休日に買いに行くチョコレートの数を確認する為に、私は手帳を開いた。 今年も――――。 彼にはチョコレートをあげられないのだろうかと考えた。 魔法をかけたい相手。 一番チョコレートをあげたい人なのに。 今年はほんの少しだけ勇気を出してみようか。 義理チョコだと笑って言えば受け取ってもらえるだろうか? ---------------------------------------------------------------------- 街がざわついているような感じがした。 通勤途中の電車で見かけた、女性が手に持つ紙袋に何故か苛ついてどうしよ うもなかった。 井ノ瀬も同じように紙袋を持っていて、その中には義理ではないチョコレー トが含まれているかもしれないと考えたら。 すましたような猫の目が、違う色を光らせて見るものがあるかもしれないと いう考えに及んだとき、胸が焦げるような感じがしてしまった。 会社に着くと井ノ瀬はデスクにいた。 「あっ、綾城さん、おはようございます」 日比野が声をかけてきた。 「ああ、おはよう」 視線を落とすと彼女の手にはリボンのかかった包みが。 「受け取らないって毎年の流れで判っているんですけど、今年はどうかなぁっ て思って持ってきました。勿論、義理チョコです」 「……」 まわりの視線が痛いように感じた。 滅茶苦茶注目されている。 左隣の井ノ瀬も、こちらをじっと見ていた。 ――――受け取れよ。とでも言わんばかりの視線。 俺は小さく息を吐いた。 「……お返しとか、しないからな」 「はい!」 日比野から渡された小さな包み。 受け取ったはいいが、なんだかやっぱり重たい感じがした。 「今年は受け取る方針に変えたの?」 頬杖をつきながら井ノ瀬が言う。 「そんなんじゃない」 鞄の中にチョコレートをしまい込んだ。 その後、井ノ瀬が男性社員にチョコを配り歩く姿は見られず、もしかしたら 俺が出勤する前に全部配り終えたのかとか色んなことを考えた。 他の連中に井ノ瀬から貰ったかどうかを確認するなんてことが出来る筈もな く、もやもやとした気持ちのまま、彼女と外回りに出ることになってしまった。 一度ロッカーに行って戻ってきた井ノ瀬の手には紙袋が提げられていた。 「何だよ、それ」 「チョコレートよ。取引先の人には渡さないとね」 「社員には?」 「それは日比野さんの役目」 彼女は小さく笑った。 「今日は、確か、三社まわるのよね」 「……別にクライアントにチョコレートなんていらないんじゃないのか」 「女が来たら、相手は多少なりとも期待するでしょ? 今日行くところはお付 き合いが深い相手だし。シュークリームの社長のところにも行くじゃない?」 「くだらないイベントだな、まったく」 「お歳暮、お中元みたいなものよ」 お歳暮やお中元に愛情込めたりするのかよ。 そう言いかけてさすがに大人げないと思い、言葉を飲み込んだ。 彼女からのチョコレートを嬉しそうに受け取るクライアントにさえ、俺は苛 ついてしまった。 たかがチョコレートだろ。 何、笑ってるんだよ。 相手も、井ノ瀬も。 ――――猫の目の色が変わるとき。 心の中に毒が溜まっていくような感じがしてならなかった。 「今日も直帰ね」 「……時間かけ過ぎなんだよ」 「悪かったわね」 薄暗い空。 アスファルトに響くパンプスと革靴の足音。 「……お詫びに、綾城さんにもあげるわ」 「え?」 「チョコレート」 そう言って彼女は紙袋から箱を取り出した。 クライアントの連中に配り歩いていたものとは違うパッケージ。 箱にリボンがかけられていて、猫が舌を出している絵がそこには描かれてい た。 ――――ふと。 ばかにされているのだと思った。 三匹描かれている猫全部が金色の舌を出している。 ふざけるな。 毎年チョコレートを受け取らないのに今年は受け取って意志の弱い男だとで も言いたいのか? 笑いたいのか? 「……いらない、そんなもん受け取れるか」 踵を返し、歩き始める。 アスファルトの上に響くのは革靴の音だけ。 振り返って彼女を見ると、その場に立ち尽くしている。 やがてリボンを解き、中のチョコレートを取り出して食べ始めた。 「……おい」 「可愛いなぁって、思ったんだけどな」 長細い形をしたチョコレートを指でつまむ。 「猫の舌の形なんだって」 「井ノ瀬」 「美味しいのにね」 気まぐれ屋にも見える猫のような瞳が、その色が、変わったような気がして 俺は彼女の傍に駆け寄った。 「義理チョコだって、日比野さんみたいに笑って言えば受け取ってもらえた?」 「……」 「うん……でも、私、そんなふうには言えないよ。だって、義理じゃないもの」 「井ノ瀬?」 「渡すのはチョコレートだったけれど、本当に渡したい物は違ったから」 「どういう意味だ」 彼女は黙ってチョコレートを食べ続ける。 「井ノ瀬」 猫の目が静かに俺を見上げてきた。 「受け取る気がないのに、聞いてどうするのよ」 くすっと彼女は笑う。 「……最後の一枚か」 チョコレートをつまみ上げ、ぽつりと井ノ瀬は言った。 「今年も魔法、かけられなかったな」 彼女の言葉はまったくもって意味不明だったけれど、俺は井ノ瀬の細い手首 を掴み、その手に持つ猫の舌の形をしたチョコレートをかじった。 「貰えばいいんだろ! 貰えば」 猫の目が丸くなり、それから意地悪い色へと変化した。 「ばかね、魔法、かかっちゃうわよ」 「意味が判らないんだよ」 彼女が手に持つ残りの破片も残らず口に入れ、井ノ瀬の体温で溶けたチョコ レートもその指ごと舐めてやった。 「ん、も……やらしい」 井ノ瀬は、ふっと笑った。 「あなたのせいで三年もの間、私はセックスしてないの、火がつくのは簡単よ? ねぇ、どうしてくれるの」 「抱けと言っているのか」 彼女は瞳を細めた。 「身体だけならいらない」 「……」 「触れることだけが目的なら、現状と大差ない。今だって私は幸せだもの、あ なたがそこに存在しているだけで世界は薔薇色なの。触れることで血の涙を流 すぐらいなら触れないほうがいい」 井ノ瀬はふっと笑って顔を伏せた。 「臆病者なのよ、私は」 俺は彼女を引っ張り、自分の腕の中に抱いた。 井ノ瀬の身体を抱いた途端、それまで苛々としていた気持ちが蒸発するよう に消えていった。 「……魔法、かかっちゃった?」 「だから言ってる意味が判らないんだよ」 「恋の魔法よ」 愉快そうに笑う彼女。 からかっているのか本気なのかまったく判らない。 「魔法って魔女かよ」 俺の言葉に井ノ瀬はちらりと見上げてきた。 「女の子は皆、恋の魔法使いなのよ」 ああ、まったく、意味不明だ。 それで結局なんなんだよ。 彼女も、そして俺も――――。 「チョコレート、全部、貰うぞ」 「え?」 井ノ瀬の顎を掴みあげ上を向かせると、彼女の唇に付いているチョコレート を舐め、それから。 「魔法をかけるつもりなら、とことんやってみせろよ」 猫の瞳が、きらりと光ったように見えた。 −FIN−
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