惑い 2

******

「暑いのに引き止めて悪かったな、帰るか」
コーヒーを飲み終えた透也が立ち上がった。
「ううん、私は透也と一緒に過ごしたかったから、むしろ嬉しかっ
たよ」
少しぬるくなったオレンジジュースを飲み干して私も立ち上がった。	
スカートの裾を気にしてから透也を見ると、じっとこちらを見てい
た。	
「透也?」
「おまえは、変わらないんだな」
フッと彼は笑った。

変わらないのではない。
変わりたくないと、必死に何かにしがみついているだけだ。

透也との関係も、距離も、何もかも、今のままが良いと叫んで必死
になっているだけ。

透也の傍が良い。
近い場所に居たい。

いつだって…。

だけど、ずっと同じではいられない事も判っていた。


ねぇ、私はどんな私になればいいの―――――。



******


その夜。
景ちゃんに呼び出される。

マンション下のコンビニの駐車場に白いポロシャツにジーンズを履
いた彼が居た。

「どうしたの?明日も学校で逢えるのにわざわざ」
「あぁ、言っておこうと思って…な」
「何を?」
景ちゃんは私に向き直って言う。
「みのり、おまえ、俺の彼女になれ」
「え?」
「…これからも、ずっと傍に居て守ってやるからよ」
「で…でも、私、彼女とかそういうの考えた事ないし…」
「池上の方が良いとか言い出さないよな?」
「景ちゃん、何を言って…」
「今日、公園であいつと一緒に居たんだってな」
私が頷くと景ちゃんは溜息をついた。
「池上も男なんだし、いい加減昔と同じ感覚でいるの止めろ」
「同じじゃ駄目なの」
「良いわけねーだろ」
「…でも、私は…」
「とにかく」
私の言葉を遮り、景ちゃんは言った。
「幼馴染ごっこはもう止めろ、あいつだって思ってる筈だ」
「ごっことか、そんなんじゃないよ」
「―――――みのり」
「な、なに?」
「おまえまさか、池上が好きだとかじゃねぇだろうな」
「透也の事は好きよずっと昔から変わらない」
「幼馴染だからか」
私が頷くのを見届けてから、景ちゃんは乗ってきた自転車に跨
った。
「おまえは俺にしとけ。俺の方が、おまえに相応しい」
「……」
「じゃあ、また明日な」

彼は自転車に乗って行ってしまった。


―――――変わりたくない。
何もかも、今のままで。



見上げた空で瞬く星々が、毎日同じ様でいても変わっているという
事実があったとしても、私はこのままで居たい。

だから、お願い。
何も変えないで。





マンションの屋上へ続く鉄の扉を開けると、透也がそこに居た。
変わらない風景。
だけど、いつかは変わっていくもの。

透也がここに来なくなる日だっていつかはやってくる。

「…みのり?どうかしたか」
「ねぇ、透也…透也は、どこかへ行ってしまう?ここから居なくな
っちゃう?」
「今のところそういった予定はないけど、先の事は判らない」
「…そっか…」
「どうした?」
「うん…」

柵に寄りかかり、空を見上げた。

「行く学校が変わっちゃっただけで、透也の事、凄く遠く感じるの
に、居る場所が変わっちゃったら…もっと遠く感じるんだろうなぁ」
「それは、そう感じてしまうのが嫌だという意味か」
「…うん、嫌って思う」
透也は笑った。
「今の学校、寮があるんだ。チチオヤサイドからは入寮する事を勧
められたんだが…」
「いや!透也がここから居なくなるのは嫌だ」
「うん、まぁ聞いて?その話が出たのは入学前の事でさ、僕が今こ
こに居るって事は断ったという事なんだけどね」
透也の指が私を招く様に動いたから、私は彼の横に腰を下ろした。
「ここの生活は悪くないと思うんだよ」
「…うん」
「いずれはどうなるか判らないけど、僕もまだここに居たいと思う
から」
「ずっと居て、手の届くところに居て欲しいよ」
彼は笑った。
「可能なかぎりは」

私は一度俯いて、それから透也を見た。
「さっき、景ちゃんに…彼女になれって言われたの」
「…ふぅん?それで何て答えた」
「考えた事ないって言ったんだけど」
「嫌だと言わなかったのは了承と同じだな」

長い沈黙が続いた。

「お中元の余りか何だか知らないけど」
「…え?」
「家から千疋屋のフルーツゼリーを大量に送って来た」
「そう、なの」
「結構美味かった。おまえも食べるか?」
「…う…ん、食べようかな」
「じゃ、下に降りるか」
透也はそう言って立ち上がった。
「おいで」

