■■あなたの居る場所 5■■



私は何処まで落ちていくのだろう。
何処まで落とされていくのだろう。
池上透也と言う名を持った人の下(もと)へと―――――。

携帯の着信音が鳴る。
誰だかは画面を見なくても判る。
私は二つ折りの携帯をパチンと開いて通話ボタンを押した。
『みのり?今何処にいる?』
予想通りの人物の声が聞こえて、私は相手にそれと気付かれないように息をつ
いた。
「…ごめん。家に居る」
『え?家?どうかしたのか』
「具合が悪くなっちゃって…帰っちゃった」

ホテルに居たのは一時間ほど。
透也は宣言通りに昼までに私を大学に戻すつもりだったらしかったが、とても
ではないがあの後、景ちゃんと顔を合わすことなど出来なかった。
私が大学に戻ることを拒むと、透也は何を言うでもなく私をタクシーに乗せて
自宅まで送った。
タクシーの中では、ずっとお互いに無言だった。
ただ手を繋ぎ合うだけで…。

『具合悪いって、大丈夫なのかよ』
「少し寝たら楽になったから…」
『大学終わったら、そっち行くよ』
景ちゃんの言葉に、胸がつんとした。
「ごめんね…寝ていたいから、今日は遠慮して」
『そうか?なら…行かねぇけど、本当大丈夫か?』
彼の私を気遣う言葉が余計に胸に痛い。
「大丈夫…明日…学校でね」
『おう…じゃあな』
ぷつっと通話が終わった。
私は大きく溜息をついて、ベッドの上で寝返りをうつ。
…まだ、透也が身体の中にあるみたいに私の内部がジンジンしていた。
「けー…ちゃん」
涙が溢れる。
景ちゃんが悪い訳じゃない。
私はずっと景ちゃんで満足していた。不満なんてなかった。
透也が抜きに出て良すぎるのだ。
私が屈せずにはいられないほどに。

私は透也が付けた鎖骨にある赤い跡に触れる。
何故私なの?それとも誰にでも同じ様に言って、同じ様に抱いて奪うの?
彼が何を考えているのか判らなかった。
彼が私をどうしたいのかが判らなかった。
私があの日フェイクタウンに行かなければ、今でも平穏な日々が続いていた?
「こんな…っ、こんな自分の物の様に、跡を残してっ…」
自身に付けられた赤い跡を私は擦り落とすようにして擦った。
落ちる筈などないのに。
底知れず微笑む透也が怖かった。
透也の存在が怖かった。
安穏とした私の生活を奪われてしまいそうで。

そっとしておいて、私のテリトリーに入ってこないで。

だけど真実の姿が暴露された今となっては、自分の願いが虚しかった。

******

翌日、私は大学に行く気になれず、休んだ。
布団にくるまって小さくなって世界を遮断し、目を閉じていた。
携帯が何度か鳴ったけれども、私はそれを無視する。
景ちゃんとも誰とも話をしたくなかったからだ。

