コイナンテシナイ、モウニドト。 ***** ぼんやりと空を眺めた。 雲の多い空。 雲の隙間からは申し訳なさそうに青い色がのぞいている。 こんな天気も嫌いではない。 さんさんと輝く太陽に照らされたくない日だってあるのだから。 「高槻ちゃん、おはよー」 会社についてロッカールームに入ると、同時期に派遣された生田さんに 挨拶された。 「生田さんおはようございます。なんか今日ちょっと天気良くないです ね」 「だね。朝の天気予報では夕方からぱらつくみたいだよ」 生田さんは私よりもふたつ年上だ。 だけど気さくに声をかけてくれるので、初めての派遣でも心細さが無く て、助かっている。 「本当ですか?傘持ってこなかったぁ」 「ま、本当に降るかどうかは判らないけどね。私も持ってこなかったし」 彼女が笑うので、私もつられて笑った。 「派遣されてから半年経ったねぇ。高槻ちゃんは慣れた?会社に」 「そうですね、まだ名前が判らない方とか、いますけど…」 「大手企業だからね、自分の部署内で精一杯だよねぇ」 生田さんはふふっと笑った。 そういう彼女だったけど、生田さんの場合は一度見れば名前も顔も覚え てしまう。 私は中々一致しなかったりするけど。 「そうそう、ロス支社に出張に行っていた面々も帰ってきてるのよね」 「あ、そうなんですか?」 「昨日電話かかってきたときに、明日はそっちに出社するから、とか言 ってた」 「いったりきたりで大変ですね、それに飛行機乗るとか、私は無理です」 私が笑うと、生田さんも笑った。 「えー、なに?気圧で耳が痛くなる人?」 「いえ、なんか、怖いんです」 「便利なのにねぇ」 「遠くとか、旅行しないんで大丈夫です。不便ないです」 「彼氏が旅行好きだったりしたらどうするの?」 会社の制服に着替え終わりロッカーを閉めながら彼女が言う。 私は苦笑いしながら答えた。 「えぇと、そういう人、じゃない人がいいですね。彼氏にするなら」 仕事場であるフロアにはセキュリティーカードがなければ入れないので、 カードを読み取りの端末にかざして暗証番号を入力する。 ぴ。 とロックが解除される音がしたので扉を開き生田さんが先に中に入る。 「あ、瀬能(せのう)さんおはようございます」 生田さんの声に顔を上げると、フロア内に瀬能さんがいた。 「おはよう」 「ロス出張お疲れ様でした。向こうはどうでしたか?」 「めちゃくちゃ寒かったよ。俺、寒がりだから結構キツかった」 確か…瀬能さんは、私より6つ上の26歳って生田さんが言っていた様 な気がする。 生田さんと瀬能さんは話し込む感じになっていたので、私は頭を下げて 自分のデスクに座った。 パソコンを立ち上げて、連絡事項などのメールチェックをする。 一通りチェックし終えたところで生田さんが席に着いた。 「瀬能さんにお土産もらっちゃった」 そう言いながら彼女が小さな包みを見せる。 「いいですねぇ、何を貰ったんですか?」 「えっとね、ロクシタンのハンドクリームだって」 「え!ロクシタンですか!!うわぁ、いいですね」 「高槻ちゃんロクシタン好きなの?」 私はコクコクと頷いた。 「薔薇の香りのとか、チェリーブロッサムとか、いいですよねぇ」 「そういえば、高槻ちゃんの使ってるハンドクリームって」 「ロクシタンのチェリーブロッサムです」 「なるほどね、ハンドクリーム塗った後にほわぁ〜って顔をしているの は香りを楽しんでいるんだったんだ」 彼女が笑って言う。 「え、わ、私そんな顔してますか?」 「してるしてる」 「…ひとときのやすらぎなんですけど、今度から気をつける様にします」 無自覚だったので、そんなことを指摘されて顔が熱くなってしまった。 **** その日の業務終了後。 やっぱり、雨が降ってきていた。 生田さんはこの後デートらしく、彼氏が車で会社までお迎えに来ていた。 駅まで送ろうか?と言ってくれたのだけど、さすがにそれは遠慮させて もらった。 (彼が車でお迎えかぁ) いいなぁと思いながら、彼女が乗り込んだ車を見送った。 飛行機は苦手だけど、車は、あの室内の皮っぽい匂いとかがちょっと好 き。 (ドライブデート、いいなぁ。車から夜景見たりとか…) 「…沙英ちゃん」 (海とかも、いいなぁ) 「さーえーちゃん!おーい」 呼ばれて、その呼ばれてる名前が私だと認識するのに数秒かかり、 それから、はっ!と振り返った。 「何か、考え事してた?さっきからずっと呼んでたんだけど」 見ると、その声の主は瀬能さんだった。 「え?わ、たしですか?」 「うん、そう」 にっこりと、彼は微笑んだ。 …瀬能さんって私のこと、名前で呼ぶ人だったかな? ちら、と見上げるとまた彼は微笑んだ。 それから鞄のファスナーを開けて中から包みを取り出した。 「これ、ロスに出張に行ったときのお土産」 「え?私にも?」 言うとまた彼は微笑んだ。 「もちろんだよ?開けてみてよ」 開封することを促されたので、私は恐る恐る袋を開けて中に入っている それを取り出した。 箱を開けると中にはアナスイの蝶モチーフのビューティーミラーが入っ ていた。 「う、わ。可愛い」 蝶のモチーフがついている面を見つめて、思わずふるふるしてしまう。 「もしかしたら、持ってるかな、とも思ったんだけどね」 「いえ、持ってないです。ありがとうございます!嬉しいです」 ふっ、と瀬能さんは笑った。 「そう?良かった喜んでもらえて。どういうのを喜ぶかなって思いなが ら選んだから」 「…瀬能さんって、えらいんですね」 「え?」 「たくさん女子社員いるのに、そのうえ私たち派遣社員にもお土産買っ てきてくれて、更にどんなものを喜ぶかなんて一人一人のことを考えな がらセレクトするだなんて」 そう私が言うと瀬能さんはプッと笑いながら腕を組んだ。 「そ?俺ってえらいんだ」 「あ、き、気に障ったならすみませんでした。えらいっていうか、すご いなぁって」 「まぁ、そんなのどうでもいいんだけど」 ど、どうでも? 「傘ないの?」 「え?」 「帰らないで、ぼーっとしているから、傘がないのかと思ってね」 「…えーっと、傘は、ないんですけど…」 「ないんだけど、何?」 「そのうち、やむんじゃないかなって」 「ふぅん?夜中まで降ってるって予報らしいけど」 瀬能さんは言いながら携帯を見ていた。 「あ、そうですか」 「信じないの?」 咎める様な目線を送られてどきっとする。 「そういうわけでは」 「まぁ、情報元はヤフー天気だけどね」 そう言いながら彼は黒い携帯の画面を私に向けてきた。 確かに、時間帯的に夜中まで雨が降っている様な感じではある。 仕方がない、濡れて帰るかと思った時。 「送ってあげようか?」 と瀬能さん。 ただ、どう見ても彼も傘を手に持っていない。 私の考えを察してか、にこりと笑った。 「俺、今日車で来てるから」 車! その響きに思わずきゅんとしてしまう。 瀬能さんがぷっと笑った。 「沙英ちゃんって、なんでも顔に出て面白いよね」 「す、すみません」 「謝らなくてもいいけど。じゃあ、地下の駐車場に車停めてるから行こ うか」 そういい終わると、瀬能さんはスタスタと歩いて行ってしまう。 私、まだ返事してないのに! 慌てて追いかける。 「でも、あの、瀬能さん、悪いからいいです」 「何が悪いの?」 地下に続く階段を下りながら彼が言う。 「何がって、だから…お手間を取らせるのは申し訳ないです」 「別に?