彼に促されて下に降りる。
透也の部屋は最上階の角部屋だった。

「いつ振りかな、透也の家に上がるのは」
「さぁ」

それでも以前来た時とそう変わってない様に思えて何故かほっとし
た。
「親に言われてないか?家には入るなって」
「言われてないけど、どうして」
「あぁ、言われて無いならいいんだよ」
透也は笑った。
「透也がわけありでも、そういうの差別するような人達じゃないよ」
「え?あ…うん、そうか」
「本当だよ」
「…そう、おまえが家に入りたがらない様に感じていたから、てっ
きり」
「それは…透也が、迷惑に思うかなって考えたからだよ」
「僕が?そんな事言ったかな」
大きな冷蔵庫を開けながら彼が言う。
「ううん、そうじゃないかって…思っただけ」
「僕はそんな風に思った事はないけどね」
冷蔵庫から冷やしたゼリーを何個か取り出してテーブルに置いてく
れた。
「どうぞ」
「…うん、ありがとう」
蓋を開けて銀色のスプーンですくって食べた。
「透也は…私の事、どんな風に思っているの?」
「どういう意味?」
テーブルに肘をついて頬杖をしながら彼が答えた。
「私は、透也の事を大事な幼馴染って思ってる。だけど、景ちゃん
が透也は幼馴染ごっこだって思ってるって言うの」
「僕はそう思った事はないけど」
「…そうなの?」
「あぁ。ところで、みのりは明確に僕の事は幼馴染だと言ったけど
伊勢崎は違うのか?」
「え?」
「伊勢崎には、ただの幼馴染だとは言わないのか」
「ただの、じゃないよ」
透也を幼馴染だという気持ちは、そんな言葉が頭についてくる様な
思いじゃない。

私にとっては大事な―――――。

くいっと顎を持ち上げられ、いつの間に隣に立っていたのか、透也
の方に顔を向けられた。
笑っている様に見えて笑っていない、そんな表情を彼はしていた。
「愛しのけーちゃんってわけか」
「え??」
「伊勢崎は昔からおまえを支配したがっていた、おまえは支配され
たい女なんだな」
「支配って、何を言ってるの、透也」
「おまえを支配したいと思っているのは、あの男だけじゃないんだ
よ…みのり」

ふっと顔の前が暗くなり、唇に柔らかい温もりを感じた。
それがキスなのだと気が付くのには時間を要した。
少しだけ唇を離した透也と目が合う。
「透…也?」
「誰かのものになるのを黙って見てるぐらいなら、いっそ壊した方
がマシだな」
強い力で引き寄せられて椅子から転げ落ちる。
そしてそのまま床に倒れて、透也が上になった。
「と、透也、どうしたの?」
「手の届くところに居て欲しいなんて僕には言っておいて、別の男
のものになるのか、都合が良いんだな」
「だから、それは考えた事が無いって…」
「僕は幼馴染で、ヤツはそうじゃないんだろ?」
「そうじゃないってどういう意味?」
「おまえが言ったんだろ、伊勢崎には幼馴染だって言わないってさ」
「何を言って…とう…ン」

唇を彼の唇で塞がれる。
激しく唇を奪われ、口腔内には彼の舌の感触があった。

他人の舌の感触を初めて知って、自分の舌先に触れるたびに身体が
震えた。

透也が私に何をしようとしているか、判らないと言えるほど物を知
らない人間ではない。

判らないのはその行為の意味だ。

彼が何故、私にそうしたいのか。

これが支配するっていう事なの?

透也の唇が、私の身体を滑っていく。
首筋や、鎖骨に。
キャミソールワンピースの肩紐がずらされてワンピースが胸の下ま
で下げられる。

彼の目の前で自分の下着姿を晒すのは耐え難いと思うほど強い羞恥
心を感じた。
「透也、やめてお願い」
「伊勢崎には許すのにか」
「してないよっ」
「これからするんだろ?」
強く胸を揉まれる。
「透也、痛い」
「…考えないようにしていたけど、おまえ良い身体してるよな」
「やめて」
「今更やめると思うのか?」
彼は笑った。
「ここまで来てしまったら、もう…してもしなくても壊れたのと同
じ。だったら」
背中に腕を回され、下着のホックが外される。
下着から零れた胸を彼がゆっくりと揉んだ。
「した方が良いだろ」
素肌に透也の手のひらの感触。
少し私より温度が低いその肌の温もりを直に感じて身体が強張る。
何かが壊れていくのがはっきりと判ってしまうから。
そして透也が”それでも良い”と思ってしまっているから余計に哀
しかった。

もう戻れない。

だけど、行為の意味は知りたいと思えた。
例えばそれがどんなに残酷な理由であったとしても。

透也を見上げ訊いた。

「透也は私を支配したいの?だからするの?」
星を映して輝かせる茶色の瞳が私を静かに見下ろしている。
「ただヤりたいだけだ」
「…そう」
視線を外す。
彼の小さな息遣いが近くにある。
身体の温度を感じる距離にいる。

だけど身体の距離と心の距離は同じではなかった。
私がどんなに透也との距離をあけたくないと望んでも叶わない事が
哀しい。

傍に居たいのに。
居て欲しいのに。


「…泣くのは卑怯だな」




-NEXT-

Copyright 2010 yuu-sakuradate All rights reserved.


>>>>>>cm:



-Powered by HTML DWARF-