青い空、青い海。 僕はその蒼に憧れる。 携帯の着信音が鳴った。 その音に僕は覚醒させられる。 薄く目を開けて時計を見ると、AM7時を少し過ぎた頃だった。 僕は携帯を手に取って画面を見、溜息をついた。 「…もしもし…」 『はいはい〜お兄ちゃんですよ〜』 電話をかけてきた主は、ハイテンションにそう言った。 「…切ってもいいかな」 『一ヶ月ぶりなのに、冷たいねぇ』 「今、何時だと思ってるわけ」 『まさか寝てたの?』 「寝てたよ」 『夏休みになったからと言って、お寝坊さんなのは感心しないな』 「…で、何」 『今日はお店は休み、予定も入ってない、だから逢おう』 毎度毎度この兄は、突然電話をしてきて、突然逢おうと言い出すので始末に負 えない。 「俺の予定とかは気にしてくれないわけ?毎回毎回」 『予定でも入ってるのか』 「…入れてないけど」 『じゃ、逢おう』 「…はぁ…」 『水着持参ね』 「なんで?」 『海に行くから』 「はぁ?」 『白波海岸に連れて行ってやるよ、ユイはあの海が好きだろ』 「…好き…だけど、さぁ」 僕は身体を起こして長い前髪を掻き上げた。 「アシ…は?」 『マイカーで』 「飲酒運転だろ?」 『今日は早上がりしたから酒は抜けてる』 「本当かよ」 『本当、本当』 「けど…兄貴と二人で海っていうのもな」 『七菜子はどうせ昨晩は彼氏の所にお泊まりだろ?』 例え不在ではなくても姉貴の水着姿を見たいとは思えないが。 『女が必要?だったら声掛けてみるけど』 「兄貴の女って客だろ?冗談は止めてくれ」 『じゃ、ユイが連れてくれば?』 「…」 一瞬、さくらの顔が頭をよぎった。 さくらにも見せたい、あの青い海を。 『黙るという事は心当たりがあるって事か』 「こんな朝早くに連絡が取れる相手ではない」 『一回メールしてみて、返事が返ってこなかったら諦めてお兄ちゃんと二人で 行こう』 「何が何でも海なのか」 『だって、夏だろうが』 「…判った、メールしてみる」 『じゃ、後で』 「あぁ」 僕は通話終了ボタンを押して、さくらにメールを打つ。 『起きてる?』 一言だけ入力して送信した。 返事はすぐに返ってきた。 『起きてるよ(o^^o)』 僕は彼女に電話をする。 「朝早くに悪い」 『ううん平気だよ』 「それで…突然ですまないのだけど」 『塩瀬君の家に行けばいいの?』 「あー…そうじゃなくて、海に行かないか?」 『本当に突然だね』 「だよな」 『でも、いいよ』 「それから、二人きりではないんだ」 『誰か一緒なの?』 「ああ…なんと言うか、兄貴が一緒なんだ」 『ふぅん、でもだったら私が居ると邪魔じゃない?せっかくの兄弟水入らずな のに』 「兄貴と二人きりで出掛けるとロクな目に遭わない」 ましてや海だ。 逆ナンされる事間違い無しだ。 『そう、お邪魔じゃないなら行く。塩瀬君のお兄さんを見てみたいし』 「…まぁ、俺よりはよっぽど丁重に持て成してはくれる。職業柄女の扱いには 慣れているだろうから」 『職業柄って?』 「…」 僕は言いかけて止める。 隠す事では無いと思うが、僕が言う事で兄が好奇の目で見られたらと思うと言 い出せなかった。 さくらはそんな種類の人間ではないと信じたかったが。 『…えーっと、何処に集合?』 話題を変える様に彼女が訊いてきた。 「あぁ、俺の家の最寄り駅まで出てこられるか?」 『ウン、大丈夫』 「じゃあ時間は後でメール入れる」 『うん判った』 「じゃ…後で」 『うん』 通話を終えてから、僕は彼女を信用しなかった自分に溜息をついた。 ****** 「おはよー」 さくらが手を振りながら改札から出てきた。 「お早う、悪いな急に」 「ううん」 さくらはにこっと笑う。 彼女はいつものツインテールではなく、髪を下ろしていた。 