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● 優しさの欠片 --- ACT.10 ●

  
「何か飲もうね。温かいハーブティーでも入れてあげるから」
家に着いて2階に上がると彼はそう言った。
キッチンの中へ入っていく瀬能さんを見ながら涙を零した。
「…ごめん、なさい、瀬能さんにご飯、食べて貰わなくちゃいけなかっ
たのに」
「別に、食べなくてもいいと思う人間だから、そんなのは構わない」
蛇口をひねって水を出す音や、戸棚の扉を開く音がする。
「こんなのだから、嫌われるんですよね」
カウンター越しに彼が私を見た。
「んー、何で嫌いになる事が前提になってるんだか俺には理解できない
んだけど、俺が沙英の事を嫌いになるとか脅した事があるなら別だけど
さ」
「それは…ない、ですけど…」
「今言うべきなのかはちょっと疑問なんだけど、沙英は俺の事を本当に
ちゃんと考えた事ある?」
「……」
「君が”なんで””どうして”って俺に言った後、俺は答えださなかっ
たけど、それについて考えた事はあるのかな」
「…考えて、ない、です」
彼は小さく笑った。
「だろうね」
お湯が沸いて、小さなティーポットにお湯を注ぎ入れながら彼は言う。
「例えば、君を今此処に住まわせている事についてだって、それがどう
してなのかって考えた?」
「私の家が…火事になったから…」
「それは”原因”でしょう」
瀬能さんは笑った。
「じゃあ聞くけど、それがもし君でなくても、同じ事があれば俺は部屋
を貸すって思っていたりする?」
「違うんですか?」
「貸すわけないだろ」
彼は笑って、ポットの中身をマグカップに移した。
「ホント、君って考えない子だよね」
「…すみません」
「座りなさい」
瀬能さんは私にソファーに座るように促して、傍にあるテーブルにマグ
カップを2つ置いた。
ソファーに腰を下ろしてから、彼は自分のマグカップを取り一口飲む。
「俺は考えたよ、色々と君の事をね」
彼の横に座って、瀬能さんを見上げた。

「時々凄く苦しんでいるのも知っている、そうさせているのは半分は俺
の所為なのかなとも思うけど、だからと言って俺にだって譲れないもの
はあったりするんだよ」
笑って、少しだけ首を傾けて私を覗き込む様に見詰めた。
「苦しませてるの知ってても、俺の心は変えられない」

沙英、と小さく私の名を呼んでから、

彼の唇が私の唇に重なった。

柔らかくて、温かい。

そう感じたのは一瞬だった様な気もしたし、長い間とも感じられた。

だけど、唇が離れた瞬間、自分の一部が削ぎ落とされたかの様な錯覚を
感じる位に胸が痛んだ。

「俺を嫌いになった?」
瀬能さんは小さく笑って言った。
私は首を振る。
「嫌いになんてならない…です」
「キスぐらいなら、許してくれるという事なのかな」
ふっと彼は笑い私を抱き寄せた。
また唇が触れる。
今度はただ触れるだけのものではなくて、何度も擦り合わせる様にして
きた。
熱っぽいと感じるのは、擦れ合う摩擦のせいなのかそもそもの彼の温度
なのか。
心が痛い。
ざわざわと何かが騒いでいる感じがした。
嫌な感覚ではなかったけれど、気付いてはいけないと振り切ろうとする
自分が見えた。
「…せ、」
瀬能さん、と彼を呼ぼうとした瞬間、唇の間を割って彼の舌が滑り込ん
できた。
閉じようと考えたものの、そうすれば彼の舌を噛んでしまう事が判って
いたのでそれは許されなかった。
私の口腔内で彼の舌が柔らかく蠢いている。
そんな風にされればされるほど身体の芯が熱くなっていっていた。
頭から下に一本何かが通っているかの様に、身体の真ん中が熱くなって
いる。
「ん、ぅ」
絡め取られた舌に、熱く濡れた感触が伝わってくる。
それは不快なものでは決してなく、むしろ何かを増長させる様な感じだ
った。
首を振る仕種を見せると、彼の唇が離れた。
「こういうのは嫌だった?」
ふふっと彼は笑った。
それから頬に小さくキス。
指先や、手の甲にも。

