私はベッドから降りて、脱ぎ捨てられたパジャマを拾い上げて、それを胸の中 に抱えると涙を零した。 一昨日も抱かれた、昨日も抱かれた、そして今日も。 交わり合うたびに私の身体は彼に馴染んでいき、彼を知っていく。 回を重ねるたびに、私は彼の身体に悦びを覚えていく。 それが罪を重ねていくようで辛くて堪らなかった。 「みのり、こっちに来い」 背中から声がする。 私は立ち上がるとベッドに居る彼の所へ戻った。 「終わってすぐ服を着るな」 手に持っていたパジャマが再びベッドの下へと落とされる。 そして抱きしめられ、布団の中へと引きずり込まれた。 零れている私の涙を彼が拭う。 「泣くな…泣かせたいわけじゃない」 「…私は、貴方の思うとおりにさせられる」 しゃくり上げると、透也が私の髪を撫でる。 「君は、僕の思い通りになんてなっていないよ」 「嘘よ…全て貴方の計算通りになっているじゃない」 「…あぁ、身体だけな…だけど僕が欲しいのは」 薄茶の瞳に見つめられる。 私は彼の瞳を見つめ返した。 「君の、全てだ」 「…」 彼のしっかりとした腕が私を包んで抱きしめる。 私は、そっと彼の胸に顔を寄せた。 とくんとくんと、透也の心音が聞こえてくる。 私はこうして身を寄せて、相手の音を聞く事が好きだった。 相手、つまり…今までは景ちゃんだったのだけれども。 透也は黙って私の頭を撫でている。 「私…私、景ちゃんからは離れられない…」 「……」 「一緒に過ごした時間が長すぎて、彼を失った世界がどんな風になっていくか なんて考えられないの」 「僕では失って出来た穴を塞ぎきれないと?」 「だって、私は貴方が判らない」 知っている情報があまりにも少なすぎる。 彼がホストで、同じ大学に通う池上透也であるという事以外は何も知らない。 「新参者には戦う舞台にも上がらせないというわけか?」 「思い出が多すぎるの、離れるには、いっぱい思い出が有りすぎて」 私が成長していく過程で、彼は自然と私の世界にいて、私にとって景ちゃんは 空気のように自然で貴重な人物なのだ。 「彼を失ったら、私、どうやって生きていけばいいのか判らない」 「僕が居る」 「…無理よ…」 「…」 「景ちゃんを他の誰かに置き換える事なんて出来ないよ」 私の頭を撫でていた透也の手がぴたりと止まる。 「だから、私の事は…諦めて…貴方が、私の事を本当に愛しているというのな ら、これ以上私に苦しい思いをさせないで」 「僕は、誰かの為に自分の意思を曲げる事はしない」 「…透也っ」 「君には君の世界があるように僕には僕の世界がある。その自分の世界を生き 抜くために意思は貫く。後悔なんてしたくないからね」 「……」 「君は何の間違いか、僕の世界に入り込んできてしまった…本当に何の運命の 悪戯か…と思うほどにね」 「透也ぁ…」 「僕は今まで自分から誰かを欲しいと思った事がない。そう、今までは。だか ら他人に溺れる人間を見つめてきて、そういう奴らはなんて愚かしいんだろう と思っていたよ」 「……」 「実際、僕の目から見て今の僕はなんて愚かなんだろうと思えるけどね」 そこまで言って透也は身体を起こしてベッドから降り、シャツを羽織った。 「嫌がられているのに執拗に追い回して…馬鹿げている」 透也はズボンを履いてベルトを締めるとくるりと振り返って私を見た。 「君の意見は受け入れられない。だけれども、僕も少し頭を冷やした方が良い とは思う。僕は君に浮かされすぎている。だから僕はしばらく君たちの事を静 観する事にする」 「…」 「無理強いしたところで手に入れられるとは思っちゃいないさ」 透也はばさりとダウンコートを羽織る。 そして玄関へと向かって行った。 靴を履いて私を振り返る。 「じゃあね」 かちゃりと鍵を開けると、彼はもう振り返る事なく出て行った。 「……」 私もパジャマを羽織って…それから、気が抜けたようにぺたりと床に腰を下ろ した。 翌日から、本当に透也は一線を引いたように私の傍に寄ってくる事が無くな った。 ****** 冷たい空気が皮膚をぴりぴりと突き刺していく。 だけど波は穏やかで、ザザーンと満ち引きを繰り返していた。 「どうだ?いいだろ?冬の海も」 少し先を歩いていた景ちゃんが私を振り返って言う。 