吹く風に髪がさらさらとなびいて綺麗だった。 私服を見るのも初めてだ。 水色のキャミソールワンピースに半袖の白いカーディガンを着ている。 制服よりも胸のラインがはっきりと判る。 僕は思わず手を伸ばしてカーディガンの前ボタンを留めた。 「ん、え?」 「この方が良い」 肌が隠れて。 「そう?」 さくらは頭を傾けた。 プップーとクラクションの音がして、振り返るとボルドーレッドのベンツが停 まっていた。 兄の車だ。 運転席から彼が降りてきて、僕達に手を振った。 Tシャツにジーンズとラフな格好ではあったが、相変わらず身に付けているア クセサリーの類は多い。 マロンブラウンの髪が陽に透けていっそう茶色かった。 「塩瀬君のお兄さん?」 「ああ、そうだ」 さくらがぺこりと兄に頭を下げた。 「可愛い仔猫ちゃん、お名前は?俺は晃(あきら)ユイの兄です」 「お、おはようございます、あの…塩瀬君と同じクラスの高崎さくらです」 「宜しく、さくらちゃん」 兄がちらりと僕を見る。 「クラスメートなんだ?」 「そう、クラスメートだ」 「へーえ」 兄は、にやりと笑う。 「俺の弟はいつからクラスメートの女の子が着ているカーディガンの前ボタン を留めてあげられる様な男になったのかねぇ」 「見ていたのか」 「見えたの。そーんなに俺に、っていうか他の男に彼女の胸元を見せたくない わけ?って思えたんだけど」 「煩いな」 痛い所を突かれて僕は眉をひそめた。 「あ、ご機嫌悪くなっちゃった?」 そう言って笑う兄を無視して僕は後部座席の扉を開けた。 「どうぞ」 「あ、う、うん…失礼します」 さくらを先に乗せ、僕は後から乗り込んだ。 それを見て兄も運転席に乗った。 「さくらちゃん」 兄がさくらに声を掛けてくる。 「はい」 「俺って煙草を吸う人なんだけど、吸っても良いかな」 「はい、どうぞ」 「悪いね」 煙草の箱から一本取り出し、それを銜えるとライターで火を付けた。 「ユイは相変わらず煙草は吸わないの」 グレーのレンズのサングラスを掛けながら兄が言う。 「吸わないね」 「髪も相変わらず真っ黒だし、染めない?お勧めの美容院に連れて行くよ」 「嫌だね。これ以上兄貴に似たくない」 「…晃さんと塩瀬君って本当に似ているよね」 と、さくらが言うので僕は彼女を見た。 「兄貴の事は”工藤さん”と呼ぶと良い、晃さんなんて呼ぶと喜ばせるだけだ」 「あれー、言っちゃって良いわけ?」 ルームミラー越しに兄が僕を見てくる。 「さくらには話してある」 「えぇ?そんな事まで話ちゃうのにクラスメートなの?」 「クラスメートだ」 兄貴は灰皿に煙草を置くと、くるっとさくらの方を向いた。 「だったら、俺と付き合わない?仔猫ちゃん系の可愛い子って最近の俺のスト ライクゾーンなんだよね」 「おい、7つも下の女にまで手を出すようになったかロリコン」 「あぁ…17だとセックスすると青少年健全育成条例にひっかかっちゃうなぁ …犯罪だな」 犯罪と言う兄の言葉に、さくらがぴくりと反応する。 「え、は…犯罪なの?」 「”青少年同士”だったら犯罪にはならないよ、俺達の住んでいる所ではね」 兄がにこっと笑う。 鮮やかな営業スマイルで。 「…そうなんだ」 と、ほっとする様な顔をするさくらを見て兄は満足そうに笑った。 何て事もなく、さくらは兄の誘導尋問に引っかかる。 「コレでもクラスメートって言うんだ?ユイは」 「…初めから、カマをかける気で言ったんだな」 「え?な、何?」 「だってー、ユイが女の子を連れてくるなんて初めてだし、気になったんだよ ねぇ」 また煙草を口に銜えながら兄が言った。 「そうかそうか、ユイもようやく男になったか」 感慨深げに彼が言うので、僕は座席を後から蹴った。 