手間じゃないし、まして誘ったのは俺だし」 「いや、でも…」 「はい、どーぞ」 瀬能さんの物と思われる車の助手席のドアを開けながら彼が言った。 綺麗な濃紺の車体がピカピカしている。 「わぁ、綺麗な車ですね」 私がそう言うと瀬能さんはちょっと首を傾げた。 「綺麗に洗車されてますねぇって意味?」 「いえ、色合いがなんとなく」 「普通に紺色だと思うけど」 「そうですか?なんかちょっとキラキラしていますよね」 「キラキラかな。メタリックカラーではあるけど」 「紺色っていうより綺麗な色ですよね」 私は車の正面に回って車体を眺めた。 「アビサルブルーって言うんだけどね。そんなに車好きなのか?」 彼は少し目を細めて小さく笑った。 「好きというより憧れは凄くあります。車のこと自体は全然知らないん ですけど」 車の前面にあるライオン?の様なエンブレムをしげしげと見た。 「瀬能さん、この車はなんていう車なんですか?」 「プジョーだよ」 「ふぅん、このマーク可愛いですね」 「可愛い、かな?よく判らないけど。ともかく乗れば?」 ちら、と瀬能さんを見上げると、「ふふん」といった感じで笑った。 「乗ってみたいなぁとか、思っているんでしょう?」 「だって、この車、可愛いから」 「なんで言い訳してるんだか判らないけど、 俺が乗っても良いって言ってるんだから乗ったら?」 「…じゃあ…」 乗せてもらおうかな。 「いいから早く乗りなさいっての」 「は、はい」 助手席側に回って乗り込もうとすると、 瀬能さんがドア入口の屋根に近い部分に手を置いたのが気になって見上 げた。 「何?」 「いえ、なんで手を置いてるのかなぁって思ったので」 「…頭ぶつけたらいけないでしょう」 苦笑いしながら彼が応えた。 「あぁ、車に傷がついちゃいますからね」 感心して私が言うと、頭をはたかれた。 「違うでしょ。まったく…ぶつけたら君の頭が痛いだろ、だからだよ」 「そうなんですか?瀬能さんって優しいんですね!」 「い・い・か・ら、早く乗りなさい」 半ば押し込まれる様にして私は車に乗り込んだ。 瀬能さんが運転席に乗り込む。 「シートベルトしてね。で、最寄り駅はどこ」 エンジンをかけてカーナビを操作しながらそんな事を彼が言った。 「え?最寄り駅って品川…」 「会社の最寄り駅は俺でも知ってる。沙英ちゃんの家の最寄り駅に決ま ってるだろう」 「うちですか!!まさか家まで送ってくれるとかそんなんじゃないです よね!?」 「そのまさか。うちまで送るんですよ」 「遠いですよ、川崎なんで」 「いいよ、別に。川崎だろうが栃木だろうが茨城だろうが」 「でも」 「”でも”が多すぎ。俺が良いって言ってるのだから良いの」 家の最寄り駅を言うと、瀬能さんはカーナビを操作し車を走らせた。 「あぁ、やーーーーっと走り出す事ができた」 「すみません…」 「いいけど」 「帰国したばかりで、お疲れのところなのに」 「別に。疲れてないし、疲れてたら誘わないから」 窓の外には見知った景色が流れていっている。 隣には瀬能さんがいて、なんだか不思議な感覚がする。 同じフロアで働いている人だけど、直接仕事のやりとりはないし、外に 出ていたり、出張してたりで、そんなに顔を合わせることがない人。 の、筈だったのだけど。 なんだか、近くて困ってしまう。 こんな顔だったんだ。 とか、こんな声だったんだ。 とか。 こんな喋り方だったんだぁとか、思うから。 でも、それは向こうも同じ様な気がするんだけれど。 「お腹空かない?」 「え?」 「お腹空いてないかなと思ったんだけど」 「あ、いえ、大丈夫です」 空いてはいたけれど、空いてるって言ったら、食べに行こうとか言われ そうだから。 