■■蒼の扉 3■■


翌日、昇降口で靴を履き替えていると視界に人影が入った。
そちらの方を見ると、矢島が立っている。
「…どうも」
顔には何の色も見せずに僕に声を掛けてくる。
「…お早う」
「高崎とはヤッたのか」
むしろ気持ちが良い位に単刀直入に聞いてくる。
「どうだろう?」
僕が濁した物言いをすると、矢島はぴくりと眉を上げた。
「あいつはおまえが抱いた女の中で何番目に良かった?」
「そんな事を聞いた所で何になる?」
「…はっ、それもそうだな」
自虐的に微笑んで、それから奴は唇を結んだ。
「もう行っても良いか」
「…ああ」
僕は鞄の中に手を入れてある物を取り出して矢島に差し出した。
彼が訝しげに手を出してくるので僕はその手の上で握った物を落とした。
「…」
「使ったと思われると心外だからな」
昨日矢島から渡された避妊具を、僕は返した。
「コレに関して、俺はどう解釈すればいいのかね」
「さぁな」
そう言って僕は教室に向かった。

―――――矢島は、さくらにも同じ質問をするつもりなのだろうか。

矢島を牽制する意味では、僕はさくらの傍に居るべきだろうと思ったが、相沢
を刺激するのはどうだろうか。
彼女がさくらを良く思っていないのはついこの間耳にしたばかりだ。
男よりも女の方がうんと複雑で厄介なものの様な気がした。
それにさくらは僕が介入しきれない場所に居る。
僕は息をついた。
傍にいれば、恐らくプラスよりもマイナスの方が多いだろう。

マイナス。

そうだ、僕が彼女に関わる事で、彼女が得る物なんてあるのだろうか。
例えば矢島から
例えば相沢から
彼女がどんな風に言われるか判らない。
どんな風に傷つけられるか判らない。

僕はさくらに関わるべきではなかった?

己の欲の為に彼女を抱き、その結果僕は彼女にリスクを負わせた。

抱き締め合った温もりを思い出す。
小さな身体で僕を抱き締めてくれた腕。

優しいあの子が傷つけられる事、それは許し難い事だった。

******

何かあれば、僕からさくらの携帯に連絡を入れる事になっていた。
だけど、僕が彼女の携帯にメールを入れる事は無かった。

僕が見た限りでは、さくらに何か害が与えられる様な事はなさそうだったから
少し安堵していた。

じりじりと焼け付く様に太陽の陽差しが強い日、夏休み前の集会が行われた。
明日からは長い夏休みに入る。
「休み…か」
僕は息をつき、鞄のファスナーを締めた。
休みに入れば視界の片隅にでさえ、彼女を感じる事が出来なくなる。
…つまらない感傷だ。
僕が関わらない事で、彼女の生活が安らかに保たれるのであればそれで良い。
ひとときでも心を触れ合わせた相手だから殊更僕はそう思えた。

上履きを袋の中に突っ込んで、鞄の中にしまう。
革靴に履き替えていると、僕から少し距離を置いた所に居るさくらが目に留ま
った。
「…塩瀬…君…あの…」
僕は辺りを見回す。
幸い誰も居ない。ほっと息をついてから彼女を見た。
「…話している所、誰かに見られると困る」
僕がそう言うと、彼女はぴくり、と震えた。
「う、うん…そうだとは、思うんだけど…」
「…用事なら手短に話して」
迷う様な顔をしてから、彼女が口を開いた。
「塩瀬君…には、私はもう必要ない…の?」
「…」
「全然…連絡、ない…から」
「俺達は、もう関わり合わない方が良いと思う」
僕の言葉に、彼女は顔を上げて大きな瞳で僕を見た。
「私、何か気に入らない事でもした?」
「気に入るとか、気に入らないだとか、そんな事を気にしなければならない様
な間柄ではないだろう?俺達は」
そう言う僕に、さくらは息を呑んだ。
「…私が、どうでも、もう関係ないって事?」
「どういう意味?」
「…」
「…同じ事二度聞かせないで、どういう意味だ?」
「や…矢島君に、やり直そうって言われた」
「…」
瞬間、僕の脳裏にさくらを抱く矢島の姿が浮かんだ。
なかなか逞しい僕の想像力に、僕は溜息をついた。
「矢島と付き合うなら、尚更俺はもう必要ないだろう」
「本気で言ってるの?」
「俺にそう言うって事は、矢島と付き合う気が君にあるという事だろう?」
「そんな気ないよっ!」
僕の耳がぴくりと反応する。
話し声と、足音が聞こえた。それが近付いてくる。
「私、私は…」
「黙って」
「塩瀬君っ」
「黙れと言っている」
自分が思うよりも厳しい口調になってしまって、言葉を受け止めたさくらがび
くっと震えた。
声が近付くにつれ、その声の主が相沢である事が判った。
僕はさくらを残し急いでその場を後にする。
小さく舌打ちをして、携帯をポケットから取り出し、僕は初めてさくらにメー
ルを打った。