それからしばらくして、私の部屋の呼び鈴が鳴った。
それも無視していると何度も何度も呼び鈴が鳴らされる。
私は、よろよろと玄関に向かった。
自分の気配をドアの向こうの人間に悟られないように、そっと近付いて覗き穴
から訪問者を見た。
すると、訪問者は透也だった。
金色の髪の毛をひとつに束ね、ブランドの黒のダウンジャケットのポケットに
手を突っ込んでこちらを見ている。まるで私の気配を感じているかの様に。
彼は白い息を吐いて私に言う。
「…開けろ」
「…」
私は息を殺して、自分の存在を誤魔化すように身を潜めた。
すると、トンッとひとつ、彼がドアを叩く。
「そこに居るのは判っている…開けるんだ」
身体を震わせて私は言う。
「か、帰って」
「開けろって言っているの。何度も言わせるな」
嫌だと言いかけた瞬間彼が言った。
「僕を拒むのは許さない」
私は彼を追い返す言い訳を考える。
「…パ、パジャマなの」
「だから何?早くして」
私の小さな抵抗を彼は一喝して打ち消す。
仕方が無しに私がそっと扉を開けると、その僅かな隙間に手をかけて透也が大
きく扉を開いた。
「遅いよ」
「…何、しに来たの?」
私は一歩後退って彼に問いかけた。すると彼は薄く微笑む。
「何をしに来たと思う?」
私が一歩下がった分空間が出来てしまって、透也がそこに入り込んでくる。そ
して背で扉を閉めた。
かちりと鍵が閉められる音がする。
「な、何?」
「もうじき来るよ」
「何が?」
「奴が」
そう言って透也がフッと笑う。
「え…奴…って?」
「けーちゃん」
「えっ」
びくんっと私の身体が震えた。
「な、何?どういう事?」
「一限目が終わってすぐ彼は大学を出たよ」
「え…え?」
「だから僕も大学を出た。双方目的地は同じ、ただ交通手段が違うだけ。奴は
電車、僕はタクシー」
ふふっと楽しそうに彼は笑った。
「僕の方が早かったね」
私は恐ろしくなって息をのんだ。
「…景ちゃんの方が、先に着いていたらどうするつもりだったのよ!」
「僕の方が早く着くという確信があった」
「こんな事…やめてぇ…」
私は耳を塞いで首を振った。
「”来てくれて嬉しい”とは言わないの?」
「言うわけないじゃない、誰の所為で私が…苦しんでいると思っているの!」
「苦しい?」
ふっと透也は息を漏らす。
「本当の苦しさなんて何一つ知らないような純粋培養された人間が何を言う」
「貴方に私の何が判るって言うのよ」
「傍に居る人間だけが自分を理解しているとでも言うのか?」
「貴方が私を判っているなんて思えない!」
「ソレ、本気で言ってんの?」
無表情な薄茶の瞳が眼鏡越しに私を冷たく見つめる。そんな彼の視線に私は
怖じ気づいてしまう。
「だ…だって私は、貴方なんて知らない…」
「教えてやるよ。嫌という程ね」
「身体の事を言っているんじゃないよ」
「僕も身体の事を言っているんじゃないぜ」
「嘘よ!貴方は自分のその身体を使って私を…」
「”私を”何?」
彼は、にやりと嗤う。
「…帰って!」
「来て欲しくないのなら自分の居場所を知らせるような事をしなければ良かっ
たんだ」
ホテルからタクシーで送られた事を指して彼は言う。
「だ…って…」
「付け入られるような隙を作っておきながらそうするなというのは勝手すぎな
い?」
「…」
「僕を遮断したかったのであれば、僕が君の隣に座ろうとしたときに拒むべき
だった。その後だって君は全てにおいて甘んじて僕を受け入れている。それを
僕だけの所為にするのはどうかと思うね」
「そんなっ」
「君は一度だって本気で僕を拒んでいないだろ?」
「そんな…そんな…私は…」
「僕と言う人間を手に入れたいとカケラも思わなかったって断言出来る?」
「…っ」
言い返せない私に彼は笑った。
「僕が欲しいんだろう?…いや、違うな、”僕の事も”欲しいんだ。君は欲張
りだからね」
透也はわざと私を貶める様な言い方をする。
「…僕を部屋に入れて…それから一体どうするつもり?」
「これはっ…貴方が…」
「自分だけは悪く無い様な言い方は止めてくれないか」
「だって…だって…」
「もしも責任があるとするのなら、それは双方にある。何故なら君は大人だろ
う?自分で判断し、自分で行動が出来る立派な大人だ」
「……」
「快楽は分け合うのに、辛い事だけ僕に押しつけるの?ズルイね」
「辛い事だけって言うけどっ辛いのは私のほうだよ!」
「君が僕を受け入れようとしない姿勢が僕を苦しめているとは思わないのか」
「そんなの知らない!」
私が叫んだとき、彼は私の腕を掴んで引き寄せた。
唇の上に彼の唇を感じる。
そしてそれは触れ合うだけでは許されずに歯列を割って舌が挿入されてきた。
ぬるんとした舌が私の口腔内をまさぐる。
私は抵抗しようとするけれど、彼にしっかりと抱きしめられて頭を押さえつけ
られてびくりとも出来なかった。
「んーっ…んんっ」
「僕を…欲しいのだろ?」
「とう…や…っ、いやっ」
不意に彼が私の口を手で塞ぐ。
「静かに」
何??
ややあってから、ピンポーンと私の部屋の呼び鈴が鳴った。
透也が私を見下ろして、ふっと笑う。
