朝も昼も夜も、彼が心の中から消えない。 考えようとしなくても浮かんでくる彼の横顔。 以前はこんな風に思い出したりはしなかったのに。 ****** 「みのり、廊下でA組の子が待ってるよ」 香穂に言われて廊下に出ると池上君が立っていた。 「…あ、池上君…」 「もう帰るだろ?一緒に帰ろうと思ってね」 「図書室は行かないの?」 「別に寮でも勉強は出来るからな」 「う、うん」 日差しが暑い中、木陰を選んで駅までの道を並んで歩いていく。 「でも、池上君は駅に行かなくても良いんじゃないの?寮って方向 違うよね」 「少しぐらいの回り道は運動にもなって良いと思うよ」 「そうなんだ」 ちらっと彼がこちらを見る。 「君は僕と一緒に過ごす時間を嬉しいとか思わないのか」 「え、あ…」 ぎゅっと鞄の持ち手を強く握った。 「それは…嬉しい、よ」 「うん」 ふっと彼は茶の瞳を細めて笑う。 一番嬉しい時間。 それは池上君を見ている時間。 彼の存在を確かめる様なその時間が一番好き。 「みのり、手、出して」 彼に言われて手を伸ばすと、池上君の長い指が私の指に絡んでくる。 ぎゅっと手を握られた。 彼の温度を感じる程に胸が熱くなる。 強い実感。 今一緒に同じ時間を生きているという実感が嬉しいと思える。 ―――――あなたが居る場所に、私も居る。 「ねぇ、みのり」 「何?」 「君を連れて行きたい所があるんだけど」 「う、ん…良いよ」 彼は笑った。 「何処?って訊かないんだな」 何処だって、彼と過ごす時間が少しでも延びるなら構わない。 私はそんな風に思っていた。 電車に乗り、日本有数の歓楽街がある駅で降りる。 ホストクラブが沢山ある一角に彼は足を向けた。 「ホスト…クラブ?」 「営業時間前だから大丈夫だよ、おいで」 フェイクタウンという看板がある店の裏口から彼は中に入った。 (池上君、ここでバイトしてるのかな…だからお金いっぱい持って たりするのかな) 薄暗い店内を想像していたのに入ってみると中は明るかった。 「お、透也…今日は珍しいな人を連れて来るなんて」 バーカウンターの中で、綺麗な男性が磨いていたグラスを置いた。 「おっさん、何か飲ませて」 カウンター前の椅子に私を座らせてから彼も座った。 「みのりには何か甘いもの、僕には甘くないもので宜しく」 「んー、何か甘いものか」 中の人は裏にあると思われるキッチンへと入っていった。 「あの人、ここのマスター」 「あ、そ…うなの?」 「僕の母親の遠縁にあたる人でガキの頃から良くして貰ってる」 「そうなんだ」 「結構良い男だろ?」 彼はカウンターテーブルに肘をついて頬杖をした。 「池上君はここでバイトしてるの」 私の問いに彼は驚いた様な顔をする。 「まさか」 「そ、っか。ごめんね変な事訊いて」 「いや、良いけど。何も言わずに連れて来たのは僕の方だし」 「お待たせ、みのりちゃんには桃のソイスムージー、透也にはアイ スカフェオレ」 マスターが私達の前にそれぞれの飲み物を置いてくれた。 透明のグラスの中にはミントの葉っぱが乗った白いスムージーが注 がれている。 「飲んでみて、気に入るかな?」 マスターはそう言って微笑む。 笑った感じが、少し池上君に似ている。 「いただきます」 添えられているストローで飲むと口の中いっぱいに桃の香りが広が った。 「あ、美味しい」 私が言うと、彼は綺麗に微笑んだ。 「そう?良かった、気に入って貰えた様で」 それからマスターはまたグラスを磨き始めた。 「ここは…世界中で唯一俺が落ち着ける場所」 池上君は小さな声でそう言った。 「こんな場所だけどな」 瞳を伏せて静かに笑う彼は、なんだかひどく儚げに見えた。 