3日の朝、宣言どおりに瀬能さんは帰ってきてくれた。 「ただいま、良い子にしてた?」 そう言って彼が笑うと、私もつられて笑った。 「お土産持ってきたよ、ももいちごの大福」 瀬能さんはそう言って紙袋を渡してきた。 「ももいちごですか?」 「正月の挨拶に来た人の手土産を貰ってきた。沙英はこういうの好きそ うかなって思えたから」 「…ありがとうございます、嬉しいです」 「うん、お茶入れてくれるかな?その間着替えるから」 コートを脱ぎながら彼はキッチンの奥にある自室へ向った。 私は彼に言われたとおりにする為にキッチンに入り、 お湯を沸かす為にIHクッキングヒーターの電源を押した。 程なくして、肌触りの良さそうなカットソーの黒いVネックのシャツと、 ジーンズに着替えた瀬能さんが戻ってくる。 ちょっと笑いながら。 「ねぇ沙英、俺の部屋に入った?っていうか寝室。すっごい君の香りが したんだけど」 指摘されてびくっとし、恐る恐る彼を見た。 「ご、ご…めんなさい…」 「いや、怒ってるわけじゃないから、泣きそうな顔しないで」 「瀬能さんが、居なくて、自分の部屋で眠れなかったから…」 「だから俺のベッドで寝たんだ?」 「…すみません、もうしないです、ごめんなさい」 「いや、全然構わないんだけど、俺が居る時だって寝に来てくれて」 ふふっと彼は笑った。 それから、よしよしと頭を撫でてくる。 「そんなに寂しかったの?」 「…寂しかったです」 聞かれてすんなりとその思いを口にする事が出来た。 寂しかった。 たったの3日間だったのに。 傍に瀬能さんが居ないという事が寂しくて、苦しくて、辛かった。 だから、少しでも彼を感じていたくて、彼の香りがする部屋で寝たのだ った。 「そうか」 瀬能さんは満足そうに見える笑顔を見せた。 「大丈夫、寂しいと思っていたのは君だけじゃないから」 額に彼の唇の感触。 見上げるとにっこり笑った。 「俺もだいぶ、寂しかったよ。沙英が寂しいと思う以上に俺の方が寂し かったと思う」 そんな自論を展開させて彼は笑う。 切ない感じが心の奥から迫りあがってきた。 俯くと、瀬能さんは覗き込んでくる。 「どうした?」 屈んでいるから近い場所にある彼の肩にそっと手を置いて、それから短 く頬にキスをした。 「沙英?」 「…ごめんなさい」 また俯くと彼は頭を撫でてくる。 「んー、良いんだけどね、沙英には何されても良いって思ってるから。 だけど…」 軽い力で押されて壁に身体が当たる。 「だけど、折角君からしてくれるんだったら、もっと本気のキスをして よ、そんなキスじゃ俺は満足できない」 肩を壁に押さえ付けられて、浴びせられるキス。 何度も重ね合わせて、吸う様に奪われる。 「…君はもっと貪欲になってもいいと思うよ」 唇を離してから、甘く囁きかける様に彼が言った。 「欲しかったら欲しいって言えばいい、ねだればいい」 クスッと柔らかく笑った。 「まぁ、事と次第だけど、君が望む事なら大概のものは叶うと思うよ」 見上げてじっと見詰めると彼は微笑む。 「ただし、君がその口で望む事を言うのが条件だけどね」 自動湯沸しの沸騰された事を知らせるブザーが鳴った。 「なんでも察してあげて与えるのは簡単だけど、対価は欲しいでしょや っぱり」 「…対価、ですか?」 「俺が言う対価はモノやカネじゃないよ。欲しいのは望まれているとい う実感」 私の頬を撫でながら彼は言う。 「さて、大福食べたら出掛けるか。折角だからこの前買った振袖を着て さ」 「え、振袖ですか?」 「うん、見たいから」 「でも、私着付とか出来ません」 「俺がやってあげる」 彼はにっこりと微笑んだ。 着付まで出来るのかと、私は少し驚いたけれど、 彼は呉服屋の店員さんよりも手際よく着付けてくれる。 「着慣れないと帯とか苦しいかもね」 綺麗に帯を結び上げてから瀬能さんは言った。 姿見の前で私は少し照れくさい思いで自分の着物姿を見つめた。 そして、この着物が自分の為だけに与えられた物なのかと思ったら嬉し くて堪らなくなった。 「やっと嬉しそうな顔をしてくれたね」 彼は笑った。 「高い物なのに、すみません」 「値段はどうでも良いんだよ」 私は微笑んでまた鏡を見た。 