「早く車を出せ」 「唯人君、車が壊れちゃうよ」 兄は楽しそうに笑っている。 さくらが僕を見ている気配がしたので彼女を見ると、黒い瞳がうっすらと滲ん でいた。 「ごめ…んなさい、私、帰ります」 彼女が車を降りる様な素振りを見せたので、兄が運転席側でロックをかける。 「唯人」 「判ってる」 僕は彼女を抱き寄せてその頭を抱えた。 「大丈夫だから、兄貴に知れても俺は困らない。困るぐらいなら初めからさく らを呼んだりしないよ」 さくらは僕の胸で小さく震える。 泣くのを堪えているのが判って、僕は苦しくなった。 「酷い事…するな、気になったのなら俺に聞け」 本当に彼女に酷い事をしているのは僕で、兄に訊かれたからと言って素直に白 状する僕ではない事は判っていても、僕は言わずにはいられなかった。 兄も反論せずに静かに応えた。 「ごめんね、さくらちゃん…俺ってさぁ、ドSなんだよね、だから可愛い子を 見ると苛めたくなっちゃうんだよね、というか泣かせたくなるというか」 兄の言葉に、さくらが笑ったので僕は、ほっとした。 「兄貴がSなんて初めて聞いたぞ」 「言ってなかったっけ?」 「聞いてないよ」 「そういや、あんまり他人に言った事なかったっけ、コレが2度目かな」 吸っていた煙草を灰皿に押しつけて火を消すと兄はサイドブレーキを下ろして 車を発進させた。 僕は手を解き、そっと頭を撫でてから彼女の身体を解放する。 「本当は、3〜4日休んで沖縄にでも連れて行ってやりたいんだけどね、金は あるけどなにぶん時間が取れなくてね」 「相変わらず休みは週一なのか?」 「そうだね」 「…忙しいのだな」 「働いて成果が出た分リターンも大きい商売だからね」 「仕事は…変える気はないのか」 僕がそう訊くと、兄はルームミラー越しに僕を見た。 「…恥ずかしい?身内がこんな職業だと」 「恥ずかしいなんて思った事は無い、ただ…兄貴の身体が心配なだけだ」 兄は、ふっと笑った。 「有り難う、でも俺は大丈夫だよ」 「…ご免、兄貴にばかり負担を掛けさせて」 「何?急に」 「口に出したのは、初めてだが…ずっとそう思ってた」 二年前、母に付いて家を出て前職を辞めて今の仕事に就職したと聞かされた時 から、僕はずっと思っていた。 「俺がもっと役に立つ人間であったのなら、兄貴の人生はもっと違う物になっ ていたのではないかって」 「そんな事は気にしないで、ユイはユイの人生を謳歌すればいい。だからおま えがバイトをする事を禁じているのだし」 「…」 「今のユイには働く事なんかより大事な事がある筈だよ、学生時代なんて一生 のうちのほんの僅かな時間しかない、働くなんてその後でいくらでも出来る事 だからね、俺はそう考えているよ。ねぇ?さくらちゃん」 「えっ、あ…あの…」 急に話を振られてさくらは困惑の声を上げる。 「バイトなんかしたら、さくらちゃんと遊ぶ時間も無くなっちゃうよ、そんな の困るよねぇ」 「い、いえ…私は…塩瀬君が必要だと思っているなら、そうした方が良いと思 います…」 「あらら、味方に引きこもうと思ったのに」 そう言って兄は笑った。 運転席側のウィンドーを少し下げて、彼は煙草に火を付けた。 「ねぇ、ユイ、俺の事は心配ご無用だよ俺は結構この仕事気に入っているし」 「…」 「合わない仕事なら一年半も続かないよ、だからおまえも負担に思う事は無い」 だけどやっぱり僕は、何も出来ない無力な自分に歯がゆさを覚えずにはいられ なかった。 ****** ザクザクと砂を掘り、海の家の人がパラソルを二本立ててくれる。 そしてビーチチェアーを3つ置いていく。 「相変わらず、綺麗な海だな。心が洗われるね」 ビーチチェアーに腰掛けながら兄が言った。 本当に、信じられないぐらいに海はその蒼を僕に見せつけてくる。 