「うん…素敵ね」 「でも、少し寒いか…おまえすぐに風邪ひくからな」 そう言って景ちゃんは自分が巻いていたマフラーを外して私の首に巻き付けて くる。景ちゃんの匂いが鼻腔をくすぐって、私は安堵するように息を吐く。 景ちゃんと、ふたりだけの世界。 私は手を差し出して彼の手を握った。きゅっと彼が握り返してくる。 他の誰かから見れば平凡な私達かも知れなかったけれど、その平凡さが私には 心地が良かった。 私の全部、何もかもを知っていてそれでも私を好きだと言ってくれる人。 ここが私の居場所なのだ。 景ちゃんがマフラーを少しずり下げて、ちゅっとキスをしてきた。 「景ちゃん…好きだよ」 「俺も」 彼が広い胸の中に私を招き入れる。私も彼の身体に腕を回し身体を密着させた。 彼はきっとどんな事からも私を守ってくれる。 今までずっとそうしてきてくれたように。 景ちゃんがいるから私の世界は安定している。 「…みのり…来る途中にホテルがあった。そこ、行かねぇか?」 「え?」 「家まで我慢できそうにない」 そう言って景ちゃんは私に深く口付けてきた。 「んー…ぅん…」 「行こ?」 「…う…ん」 ホテルに行って、食事をしてそれから帰路について、私が自分の家に戻ったの は22時を少し過ぎた頃だった。 「…ふー…」 私は床に鞄を放ると、ベッドにダイビングした。 スプリングが軋む。 いつもする様に彼に抱かれた。 いつもと同じ様に私は達した。 なのに身体が満足をしていない気がしてもやもやとした気分になっていた。 「…二週間、かぁ」 私はカレンダーを眺めて独り言を言った。 透也が私に背を向けてから二週間以上が過ぎていた。 あれからなんの音沙汰もない。 重なっている講義がいくつかあるので彼を見かける事はあった。 きちんと大学には通っている。 そして夜にはフェイクで働いているんだろうな… …… 関係ないじゃない私には… 起きあがって、コートを脱ぎかけたとき携帯電話が鳴った。 画面を見ると香穂からだった。 「…香穂?」 通話ボタンを押して電話に出る。 『あ?みのりー?コンバンワ』 「うん、こんばんは…どうしたの?何かご機嫌?」 香穂の声は明るく弾んでいてすぐに彼女の様子が判った。 『もう、超ご機嫌よ!ヒカルの事覚えてる?』 「え?ヒカル?」 透也の事だ。 『ほらぁ、フェイクタウンのヒカルー』 「あ…あぁ、ヒカルさんね…彼がどうかしたの?」 『ふふっ今日彼とデートしたの』 指がぴくんっと反応した。 「あー…そうなんだ…良かったね」 『ヒカルってなかなかデートしてくれないんだけどね、今日はサービスして貰 っちゃった』 サービス?サービスって一体どんな、サービス? 私は嫌な想像をしてしまって携帯を持つ手が小刻みに震えた。 「あー…そう…」 『んもう!気のない返事ね!もっと羨ましがってよ』 「ごめん…だって私、ヒカルさんとは一度しか逢った事が無いから」 『あー…それもそうね。でも一度逢っただけでも格好いいって言うのは判って いるでしょ?』 「ごめーん、私はあんまり好みじゃないかな…」 『伊勢崎くんより、素敵だと思うけど?』 「あっ失礼だなぁ」 『ははっ、ごめんごめん。みのりは伊勢崎くんとラブラブなんだもんね。いい な幸せ者!』 「……」 『気が向いたらまた行こうよフェイク』 「うー…ん、気が向いたらね」 『うん、じゃ、ごめんこんな時間に電話しちゃって』 「…今までヒカルさんと一緒だったの?」 『うん、ついさっきまでね』 「…ふぅん…」 『じゃ、ばいばい』 「うん、ばいばい」 プツッと通話が途切れる。 …香穂と、透也は… 胸の中が黒いものでいっぱいになっていく感じがした。 関係ないじゃない、透也が誰と、どうしたって 私は携帯をベッドに放り投げる。 「…関係、ない…じゃない」 だけど、身体の震えがいつまでも止まらなかった ****** 石田教授の講義の時間。 景ちゃんと別れて足早に教室に向かうと、ちょうど教室に入ろうとしている透 也が目に入った。 私が息をのんで彼を見つめていると、透也がこちらに振り向いた。 目が合って、しばらく見つめてそれから私は視線を外した。 足早に彼の前を通りすぎようとした時、腕を掴まれる。 「…何、そのあからさまに”気にして下さい”っていう態度」 久し振りに聞く透也の声。 