シロツメクサのような野の花には、興味を示さなかった。 野の花が好きであったのならば、母は自分を連れてこの公園に来ただろうか? 例えようのない感情が、柊吾の心の中に広がった。 (なんだろう……この感じは) 医者への道を、否定されたような気持ちにさせられたあの日から、柊吾の心の中は霧がかかったようになっていた。 いっそ、向いていないだとか、能力が足りないだとか言われたほうが、まだましだったかもしれない。 いったい自分には、何が足りないのだろうか? わあぁっと、子どもたちがはしゃぐ声が一層大きくなった。塩化ビニール製のボールを蹴って遊んでいる。 (この公園は、ボール遊び禁止だったはず……) 立て看板にもそう書いてある。 子どもたちの親らしき大人もいるのに、誰も注意しない。井戸端会議に夢中になっている様子だった。 小さい子供も遊んでいるのに――――柊吾が注意をしようと口を開きかけた瞬間、水色の塩化ビニール製のボールが、花摘みをして遊んでいる少女の背中に、ボンッと大きな音を立てて当たった。
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