儚く見える理由が私には見当がつかなくて何も言えなかった。 ただ、多分、落ち着けるのは場所の所為ではなくマスターが居るか らなのだろうという事だけは思慮が足りない私でも判った。 「池上君は、マスターと似ているね」 「え?そんなん初めて言われた」 池上君は驚いた様な顔をして私を見る。 「そ、そうなの?」 「おっさん、みのりが僕とあんたが似てるってよ」 マスターは拭いていたグラスを置いて微笑んだ。 「そう?」 「似てるかねぇ」 「みのりちゃんが似てると言うなら似ているんじゃないのか?」 「ふーん」 池上君は笑った。 「ご、ごめんなさい」 「別に謝らなくても良いさ」 彼はふっと笑顔を解いた。 「…それが本当ならどんなに良いか…って思うな」 「池上君?」 いつもキラキラしている茶の瞳からはすっと光が消えた様になり、 本物のビスクドールの瞳に見えてぞくっとした。 「透也、何か喰っていくか?」 マスターの問いに彼は首を振った。 「いい、これ飲んだら帰る」 「でも、透也…」 「…なんか、良くない考えしそうだから今日は帰る」 ”良くない考え”? フェイクタウンを出て太陽の下で光を浴びる頃には彼はいつもの彼 になっていた。 「急に悪かったね、こんな所に連れてきて」 「ううん…あの、訊いても良い?」 「何?」 「…良くない考えって、なに?」 「あぁ…」 彼はふっと笑った。 「今ある現実と違う事を望む考えだよ」 「池上君は何を望みたいの」 「う、ん」 彼は又笑った。 「今までそうだったらって事も考えていなかったんだけど…もしも …僕が」 「うん」 「あの人の遺伝子で出来たニンゲンだったら良かったのにな…って」 「…」 「遠い血縁とかじゃなく、直接あの人の細胞で出来たニンゲンだっ たらなって、そうしたら…僕は」 くくっと彼は笑った。 「ま、ちゃーんとチチオヤは居るから、考えても仕方の無い望み。 思いを馳せるだけ無駄だろ?」 「池上君はマスターが好きなの」 「好きとか、そんなの考えた事ない」 池上君はゆっくりと私を見て笑った。 「マスター相手に限らず、それは誰に対してもだけどな」 「……」 「だってさ、仕方ないだろ、愛された事ないんだし」 「…マスター…にも?」 「…」 「マスターにも、愛されてない?」 彼は小さく笑った。 「みのり」 「う、うん」 「…愛って何?どういうのを愛って言うのさ」 ふっと笑顔を消して彼は続けた。 「それを君が知っているというのなら、君が僕に教えてよみのり」 親指で、唇をなぞられる。 愛情を知らしめる方法なんて判らない。 私は思った。 一体私に何が出来る? 見られる事さえ怖がる私が。 だったら全てを諦めるの?何も出来ないと諦めてしまうの? 心にリセットは掛けられないというのに。 頬に添えられた彼の手に自分の手を重ね合わせた。 「ごめんなさい…私だけが幸せで」 「……」 「こうやって一緒に居ても、私だけが幸せだもんね」 「僕と居て、君が幸せ?」 「うん、池上君の声を聞いたり、話をしたり、少しずつでもあなた の事を知っていける時間を過ごせる事が、嬉しくて、幸せだと思え るの」 私は彼を見上げた。 「池上君が居てくれなければこんな感情は知らないままだったと思 う。なのに…ごめんね、私は何もあなたに教える事が出来ない」 彼は僅かに眉間にしわを寄せた。 「幸せ…か」 私の頬に有った彼の腕が背中に回り引き寄せられて強く抱き締めら れた。 あまりの腕の強さに息が苦しくなるほどだった。 だけどやっぱり、苦しくても私の身体が彼の傍にあるその事がこの うえなく幸せだと思えてしまう。 例え同じ想いを共有していないと知ってても―――――。 -NEXT-