『話は、俺の家で』

短い言葉を入力し終えて送信ボタンを押した。

******

エアコンのリモコンを操作し、むわっとした空気の部屋に涼やかな風を吹かせ
た。
僕の自室に、彼女がまた居る。
もう二度と呼ばないつもりでいたのに。
「私、矢島君と付き合う気はないよ」
「だけど矢島はそうは思っていないんじゃないのか」
「どうあったって、私と矢島君は元には戻れない、彼も、私も、もうあの頃の
私達じゃないもの」
「…」
「それに…矢島君が私を好きで、そう言っているとも思えない。昔手に入れら
れなかったから、手に入れたいだけなんだよ」
「…そうだろうか」
「そうだよ」
僕は息をつく。
「矢島に俺と寝たかと聞かれたか」
「…聞かれない。でも判ってると思う」
「…」
「どうして関わり合わない方がいいなんて言うの?他の子と寝ないでなんて言
ったから、鬱陶しくなっちゃった?」
「別の女と寝ないのは必要最低限の礼儀だと言っただろう」
「じゃあ…どうして?…どうしてって聞く権利も、私には無い?」
「…」
僕が黙っていると、さくらは小さく唇を結んでから口を開いた。
「私じゃ、もう抱きたくない?それとも…」
さくらは俯いた。
「…他に、抱く子が出来た?」
「俺を侮辱しているのか?」
「だって…だって…」
さくらはきゅっと唇を噛んで泣くのを堪える様に息を詰めていた。
だけどその大きな瞳からはいくつもの涙が伝い落ちている。
僕はそんな彼女をぼんやりと見つめた。
…僕は、何故彼女を泣かせているのだ?
僕が彼女と関わらない方が良いと思ったのは、彼女に辛い思いをさせたり、泣
かせたりしたくなかったからではないのか?
なのにその僕が彼女を泣かせている。
僕は、馬鹿か?
「おまえが嫌になっただとか、そういう事では決してない」
「じゃあ、どうして?」
「俺に関わる事で、おまえに何かあるといけないと思ったからだ」
「何かって?」
「…」
「私が悪口を言われるとかそういう…事?」
僕が黙っていると、さくらはポケットからハンカチを取りだし、涙を拭った。
「矢島君に何か言われる事はもう慣れてるし、女子から何か言われるかもしれ
ないっていうのも覚悟してるし、もし、そういう事を塩瀬君が心配してくれて
いるのなら私は平気だよ」
「…」
「そんな事よりも、塩瀬君に関わり合うのを止めようって言われる方が痛いよ」
僕は二の句が告げられず、黙るしかなかった。
静寂が部屋を包む。
それからややあってから先に口を開いたのはやはりさくらの方だった。
「塩瀬君、前にホテルに誘われたって言っていたよね。ソレって相沢さんでし
ょう?」
「…何故そう思う」
「よっぽど気に入らなかったみたいで、女子トイレですっごい怒っていたもん」
「…あぁ、そう…」
そんな事は別にどうでも良い。
僕が、どう言われても。
「塩瀬君と関係があるかどうか以前に、相沢さんが私の事を嫌っているってい
うのも判ってるから」
僕がさくらを見ると、彼女は笑った。
「どんな事があったって、私は大丈夫だから…それに…」
僕から視線を外してさくらは言った。
「学校でも仲良くしようだとか、そんな事は考えていないし望んでもいないか
ら」
「…さくら」
彼女の名を僕が呼ぶと、さくらは嬉しそうに、にっこりと笑った。
「塩瀬君がえっちな事をしたくなった時、呼んでくれればそれでいい」
静かに瞳を瞬かせて彼女はそう言った。
「そういうので、良いから…だから関わるのを止めようって言わないで」
僕は返す言葉が見つからなかった。
かと言って彼女を抱く気分でもなかった。
さくらは、僕が思っていたよりもずっと慧敏(けいびん)だ。
なのに何故、彼女は僕に身体を提供してくるのだ?
愚かしい事だと気が付かない彼女でもあるまいに。
「…ソッチに行っても良い?」
壁に寄りかかっている僕に向かって彼女がそう言った。
「え?あ…構わない、が」
僕がそう応えると、さくらはにこっと笑った。
僕の隣に彼女が来て、僕と同じ様に壁に寄りかかる。
さくらの香りがふわっと僕の鼻腔をくすぐった。
嫌味が無く、僕が”良い”と思う香りを彼女は持っている。
自然と手が伸びて、僕はさくらの頭をそっと撫でた。
「おまえは馬鹿なのか賢いのか判らない…」
「賢くは無いと思うよ」
「そうでも無いから判断に迷う」
「…ソレも、決めちゃわないと気持ちが悪い?」
クスッとさくらが笑った。
「馬鹿だと、思ってくれていいよ」
「…さくら」
「…する?」
ぽつっと彼女が言う。
「いや、今日は…しない」
「ん…じゃあ、帰るね」
腰を上げかける彼女に僕は言った。
「もう少し…居てくれないか」
そんな僕を振り返ってさくらはにこっと笑う。
「ウン」
「…少し、喉が乾いたな…ジュースの類はないのだけど、ウーロン茶でも飲む
か?」
「ウン、飲みたい」
「じゃあ少し待ってて、入れてくる」
「ウン」
姿勢を体育座りに変えながらさくらが応えた。
短めのスカートが少しだけ捲れて、僕はどきりとした。
その下にはスパッツを履いている事を知っていても。
「…拙い…」
僕は、はぁっと息をついた。
今さっき、本当についさっき、しないと彼女に言ったばかりなのに。