だけど今日は澄んだ彼のその声が憎らしくあった。 私は彼の手を振り払う。 「私に触れないで」 「僕に声をかけて欲しいって態度だったけど?」 「勘違いにも程があるわね」 「あぁそう」 教室に入っていく彼の背中に私は言葉を投げつけた。 「昨日は香穂とデートだったんですってね」 彼はちらりと私を振り返って、それから席に着く。 私も彼を追うようにして透也の隣に腰を下ろした。 「香穂から電話があった」 「香穂さんとデートするのは君との約束でもあったわけだし、何ピリピリして んの?」 「ピリピリなんてしてない」 「あぁそう」 「…貴方なんて大嫌い」 「あァ?」 机に頬杖を付きながら透也が私を見る。 「それを言いたいが為に僕を追っかけてきたの?最悪な趣味をしているな」 「一生かかったって私は貴方の事なんて好きにならない」 「はァ?」 「大嫌い大嫌い、だいっ嫌い」 彼は、ふぅっと溜息を吐く。 「なんの八つ当たり?愛しのけーちゃんと喧嘩でもしたの?」 「喧嘩なんかしない、私達仲良しだもん」 「あっそ。だったら何?」 「嫌いだから、嫌いって言っているの」 「…あのさぁ、そうやって僕の気を引きたいのは判るけど止めてくれないか? 迷惑だから」 「誰がっ…貴方の気なんて…」 「そんなに僕に放っておかれた事が気に入らないの?」 「何言ってるの?勘違いも大概にしてよ」 「今の君って飼い主に構って欲しくてキャンキャン鳴いてる犬みたいだ」 「……犬扱いなわけ?」 「あぁ、犬の方が賢いか。忠実だもんな」 「……」 「で、何。本当は何が言いたいわけ?」 私は胸の中に詰まった毒を吐き出すかのように言葉を繋ぐ。 「香穂が喜んでいた。ヒカルにサービスして貰ったって」 「それがどうかした?」 「……」 私が唇をきゅっと噛みしめると、彼が笑った。 「はっ、自分を抱かないのに他の女を抱いたって怒ってんの」 「香穂を抱いたの!」 「誰を抱こうが君にとやかく言われる筋合いは無いと思うけど?僕は君の所有 物でもなんでもない。ましてや恋人でもね」 「最低…」 知らないうちに涙が頬を伝った。 それを見た透也が、ふっと笑う。 「自分の手から離れたって判ったら惜しくなったの?勝手だな君って」 「大嫌い!」 私は立ち上がって教室を後にした。 最低、最悪。 あんな人に身体を許して、あんな人のために景ちゃんを裏切って、馬鹿みたい 馬鹿みたい。 私は中庭にあるベンチまで走って、それから声を押し殺して泣いた。 「そんなにショック?僕が誰かを抱いたのが」 涙がようやく引き始めた頃、頭の上で静かな声が響いた。 見上げると、いつの間に居たのか透也が私を見下ろしていた。 「…石田教授の講義、ふたつもフイにしたよ…」 彼は大きく溜息をつく。 私は言いたい事が言葉にならずに立ち上がって彼に背を向ける。 「もぉ貴方とは口きかない」 ふわっと透也が私を背中から抱きしめて来る。 「やめてっ」 彼の手から逃れようとして私は藻掻くけれどその腕から逃れきれなくて膝をつ くと透也が覆い被さって来た。 「…本気で僕が君以外を抱くと思っているの?」 耳元で透也が囁いた。 「こんなに君を愛しているのに、他の誰かなんて抱けるわけがないだろう?」 透也の唇が耳の裏に押し当てられる。 柔らかい彼の温度に身体がぴくんっと反応した。 「君だけだよ…君だけが、僕を自由に出来る」 「…透也ぁ…」 「ごめんね?哀しかった?」 身体が勝手に振り返って、腕が勝手に彼の首に回された。 まるで自分が彼を欲していたかのように、私は自分から彼に口付ける。 「とう…やっ…う…ン」 「…寂しかった?寂しかったと言ってよ…香穂さんに妬いて苦しかったと言っ てよ」 私は透也の薄茶の瞳を覗き込んだ。 「ほんとうに、本気なの?私を好きなの?」 「好きだって言っているじゃないか」 「…いっぱい…言って、私が好きって嘘じゃないって」 「みのりが好きだ…愛しているよ」 「透也…傍に居て、抱きしめていて」 私が彼をぎゅうっと抱きしめると、透也が私の耳元に唇を寄せて、低く低く囁 いた。 「…そのまま僕に溺れろ…何も判らなくなってしまえ、僕以外見えなくなれば いい」 もう抜け出せない…彼の居る世界から――――― |