あまり、瀬能さんに時間をとらせたくなかった。 …だったのだけれども。 「君が空いてなくても、俺は空いたんだよね」 「…はぁ、そうなんですか」 「ハンバーグは好き?」 「かなり好きな方ですけど」 「じゃ、食べていくか。この道沿いに美味しいハンバーグ専門店がある んだよね」 「や、あの、私お腹空いてないので」 私がそう言うとちらり、と視線をこちらに向けてきた。 「俺はお腹空いてるの。仕事立て込んでて昼は軽くしか食えなかったし」 「だったら、早く帰ったほうが…」 「そういう問題ではなくて、食事に付き合いなさいって言ってるの」 言って彼は微笑んだ。 「美味しいんだから」 それから10分程走った所に、彼が言うハンバーグ専門店があった。 でも、私が想像していたより高級そうで。 「ハンバーグってもっと気安いイメージなのですが」 「そう?」 店内はちょっと照明が落とされた感じになっていて、白いテーブルクロ スが敷かれたテーブルの上では、小さなキャンドルがゆらゆらと炎を燃 やしていた。 瀬能さんの方を見ると彼は小さく微笑んだ。 「奢ってあげるから好きなもの食べるといいよ。とは言ってもハンバー グしかないけどね」 「送ってもらってる上にご馳走までしてもらって申し訳ないです」 「良いんじゃない?別に」 ふふっと笑う彼がなんだか魅惑的に見えるのは、キャンドルの炎が出す 光の色のせいなのだろうか。 よく見ると、瀬能さんは端整な顔立ちで、特に瞳が綺麗だなと思えた。 二重の切れ長の瞳は一見冷たくも見えるけど、優しい輝きを持っている 様で。 ふと気が付くと、私が彼を見ている間、彼もまた私を見ていた様で…。 その事に気がついた私の様子を見て微笑んだ。 「観察終了ですか」 「す、すみません」 「良いんだけど、沙英ちゃんって放っておくとすぐ自分の世界にトリッ プしちゃうよね」 「そんなことはないかと思います」 「あるでしょ」 小さく笑った。 「瀬能さんって綺麗な表情されますよね」 「綺麗?」 また彼は笑う。 「沙英ちゃんって”綺麗”とか”可愛い”とか言うの好きだよね」 「好きなわけじゃないです、本当にそうだと思うから言うのであって…」 言いかけて、瀬能さんがじーっと私を見るので言っている自分が恥ずか しくなってきた。 「ごめんなさい」 「なんで謝るの?」 「言ったら、ダメなのかなと思いました」 「駄目ではないんじゃない?別に俺は駄目って言ってないし」 「嫌なのかなと思いました」 「そういうニュアンスで伝わったのなら謝るよ。嫌じゃないから」 「そうなら、良いんですけど」 「君のそれが褒めているのなら、嬉しいし」 首を少しだけ傾げて瀬能さんは微笑んだ。 「もっと俺の事見て欲しい。まるで存在しないのと同じ様な目で見られ るのは少し苦痛」 ゆっくりと言われた言葉なのに、私はそれをうまく受け止めることが出 来ず、受け止められないどころか、その意味を理解するのも困難だった。 「すみません、あまり瀬能さんのこと見かける時間も少なくて、仕事で 関わることもあまりないから」 「時間の量なんて関係ないでしょ?存在の認識がきちんと出来ているの なら」 「お、こってます?」 「怒ってるんじゃなくて、苦痛なの」 言いながら彼は微笑んだ。 確かに怒っているとかではないんだろうな、とは思えたのだけど。 「ごめんなさい、私はどうすればいいんですか?」 ちらりと彼を見ると、瀬能さんは首を傾げる。 「俺の話、聞いていた?」 「聞いてました…けど」 「もっと、俺の事を見て。時間が少ないって君が言うのなら時間は与え るよ」 「は、はぁ…」 くすっ、と彼は笑って腕組をした。 「存在の認識だよ」 キャンドルの炎が小さく揺らめいた。