冷蔵庫を開けてウーロン茶のペットボトルを取り出す。
キャップの部分には”唯”と書かれている。
その隣には緑茶のペットボトルがあり、キャップには”七”と書いてあった。
その隣にはミネラルウォーターのペットボトルがあって、それは無印だ。
僕は自分のシルシがある物しか飲まない。他の人間も同様だ。
”七”は七菜子、僕の4つ上の姉の物という事。
無印は親の物という事。
僕はグラスをふたつ取り出して、其処にウーロン茶を注ぎ入れる。
それから冷凍庫からカップのアイスをふたつ取り出した。
勿論、そのアイスにも”唯”とシルシがしてある。
スプーンを持って、僕は自室に戻った。

「アイス、食べるか?」
僕がさくらにそう言うと、彼女は「うん!」と言って微笑んだ。
「ハーゲンダッツ大好き」
「それは良かった」
彼女はアイスの蓋をしげしげと眺める。
「…この”唯”っていうのは…?」
油性ペンで書かれたシルシの事をさくらは聞いてきた。
「俺の物って事」
僕は蓋を外して、中蓋を捲った。
「自分の名前を書いておかなくちゃいけない程兄弟が多いの?」
「一緒に住んでいる兄弟は、姉だけだ」
「…ふぅん…」
「ウチの家は、二年前からそうする事になっているんだよ」
銀色のスプーンでアイスを掬い取り、僕はそれを口に運ぶ。
口内の温度で冷たいアイスが溶けていく。
「二年前の三月、兄が大学を卒業し、姉が高校を卒業し、親は離婚し、そして
父親はすぐに再婚して女を連れてきた」
「…」
「成人していた兄だけが母親に付いていって、俺と姉は父親の元に残され、見
知らぬ女との生活が始まった。まぁ、キャリア持ちの女だったから家で会う事
も殆どないけどね」
「そうなんだ…」
「俺も姉も女を家族と認めていないし、女も俺達と家族になる気なんてない。
俺のウチは同じ家には住んでいるけれど皆他人って感じになっている、だから
自分の物にはシルシを付ける様になった…と、いうわけなのだけど、判った?」
僕がそう言うとさくらは頷いた。
「…でも、そんな話、私にして良かったの?」
「別に隠す事だとは思っていないから」
「…ほんと、塩瀬君って淡々としてるよね」
さくらはそう言って笑った。
「だから…?他の人と寝ないのが必要最低限の礼儀だって言うの」
「…今の俺は父親に対してどうこう言える様な人間ではないけどな」
「私と寝たから?」
「…」
僕はそのさくらの質問には応えずに、アイスを掬った。
「…塩瀬君がね…私の事、重たいと思うなら、だったら私、もう塩瀬君に関わ
らないよ」
僕が彼女を見ると、大きな黒目がちな瞳でさくらが僕を見つめた。
「負担になる位なら、関わらない」
「―――――俺もさくらの負担になると思ったから、関わるのを止めようと思
った」
「…塩瀬君」
「俺はさくらを負担だと思わない」
そう言う僕にさくらは静かに瞳を瞬かせた。
「塩瀬君、ひとつだけ約束して欲しい事があるの」
「なんだ?」
「私が要らなくなったら、その時は、要らないとはっきり言って」
「…」
「そういう風に言わなくちゃいけないのも面倒かもしれないけど、言ってくれ
ないと私は馬鹿だから、判らない」
「…判った、おまえの言う通りにする」
「ありがとう」
さくらは微笑んでアイスの蓋を取った。
「だけど、おまえは馬鹿ではないよ」
そう言った僕に、さくらは照れた様に笑った。

―――――さくら。

この、胸の痛みは何だろうか。
正体の判らない胸の痛み。
僕はその胸の痛みを誰に訴える事もなく、彼女の隣でただ、アイスを食べた。

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