カサブランカの模様だとか紫の高貴そうな色合いだとかが本当に綺麗だ と思った。 ”私に似合う”そう言って買ってくれた物。 私の為だけの物。 「瀬能さんごめんなさい…本当は着ようと思えば着る振袖はあったんで す」 「ふぅん、どういう事?」 「姉が貸してくれるって言ってくれてたので」 「あぁ、お姉さんのか」 「はい、でも…着たくなかったんです、姉の振袖は姉の成人式の時に、 姉の為に買った物だから」 「……へぇ」 「汚したらいけないですからね」 私は笑ってから気が付いて言い直す。 「あ!こ、この着物は汚してもいいとか思ってるわけではないです」 「判っているよ」 瀬能さんは笑った。 ****** 明治神宮―――――。 毎年見ている私は見慣れていたけど、その人の多さに、瀬能さんは露骨 に嫌そうな表情をした。 「なんだろうねぇ、この人の多さ」 「でも、まだマシですよ」 「これで?参拝するまでどの位かかるの」 「これ位だと一時間あれば辿りつくと思います」 「本気で?」 彼はちょっと溜息をついた。 「参拝した後に甘酒を飲むのが私の年始の恒例行事なんです」 「…参拝しないで甘酒飲んで帰るのはどうよ?」 私が彼を見ると、瀬能さんは苦笑いした。 「冗談です、そんなに悲しそうな目をするなって」 彼は笑った。 「瀬能さんは毎年どこに初詣へ行っているんですか?」 「初詣とか行かないから」 「そうなんですか?」 「うん、カミサマだかホトケサマだかに祈っても無駄って知ってるし」 「……」 「また、そういう悲しそうな顔する」 瀬能さんは苦笑いをした。 「だって、それだったら今日来たのは瀬能さんにとって意味がない事に なるので」 「意味ない事はないよ、振袖着た可愛い沙英と歩けるんだからねぇ」 「そういうお世辞とかいいです…」 「お世辞じゃないよ」 彼はにっこりと笑った。 瀬能さんが笑うのは、私を安心させる為なんじゃないかって少し思えた。 それは私が彼の笑顔を見たら安心するからという思いからの勘違いだっ たのかもしれないけど。 「人が多いから手を繋ごうか」 彼が手を出してくるので、私は握り締めた。 体温を感じるだけで、どきどきする。 私は、瀬能さんの事―――――。 心の中でぱちんと何かが小さく弾けた。 私は彼の事が、 好き、なのかもしれない。 彼の事が凄く凄く好きなのかもしれない。 だから、今一緒に居られる事が嬉しいと感じるし、幸せだとも思えた。 熱っぽく激しい感情。 人を好きになるってこんな感じだった?? 参拝が済んで、私の中で恒例になっている甘酒を飲む事にした。 紙コップに注がれているそれは温かい。 「毎年こうやって一人でやって来ては、甘酒も冷めるの待って飲んでる わけか一人で」 「…何か疑ってるんですか」 「別に」 「私、一人で行動するのは嫌いじゃないですよ」 「そう?」 ただ、瀬能さんと知り合ってからは変わってしまった気がする。 これから先、彼が隣に居ない時はその度に寂しいと感じてしまうのだろ うなと思えた。 出来れば…ずっとずっと一緒に居たい。 それは私が望むには望みすぎる事なのだろうか。 甘酒に少しだけ口を付けてみる。 まだ熱かったけど飲んでみた。 「急いで飲まなくても良いよ?」 「…はい」 そう言ってくれる彼の優しさが嬉しい。 私は彼を見上げた。 「あの…来年、も…瀬能さんと一緒に、こうやって甘酒を飲みたい、で す」 精一杯の意思表示をする。 それに対して彼は微笑んだ。 「恒例行事なんだろ?毎年お付き合いしますよ。来年も、再来年も、ね」 判って言ってくれているのだろうか。 私が、ずっと傍に居たいという想いを言葉にしている事を。 例えば伝わっていないとしても、彼の返事は嬉しかった。 「…高槻?」 呼ばれた様な気がして、その声の主を探した。 辿り着いた視線の先には小さな女の子を抱いた男の人が立っている。 「やっぱり、高槻か?俺、その…工藤」 工藤とその人は名乗った。 少し考えてから、それが”工藤君”である事に気が付く。 「あ、工藤君…お久しぶり」 「誰?」 瀬能さんが言うので彼を見上げて答えた。 「高校の時の同級生です」 「ふーん」 工藤君は瀬能さんを少し気にしながらも口を開いた。 「何て言うか、高槻、クラス会とかにも全然来ないから…」 「クラス会なんてやっていたの?