心の中が痛い、苦しい。

だけど、

止められたくない。

彼の唇が、柔らかくて、その感触があまりにも優しいと思えたから。

「俺は、こう見えて意地っ張りだし負けず嫌いなんだよ」
ふっと笑ってそう言った。
「泣かれるとさすがにくるものがあるけど、君から言わせたいんだよね、
君の気持ちが判ってはいても」
「…なんの事、ですか?」
「判らないならいいよ、そろそろ…ハーブティーも冷めた頃じゃないの
か?」
身体を私から離して彼が言う。
飲めという事なのかと思い、マグカップに慌てて手を伸ばした。
「我ながら大人気ないとは思うけど」
呟く様に言った彼の言葉に、何も返す事が出来なかった。
その言葉が何に対しての言葉なのかが判らなかったから。

そしてその事を訊いても彼が答えてくれるとは思えなかった。

それを察してか瀬能さんはにこりと笑う。

「嫌われたくないって思ってくれているのが凄く嬉しいって事は言って
おく」
「…は、はい」
「そう思う事が凄く辛いっていうのも理解している、不安で、いっぱい
になって…さ」

そう言った彼が何故だか少しだけ寂しそうに見えた。




******


瀬能さんの家は掃除や洗濯は全て松川さんがしていた。
実際している所を見た事はなかったけれど、
たぶん会社に行って不在の時に全部済ませているのだろう。
洗濯に関しては、全部一旦回収し、次回来る時に届けるという形を取っ
ている様だった。
私の分も勿論そうしてくれていたので申し訳なく思っていた。

年末の大掃除ぐらいは私がやろうと思っていたのだけれど、
ある日、瀬能さんと外出し戻ってきたら窓ガラスまでピカピカになって
いて、すっかり先を越されてしまった。




「沙英は正月実家には帰らないの?」
「あの、家には姉夫婦もいますし、帰ると逆に気を遣うから毎年帰らな
いです」
「そうなんだ、俺は正月は実家に行かないといけないんだよね」
決まりごとの様にして彼が言った。
「あ、私の事なら心配されないでいいので」
私がそんな風に言うとちらりと彼はこちらを見た。
「一緒に過ごせない事をなんとも思ってくれないんだな」
「…なんともって事は、ないですけど…」
「3日間家を空ける事になる」
「そうなんですね」
「…やっぱり、なんとも思ってなさそうなんだよね」
私は慌てて首を振った。
「そんな事はないです、瀬能さんが居ないと、寂しいです」
「そう?」
彼は嬉しそうに笑った。
綺麗な表情で笑うので、どきっとする。

3日も居ないのか。

心の中でその事を反芻させると、胸が痛んだ。

「電話ぐらいは出来ると思う」
「あ、はい…」
「俺が居ない間どう過ごすの?」
「そう、ですね…初詣にでも行こうかと思います」
「初詣ねぇ」
「駄目ですか?」
「いや、好きにしてくれて構わないけど、何処に行く気」
「明治神宮に行こうかと思っています」
「本気?めちゃくちゃ混んでるよね?」
「大丈夫です、毎年行っているので」
「毎年??誰と?」
彼がちょっと目を細めた。
「え、っと…ひとりですけど」
「ホントに?」
首を傾げて私を見てくる。
何をもって疑わしげに見られているのか判らない。
「本当ですよ?」
彼は少し考える様な表情をしたのち、口を開いた。
「3日の朝には帰ってくるから、初詣はそれから。決定ね」
「…え??」
「俺と一緒に行くの」
「で、でも」
「何か都合が悪いわけ?」
「都合は悪くないですけど」
「じゃ、決定ね」
にこりと彼は笑った。
なんとなく、変な気持ちになったけど気にしない事にした。