泥水の様な海ではなく、空の青さを映したような青い色。 強い陽差しを浴びさせてくる太陽を、目を細めて見上げた。 本当に、良い天気だ。 「ユイー、悪いんだけどさぁこのビーチフロートに空気入れてきてくれないか」 畳まれた青のビーチフロートを、ぽんと渡される。 僕は海の家に行き、エアーを入れる作業をした。 膨らんでいくビーチフロートを眺めていると、着替え終わったさくらがやって 来た。 髪をねじり上げてヘアクリップで留めている。 髪型が変わるだけでも随分と印象が変わるものなのだなと僕は思った。 白いパーカーを羽織り、ファスナーを上げているので彼女の水着がどんな物な のか判らない。 「綺麗な海だね、近場でこんな海が見られるなんてなんだか嬉しい」 「ここに来るのは初めてか?」 「ウン、初めて」 さくらは可愛らしく微笑んだ。 そんな彼女の表情を見て、少しだけ面白くない気持ちになる。 僕が―――――自力で彼女をここに連れてくる事が出来ていたのなら…と。 さくらが手に持つビニールバッグの中に日焼け止めが入っているのが目に留ま った。 「日焼け止め、塗ってあげようか?」 「あ、ありがとう!それじゃあ背中をお願いして良い?」 バッグから日焼け止めを取り出して僕にそれを渡すと、彼女はパーカーのファ スナーを下ろしてそれを脱いだ。 さくらの白い肌が露わになる。 淡いピンク色のビキニを彼女は着ていた。 「……」 「どうかした?」 「おまえ、肌を露出しすぎだ」 「え、そう?」 僕は息をひとつ吐いて、手に白い液体を垂らしさくらの肌に塗った。 「これ…似合わないかなぁ?去年友達と一緒に買いに行ったヤツなんだけど」 「…似合うか似合わないかと聞かれれば似合っているとは思うが」 「”思うが”何?」 「さくらはもっとおとなしい水着を着ると思っていた」 「おとなしいって?」 彼女が笑った。 「もっと…なんと言うか、生地を多く使っている様な…」 それにビキニのパンツのサイドで揺れるリボンが気になって仕方がない。 …それは、まさか引っ張ると解けたりはしないだろうな? さくらが笑う。 「塩瀬君はこういう水着は嫌い?」 「嫌いではない」 …が。 正直目のやり場に困る。 綺麗に寄せられた胸の谷間だとかに目がいってしまう。 そして他の男も同じ様に彼女を見るのかと思うと…。 「終わった」 「ありがとう」 僕は彼女に日焼け止めを返した。 ビーチフロートも程良い大きさになっていたので、エアーポンプから外した。 さくらが胸や腹に日焼け止めを塗っているので、僕はしばらく待つ。 「塩瀬君はもう何か塗ったの?」 「いや、まだ…コレやっていたから」 そう言ってから僕はビーチフロートを軽く蹴った。 「そっか、じゃあ私も塩瀬君の背中に塗ってあげるね」 さくらはそう言うとにこっと笑った。 「…さくら」 「うん?」 「兄貴の、事なんだが」 「ん?」 言いかけて、僕はまた言えなくなった。 しばらく間があってからさくらが言った。 「言いたくない事は無理に言わなくていいよ、私、干渉しないから」 「…あぁ」 「でも、無関心とは違うからね。塩瀬君の事で、塩瀬君が言える事なら何でも 知りたいと思えるし」 「…そうか」 「そろそろ行こうか、お兄さん待ってるよ?」 そう言ってさくらは海に顔を向けた。 …僕はやはり馴れ合う事が苦手だった。 自分や、自分の回りの環境の事を相手がどれだけ受け入れてくれるかが判らな いから。 僕と、さくらは何もかもを許し合える間柄ではないから、見えないボーダーラ インが僕を苦しくさせた。 ****** 帰りの車中、疲れたのか、さくらは眠ってしまった。 ややあってから兄が口を開く。 「ユイさ…あの家、出ない?」 「…え?」 煙草に火を付けて兄は煙をふぅっと吐き出した。 