ごめんなさい全然知らなくて」 「ハガキとか来てなかったか?」 「卒業してから住所変わったから…実家には届いていたかもしれないけ ど」 「そ、なんだ」 「工藤君が抱いてる子はもしかしてお子さん?」 「あ、あぁ、うん…娘」 「結婚したんだね」 私が笑うと彼は苦笑いをした。 「高校でてすぐ位にな」 「そうだったんだね、おめでとう」 「…ありがとう、高槻…なんて言うか、変わったな」 工藤君が妙にちらちらと瀬能さんを気にしている。 「沙英に何か話があるんだろう?それが俺の前だと出来ない事なら、永 遠に口を塞いでおけばって思う」 そんな風に瀬能さんが言うので、私は驚いて工藤君を見た。 「話って?」 「う、うん…俺、ずっと、あれから高槻に謝らないとって思っていたん だ、でもなかなか会う機会とかそんなのなくてさ」 「謝るって??」 私が聞くと、彼は頭を下げた。 「ごめん、ほんと、凄いごめん」 「え??何、が」 「卒業式の日の事、高槻が俺に告白してきた時、酷い事言っちゃったか ら」 「告白…って、何?」 耳鳴りがする。 キィーンと言う音。 警鐘、だ。 聞いたら駄目、思い出したら駄目って言っている。 でも、 きっかけが出来てしまった。 胸の奥に閉じ込めていた記憶が呼び戻される。 思い出したくない、思い出したくない。 手に持っていた甘酒の紙コップが、砂利の上に落ちた。 コイナンテシナイ、モウニドト。 あんなに辛い思いをするなら。 『イタノハシッテタケド、アマリシラナイソンザイダッタカラ』 ずっと3年間、同じクラスだったのに…。 私が告白をした瞬間、彼はそう言って迷惑そうな表情を浮かべた。 迷惑? 私が、好きだった事が、そんなにあなたにとって迷惑な事だったの。 心の中が砕けていく様な感じがした。 コナゴナニナッタ。アトハツライトイウカンジョウシカノコラナカッタ。 ずっと、3年間思い続けてきた。 あなたを想う事で、毎日がとても楽しかったのに。 笑顔の多いあなたが、楽しそうにしているのを、ただ見ているだけでも 私は嬉しかったのに。 カナシイオモイヲスルタメニ、コイヲシタンジャナイ 私にとって、初めての恋だった。 ホントウハ、ワタシヲミテホシカッタ ズットソウ、オモッテイタノニ 目も合わせない様にしていた。 目が合うことで私の想いを知られるのが怖かったから。 だけど、心の奥底では、その反面、気が付いて欲しいという思いもあっ た。 一瞬でも、私を見て欲しい。 そんな思いだってあった。 あなたが好きだったから。 『ごめん、高槻の事本当、全然知らないし、影薄かったし、 居る事すら気が付かない事があったぐらいだし』 キオクノカタスミニハ、フレタクナイブブンガアッタ。 ヤサシイハズノオモイデハ、カナシミシカノコサナカッタ。 ワスレテシマイタイキオク―――――。 ダカラ、ムネノオクニトジコメテイタハズダッタノニ。 好きって言ったら、全部終わる。 それは恋の終わりで、優しい思い出が凶器になる瞬間。 身体が震えた。 苦しい記憶。 伝えたい言葉があったから。 「好きでした」その言葉を言うには、 沢山の勇気が必要だった。 決してどうかなりたいと望んでいたわけではなく、伝えたいと思ったの は、自分の気持ち以上に感謝の思いだった。 3年間ありがとう。 あなたが居てくれたお陰で、あなたに恋をしていたお陰で、 ずっと幸せな時間を過ごす事が出来ました。 満ち足りた時間を過ごせました。 そんな感謝の思いだけは伝えたかった。 だけど、何も言わなければ幸せな思い出はそのままだった。 綺麗な形で私の胸に残して置けた筈だった。 言わなければ良かった。 言わなければ良かった。 どんなに後悔しても、出来事は記憶となり、それは紛れも無い事実。 彼にとって私は、居ないのも同じだった。 そんな事実。 私はちゃんと存在している人間なのに。 「わ、私は、工藤君が好きで、恋をしている間、ずっと幸せだった、告 白したけど、どうにかなりたいんじゃなくて、私に幸せな時間をくれた あなたに、感謝の気持ちを伝えたかった、ただ、それだけだったのに」 「高槻、本当ごめん俺は傷つけたかったんじゃないんだ、ただ、あの時 は―――――」 「聞きたくない!!」 