「あの、瀬能さんひとつ聞いても良いでしょうか」
「俺が答えても良いと判断出来る事ならね」
「…えっと…」
瀬能さんがそんな風に言うので躊躇っていると、言う様に促された。
「前に、家族の人と食事会っていう話をされたかと思うのですけど、食
事会って毎月あるものなんですか?」
「あぁ、なんだそんな話?食事会は最近では3ヶ月に一度くらいかな、
兄弟にあたる人達はみんな結婚していて忙しいしね。俺が小さい頃は月
に2〜3回はあったけど」
「お正月もお食事会みたいな感じなんですか」
「そうだね、もっと規模は大きいかな親戚とか集まるし、毎日パーティ
ーやってる状態だな」
「パーティー、ですか」
「今年は沙英がいるから3日間も拘束されるのはちょっとなぁって思う
けど、俺は絶対行かなきゃいけない立場なんでね、良い子でお留守番し
てて」
にっこりと彼は笑った。
「絶対って言うのは、ナビゲーターが必要だからっていう意味ですか?」
「んー、まぁそうだね。紅茶おかわり入れようか」
彼は空いたマグカップを持ってキッチンへ向った。

なんとなく…。

瀬能さんは普通の顔をしていたけれど、
今の会話は長引かせたくなかったのだろうか。


カウンター越しに彼を見ながら、私はそんな風に感じていた。



******


元旦の朝、瀬能さんは実家に帰っていった。
実家と言っても都内だから何かあればすぐに戻ってこれるよと笑ってい
た。


彼が居なくなると、家の中は灯が消えた様に感じた。

テーブルの上にはお重に入ったおせち料理がおいてあったが、一人で食
べるには味気ない。

でも、瀬能さんと違って私はお腹が空いたら食べちゃうんだけど…。

言えば困らせると判っていたから言わなかったけれど、お正月は彼と一
緒に過ごしたかった。

(ひとりぼっちって、なんだか久しぶり…)

慣れていた筈だったのに、凄く寂しく感じてしまう。

ソファーに座っても、隣に瀬能さんの気配が無い。

3人掛けのソファーの上でごろんと寝転んだ。



『送ってあげようか?』




初めてプライベートで瀬能さんと話した日の事を思い出す。
そんな遠い昔の話ではない筈なのに、今、どうしてこんなにも瀬能さん
が居ないという事が寂しいと感じてしまうのだろうか。

どうして

ほんの少し思い出すだけで、胸がどきどきしてしまうのだろう?

自分の唇に指先を滑らせて目を閉じる。
キスをした時の瀬能さんの温度を思い出す。

あの時以降、彼が私にキスをする事は無かった。
それを少し残念だとか思う自分も居て。

(して欲しい…って、思っているのかな)

瀬能さんは私の恋人じゃないのに。

私は瀬能さんの恋人じゃないのに。


―――――私は、彼にとって何?
彼は私をどう思っているの。
どうしてキスをしてきたの?

どうして?


私にだけ、鏡を買って来てくれたのは。


どうして?


家に置いてくれるのは。


どうして?


いつも優しい瞳で見詰めてくるのは…。


何故???
胸がきゅううっと痛くなる。
考えれば考えるほど胸の痛みは強くなる。
でもその痛みは、瀬能さんにキスをされていた時に感じた物に似ていて、
痛いのに、その痛みから広がるものは”甘い”とさえ感じた。

甘い痛み。

それが形容するのに丁度良い言葉だった。

―――――そう、彼が与えてくる痛みはいつもそうだった、甘く感じる
痛み。
だから何度でもその痛みを受けたいと思ってしまう。



―――――ダケドイッテハイケナイコトバガアル―――――

言わなければ、私は幸せな思いだけを抱きしめている事が出来た?

涙が一粒零れて落ちていった。

だけど、その涙を掬ってくれる人は居なかった。




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