それから私の身体を戸口に押し出し、そっと耳打ちをする。
「…来たよ。追い返せ」
「…っ」
「それとも、助けてと言うかい?」
彼は私の背中を押す。
ドアにぴたりと身体がつくように。
ピンポーンともう一度呼び鈴が鳴る。
私は背を伸ばし、覗き穴を見た。
そこには、透也の宣言通りの人が立っていた。私が息をのむと、透也が更に私
を扉に押しつける。
「君が、自らの言葉で彼を追い返すんだ。拒絶しろ…早く」
「…あ…け、景…ちゃん…?」
「みのり?俺だよ、開けて」
「ご…ごめん…あの…具合、悪くて…だから…その…」
「だから心配して来たんだよ。顔見せろよ」
透也が後ろから、ぐっと私を押してくる。
もっと、ちゃんと言えって言うみたいに
「ごめん、今日は帰って?」
「何言ってんだよバカ開けろ」
「ごめんね…無理…」
「何だよ無理って言うのは」
「今は…あの…」
透也がまた私を押す。
「…ごめ…ん、今誰にも会いたくない気分なの」
「俺にも?」
「う…うん」
「何だよ、なんかあったのか?昨日から変だろおまえ」
「何もないよ、何も無くて全然平気で、ちょっと具合が悪くてそれだけだから、
心配しなくていいから、今日は帰って」
扉の向こうから景ちゃんが迷っている様な気配を感じる。
「判った…だけど、少しで良いから顔見せろ」
「そのまま帰って」
「…みのり?」
「なんか…ちょっと風邪ひいているみたいで、だから景ちゃんに伝染したくな
いの…」
「…」
いつもと違う強固な私の態度に景ちゃんは困っている様だった。
息をひとつ吐いた。
「判った…帰る…暖かくして寝るんだぞ?いいか」
「うん…ごめんね、折角来てくれたのに」
「だったら顔を見せろって言うんだ」
「ごめん」
「…じゃあな、なんかあったら電話して来いよ?すぐに来てやるから」
「…うん、うん…」
扉の向こうにあった景ちゃんの気配が消えていく。
足音が遠のいていく。
透也が私の肩から手を退かした。
「満…足?」
「あぁ」
私の問いに短く答えて透也が靴を脱いで部屋にあがった。
私が振り返ると、すぐ目に付くところにあった壁掛けのコルクボードに貼って
ある景ちゃんと私の沢山の写真を彼は眺めている。
中には私と景ちゃんが小学校の頃の写真もあって、透也はそれをトンッと指で
叩いた。
「仲良さそー」
「仲が、良いの…昔から…私達は」
私の言葉に、透也は無表情な瞳を向けてくる。
「あぁ、そう」
「一番仲が良くて、何かあるとき傍に居てくれたのが景ちゃんなの」
「ふぅん、傍に置いて大事に大事にしすぎて君から自衛の手段を奪い取ったの
が彼なんだ」
「な…何?その言い方」
「世間知らずに迂闊に男の口車にのってこうなっちゃったのが君だろう?」
「…」
「守られすぎてその結果がこれだ」
「……」
私が何も言えずにいるのに、彼は次々と言葉を続けた。
「君って容易い」
がつんと頭を殴られたような気がした。
所詮彼は私を都合の良い遊び道具か何かとしか思っていないのだ。
そうだ、だって彼はフェイクのNO.1ホストのヒカルなのだから。
「酷い!私で遊んで何が楽しいって言うのよぉっ!」
「遊びならもっと楽しい。たかだか遊びで誰がこんなに下らなくて惨めな思い
を好きこのんでするかよ」
透也は無表情な瞳を打ち消して、熱をもった光を放つ瞳で私を見据えた。
「誰の所為で僕がこんな風になっていると思っているんだ」
「……え…」
「誰が、自分の目の前で野郎を追い返させて、それを見てほくそ笑むような下
らない男にさせたんだよ。言えよ!君だろうが」
「…」
「君はどれだけ僕が自尊心を傷つけられているか知りもしないで、自分だけが
被害者顔か!」
「そんなの判るわけないじゃない!私は貴方を知らない、少しだって知らない
のよっ」
「だから知れって言っているんだ!」
透也が声を荒げた。
「なによっ何キレてるのよっ」
「君がそうさせているのだろう!馬鹿か!」
「馬鹿って何よ!ホストのくせに!女をはべらかせてっ喜んで女ったらし!」
「僕の職業と僕の人間性は別だろうっ一緒にするな」
「何が違うっていうの!女好きのくせに」
「何が言いたい」
「アイシテルなんて誰にでも言っているくせに、まるで私にしか言っていない
ような言い方をして私を揺るがせないで!」
涙が一気に零れた。
愛しているなんて特別な言葉を誰にでも言えるくせに、そんな言葉で私を陥れ
ないで欲しい。
私には最良で最上の恋人がいるのだから。
だから揺るがせないで欲しい。
「…君が僕のその言葉で揺らぐのは、僕の気持ちが込められているからだ」
「聞きたくないよ」
「僕の想いが判るから迷うのだろ?」
「迷いなんて無い。私は貴方を選ばない」
「いいや、君は僕を選ぶ。必ずね」
そう言って、透也は私を引き寄せその腕の中へと私を招き入れる。
「僕を選べ」

私はどんどん落ちていく。
落とされた先で、がんじがらめになって身動き一つとれなくなっていく。
彼の鎖に縛られて、私は動けなくなっていく―――――

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