私は耳を塞いでしゃがみ込んだ。 聞きたくない。 もう傷つけられたくない。 恋なんてしなければ良かった。 だからもう、恋なんてしないって誓って、記憶を奥底に……仕舞い込ん だんだ。 誓ったのに、また恋をしたから罰があたったんだ。 「聞きたくない、何も聞きたくない。誰も、もう好きになったりしない、 だから私を傷つけないで!!」 「沙英」 触れた瀬能さんの手を振り払った。 「瀬能さんだって、私を傷つける人だ」 「沙英、落ち着いて」 「私が、好きになった人は、みんな私を傷つける」 「高槻、俺は」 「君、もう喋らないで」 瀬能さんの声が響いた。 「君が沙英を傷つけた自覚があって、その傷が深い事判っていて、だか ら謝罪して許して貰って楽になりたいのは判らないでもない、だけどね ―――――」 私を抱き起こしながら彼は言葉を続けた。 「赦されたいと思うな。傷つけておいて、謝ってその罪から逃れられる と思うな。悪いとか思って苦しんでいるなら、一生苦しみ続ければ良い。 それでこその償いだ」 ふわりと身体が浮く。 瀬能さんが私を抱き上げたから。 「沙英、大丈夫だから…帰ろう」 優しい声がした。 「ごめんなさい…ごめんなさい」 「何の謝罪?」 瀬能さんは笑った。 「私、もう誰も好きになったりしないから…」 「その”誰も”の中には、俺も含まれているのかねぇ」 彼は笑った。 その後タクシーに乗せられ、瀬能さんの家に帰りついた。 結構な距離を抱いて歩かせてしまい、その事も私の心を暗くさせた。 迷惑ばかりかけて、 それで、ずっと一緒に居たいなんて。 「結局沙英は甘酒を一口しか飲んでないんじゃないのか」 彼はそう言って笑った。 俯いたまま、私は言う。 「実家に帰ります」 「正月は帰らないんじゃなかったの?」 「…出て行きます」 「ふぅん」 座り込んでいる私の帯を、彼は手際よく解いた。 「お世話に、なりました」 「そうか」 「……」 涙が溢れた。 ずっと一緒に居たいと、望む事はやっぱり過ぎた事で。 瀬能さんの事だって、好きにならなければ最後は辛くなかった筈なのに。 こんなに心が切り刻まれる様な痛みを感じずに済んだ筈だったのに。 「それは、沙英が望んでいる事なのか」 顔を上げると、彼はじっと私を見詰めた。 「離れたいと思うのが、おまえの望みなのか?本当に?俺はおまえに言 ったよね、その口で望む事を言えと、本当に望む事を言いなよ、どんな 事でも叶えてやるから」 私が見詰めると、彼は言葉を繰り返した。 「どんな事でも、だ」 涙があとからあとから溢れて来る。 私の、望み。 小さく首を振った。 これ以上の痛みは引き受けられない。 「ねぇ、沙英。おまえの気持ちってそんな小さいモノなのか?好きって そんなに簡単に諦められる気持ちなのか?どんなに傷つけられたって、 辛酸を舐めさせられる様な事になったって、それでも変えられない位の 想いが好きという気持ちなんじゃないの」 「私は、そんなに強くないです」 「強いとか弱いとかの問題じゃないよ、気持ちの深さの問題だろう?結 局おまえの気持ちなんて底が浅くて、ぽいって捨てられる程度のモノだ った、そういう事なんだろう」 私は首を振った。 そんな些細な気持ちや想いだったら、こんなには苦しくならなかった。 「違う!そんなんじゃない、私は本当に好きで、これから先もずっと一 緒に居たいだなんて、他の人にだって思った事は一度もなかった、簡単 な想いとか軽いとかそんなんじゃない」 「ふぅん、好きねぇ…誰を?」 「だ、れ…って、瀬能さんを…」 言って見上げると彼はにっこり笑った。 「そう、俺の事が好きなんだ?」 まるで初めて知った。みたいな表情を彼がするから私は恥ずかしくて俯 いた。 彼が私の気持ちを知っていて話しているんだとばかり思っていたから。 「俺も、沙英が好きだよ」 顔を上げると瀬能さんはいつもの様に柔らかく微笑んだ。 「ううん、”俺は”ずっと前から沙英が好きだった、おまえが俺を知ら ない人って顔で見ていた時から、ずっと好きだったんだよ」 「……」 「だから辛かった、俺は好きなのに、沙英は俺の存在を認めてくれてい なかったから」 「…すみません…」 「まるで存在しないのと同じ様な目で見られるのは少し苦痛…って言っ たけど、少しどころじゃない、形容しがたい辛さがあった」 『イタノハシッテタケド、アマリシラナイソンザイダッタカラ』 苦しかった、辛かった。 