「おまえにとって、あそこの環境が良いとは思えないんだよね」 「俺が家を出たら姉貴はどうなるんだよ」 「七菜子も出させるつもり」 「…」 「部屋を借りてやるから、一人で生活してみないか」 「これ以上、兄貴の負担にはなりたくない」 「おまえ達があの人達の傍に居る方が余程精神衛生上良くないんだけど?」 兄はそう言って笑った。 「聞いたよ、おまえ自分の食べ物にシルシを付けているんだって?」 「え?」 「ユイが飲み物を買いに行って俺と二人きりになった時に、さくらちゃんがそ う教えてくれた」 「…」 僕は眠っているさくらを見た。 兄には”言うな”と、さくらに口止めをしていなかった以上、彼女がどんな発 言をしようともそれは彼女の自由だ。 「ばらばらで、同じ屋根の下に住むのなら、いっそ本当にばらばらになってし まったほうが良いと思う」 「…それは正論なのかもしれないが…」 だからと言って兄に甘えるのもどうかと思えた。 「苦しいなら苦しいと言ってくれ、黙っていられると堪らない」 「…兄貴」 「二年前、母さんと家を出た時、本当はおまえ達を置いて行きたくはなかった だけどあの時の俺には養う自信が無かったし、事実それだけの収入も無かった 今は違う、皆を養える金は十分にある…おまえが望むなら、一緒に住んでも構 わないし」 僕は、ぎゅっと目を瞑った。 「なんでそんな事、急に言ってくる」 「おまえにとっては急な事かもしれないけど、俺はホストになると決めた時か らおまえ達をあの家から出す事を考えていたよ」 「…だからホストになったのか?俺達の為に?」 「そうじゃない」 「違わない、それしか考えられない、そうでなければ名の通った一流企業を辞 めてホストになんてなるものか」 「やっぱり、俺の職業を恥ずかしいと思っているんだな」 「違う、違う、俺の言いたい事はそういうのではなくて…」 「ユイは潔癖性だからな、母さんを裏切って別の女と結婚したあの人の事も、 女から金を巻き上げてる俺の事も許せないんだろうな」 「違う、許せないのは何も出来ない自分だ」 兄は吸っていた煙草を灰皿に押しつけて消した。 「俺だって、おまえの歳の頃は自分の世界で生きる事に精一杯だったよ、誰で もそうだ初めから何もかも出来る人間なんていやしない”順序”というものが あるんだよ」 「だからと言って兄貴が犠牲になる必要が何処にある?ただ偶然に俺達は兄弟 になっただけであって、兄貴が好んで俺の兄として生まれたわけではないだろ う?」 「あぁ…そうだな、どうせならおまえの親として生まれてくれば良かったと後 悔ならしているね」 兄の言葉に僕は言葉を詰まらせた。 「親というポジションに居るのなら、ユイは無条件に俺に甘えるだろうと思う から」 「親が子を養う事は、それは義務だ」 僕がそう言うと、兄は小さく息をついた。 「母さんが俺しか連れて行かなかった事をおまえは恨んでいる?」 「恨んでなどいない、付いていけば母さんの負担になる事ぐらい判らない歳で はない」 僕の言葉を最後に、車内は沈黙に包まれる。 FMラジオから流れる曲が一曲終わる頃、兄は再び口を開いた。 「…ユイ、おまえはやっぱり家を出なさい」 「それは…」 「七菜子もおまえが家に居たら、おまえを残して家を出られないだろう?」 「それは、そうかも知れないが…だけど」 「七菜子は恋人と同棲したい様だし」 「え?姉貴が?」 「ユイがあの家に居る事で、七菜子の精神的負担になっているよ」 僕が黙ると、兄は笑った。 「俺に負担を掛けるのと、七菜子に負担を掛けるのと、おまえはどちらを選ぶ ?」 どちらとも選べない選択肢を兄は僕に突き付けてくる。 否、それは初めからひとつしか選ばせない選択肢だったのだ。 |