あのたった一言が。 「私、が…辛くさせてるなんて少しも気が付きませんでした」 「いいけど、その程度だったのは事実なんだろうから。だったら、今は どうなのって話だろう?」 「…いま、は…」 「沙英、おまえに好かれて喜ばない様な男はただの屑だ。その屑をいつ まで引き摺る気なの」 「屑って…」 「屑だろ…だって、俺はこんなにもおまえに愛されたがってもがいて足 掻いて苦しんだのに、過去の事とは言え、そのおまえを無下にしたんだ から」 にこりと笑って彼は私の頬を撫でた。 その仕種が優しくて、それが逆に切なくさせる。 切ないと感じるから、私は余計にこの人の事が好きなのだという気持ち を強くさせた。 「愛されたい、好きだから俺は沙英から以外の愛情は要らない」 彼の言葉に赤くなって俯くと、瀬能さんは私の頭を優しく撫でた。 「欲しいのは、おまえだけなんだよ」 愛という言葉の重みが逆に優しく、そして温かく私を包み、切ないとか 嬉しいとか色んな感情が混ざって、涙が溢れた。 「私だって、欲しいと思うのは、瀬能さんだけです」 「じゃあ、言いなよ、欲しいって、俺が欲しいって」 「…瀬能さんが欲しいです」 「うん」 彼が私を力強く抱きしめた。 「俺は、おまえだけのものだよ」 なんでそんな風に言うの なんでそんな風に言ってくれるの? より効果的な言葉で、私の心を満たしてくれる。 まるでそうする事で私の心が満たされるのを知っているかの様で。 「私…も、瀬能さんのものです…」 彼は嬉しそうに微笑んでくれた。 「なんか、結局俺が言わせたみたいになってるのが悔しい」 私は返事する代わりにぎゅっと彼を抱きしめ返した。 「本当にね好きだよ、沙英。ずっと言いたくてもどかしかった、言うの 簡単な事だったけど、そんなんじゃ絶対伝わらないって思ってた。だか ら、おまえが言うまで絶対言わないって決めていたんだよ」 彼は笑った。 「最後は子供みたいに意地になってたけどね」 私の涙を指で掬いながら言う彼が、とても眩しかった。 今ならきっと、人込みの中に居たって瀬能さんを見つける事が出来るだ ろう。 暗闇の中からだって、その存在を私に知らしめ、導くだろう。 そんな風に思えて、私は彼の事を強く抱きしめた。 彼を思えば思うほどに気持ちが溢れてくる様で、 隠していた分、一度堰を切ってしまえばそれを止めるものは何も無く…。 「好き…です」 伝えた言葉の返事とばかりに彼は優しくキスをしてくれた。 ****** 降り出した雨は憂鬱さを誘う。 だけど、その雨は転換期への合図だったのかもしれない。 判っている。 踏み出さなければ何も始まらないって事ぐらい。 ただ、失敗は許されないと思うから、躊躇って動けないだけだって事も ね。 (この臆病者が) 思わず笑えるぐらいの踏ん切りの悪さだ。 ”どうしても手に入れたい”と既に思ってしまっているから、 余計に動きを鈍くさせているのだろう。 駐車場へ向う階段に足を向けた時、会社のエントランスでたたずんでい る彼女を見つけた。 栗色の癖のない長い髪。 その艶やかさには、何度触れたいと思わされた事だろうか。 別に触れたいのは髪だけでは無かったけど。 柔らかそうな頬や、ふっくらした唇に、ぱっちりとした大きめの瞳。 どの部分も俺にとっては魅力的だった。 快活な性格ではないせいか、生田さんとは違い積極的に社員と話す子で はなかったけれど、俯いていた顔を上げて笑顔を時折見せてくれる時に は、何度その小さな肩を掴んで抱き寄せたいという衝動に駆られた事か。 (踏み出す時、か) 少し苦笑いをしてから、進む方向を彼女に変えた。 これから俺が与え、見せるのは、俺が抱える物の欠片。 少しずつ小出しに渡してあげるから、逃げないで―――――。 極度の緊張がやがて、高揚した気持ちに変わっていく。 現状を変えてやるという強い思いが奮い立つ。 何もない方が寧ろ好都合だ。 彼女を呼んだ。 「沙英ちゃん」 ―――――俺は最初の欠片を渡す。ちいさな想いの欠片。 君が欠片の意味に気が付く日はやってくるのかな…。 〜Fin〜