■■蒼の扉 5■■


雨戸が開けられると、暗かった部屋の中に陽が射し込んできて明るくなる。
兄が窓際に立つとさわっと風が吹いて、彼の髪がなびいた。
「うん、なかなか良いんじゃない?ユイはどう思う」

僕と兄は、僕が一人暮らしをする為の物件探しをしていた。
何軒か見て回って、ようやく兄のお眼鏡に適った物件だったらしく、彼はそう
言った。
「…良いんじゃないか」
「ん、じゃあ此処にしよう」

始まりだとか終わりだとか、素っ気ない程簡単だ。
僕はあの家での生活を終わらせ、一人暮らしを始める。
不動産屋の手によって雨戸が閉められて部屋の中が再び暗くなった。
「あんな家でもいざ離れるとなったら寂しい?」
兄がそんな事を訊いてきた。
「寂しいなんて思わない」
「…そう」
人当たりの良さそうな顔で兄は微笑んだ。

―――――寂しいなんて思わない。
他人と暮らして息苦しい思いをするぐらいならひとりの方が余程ましだった。
実の父でさえ、僕にとってはもう他人も同然だった。
母と離婚し再婚した事を許すとか許さないとかそういう以前の問題で、彼から
は関わり合いや繋がる物を感じられなくなっていた。
そう感じてしまう僕の方に問題があるのだろうか?
親にとって子は、子にとって親は、一体どういう状態で繋がっているのがベス
トなのだろうか。
僕には判らない。
父は僕達が出ていく事について何も言わなかった。
どうしてそんなに無関心でいられる?
干渉しないのと無関心では大きく違う。

「俺達が居なくなったら、清々(せいせい)するのだろうな」
僕の言葉に兄は何も返してこなかった。

青い空に白い直線が描かれる。
僕はその飛行機雲を見つめ、息を吐いた。

******

「余計な事を言っちゃった…かな?」
新居に、さくらを招き入れると開口一番彼女がそう言った。
”余計な事”とは、恐らく僕が自分の物にシルシをつけているのを兄に喋った
事を指しているのだと思った。
「…どうだろうか」
「怒ってる?」
「いや、それは無い…ただ、自分の無力さを痛感するだけだ」
誰かに依存しなければ生きていけない自分。
それは少し重たく、息苦しかった。
「塩瀬君だけが、そうというわけじゃないよ」
「…」
「だから、苦しまなくていいと思う」
「だけど…兄貴は俺達の為に自分の事は後回しにしている様に思えてならない
んだ」
ただ、長兄に生まれてしまったというだけの理由で。
「もし、本当にそうだとしても、工藤さんはそれでも構わないと思っているん
じゃないのかな、かえってそれが嬉しいと思っているかもしれないし」
僕がさくらを見ると、彼女は笑った。
「好きな人の為ならどんな苦労も、苦労とは思わない人もいるよ。工藤さんは
塩瀬君の事がとても好きなんだと思うな」
黙る僕に、彼女は続けた。
「自分を置いてでも、塩瀬君の為になる事をしたいんだよ。だからその事で塩
瀬君が悩んだり苦しんだりするのは逆に良くないと思う」
「…だけど…」
「だけど…何?」
息をひとつ吐いて、僕はまだ迷う心を抑えて言葉を出した。
「兄は…夜の仕事をしているんだ、あの人は、ホストをやっている、俺達の為
に」
僕が兄の職業を告げると、さくらはあっさりと応えた。
「そう…それは大変そうだね」
僕はさくらを見る。
彼女の瞳に哀れんだり蔑んだりする色が浮かんでいなくてほっとする。
「俺達の為に、兄は犠牲になってる。やらなくていい事をやる羽目になってい
るんだ」
「例えそうだとしても、工藤さんはそれを喜んで受け入れているんじゃないの
かな」
「…」
「工藤さんは塩瀬君の事が、本当に本当に大好きなんだよ。工藤さんの普段を
知らないけど、でもとても優しい色をした瞳で塩瀬君の事を見ていたよ」
さくらは瞬きをしてから続けた。
「…塩瀬君には幸せになって貰いたいと思っているんだよ、工藤さんは」
「…」
「塩瀬君が幸せなら、それでいいんだよ。だから苦しまないで」
僕は溜息をついた。
「俺だって、兄貴には幸せになって貰いたいと願ってる」
だから余計に兄がホストをやっている事が、否、やらなくてはいけない状況に
させた要因のうちのひとつに僕の事が含まれているのかと思うと苦しかった。
「願うばかりで他に何も出来ない」
子供である自分が本当に口惜しかった。
僕がさくらを見ると彼女が笑う。
「塩瀬君が存在する事以上に望むものは何も無い―――――って、工藤さんは
思っていると思うよ」
「さくら…」
「塩瀬君が居るだけで世界は変わる。鬱陶しい毎日が違う物に変わっていく」
ぽつっと彼女はそう言って視線を床に落とした。
「塩瀬君はそのままでいて、変に賢い大人になんかならないで、ずっとそのま
まで」
「…さくら?」
僕が手を伸ばし彼女の頬にそっと触れると、その触れている手に彼女が自分の
手を重ねてきた。
「大人になって色んな事が思い出になって埋もれてしまっても、塩瀬君の事だ
けは忘れないよ」
「え…?」
「ずっと忘れない」
そう言って彼女が小さく微笑んだ。
さくらの言葉に僕はどうとも言い難い思いになる。
「それは…俺と距離を置きたいと言う意味か?だとしたら”光栄だ”とは、と
ても言えないのだけど?」
「あ…ううん、違う…けど」
「けど…何?」
「…」
「…さくら…」
柔らかな彼女の唇に、僕はそっと自分の唇を当てた。
触れる温度に胸が切なくなる。
「過去の物にされたくない」
「ごめん…ね」
「謝られると、余計にそういう意味だったのかと思えて辛いのだが?」
さくらは大きな瞳で僕を見つめてきた。

―――――始まりも終わりも素っ気ない程簡単に、やってくる。
僕は、じっと彼女を見つめ返した。
容易く始まった事だっただけに、終わりもある日突然やってくるのではないか
と思えた。
さくらと僕の終わり。
僕は息を詰めた。じわりと汗が滲む。
「…もう…こんな関係、止めたいと思っているのか」
さくらが首を振る。
「続けたいよ…私、塩瀬君に…」
黒曜石の様に輝く瞳で彼女は僕を見る。
その先に言葉があるのかと待ってみたが、彼女はそれ以上は続けなかった。
僕は、さくらを抱き寄せて腕の中に閉じ込める。

もう戻れない。
何も知らなかった頃の自分には。

”さくら”という存在を気にも留めていなかった頃の自分には戻れない。

戻れないのならば、共に在りたいと望むのは過ぎた事なのだろうか。
自分さえも護れない僕には。

さくらの艶やかな髪からは、ふんわりと爽やかな香りがした。
僕は息を吸い込む。
彼女の香りを堪能する様に。
そして少しだけ強く抱きしめた。

言葉少ない僕の傍に、僕のペースを乱さぬように傍に居てくれる君が、何か僕
を安心させた。
言葉の無い時間が居心地が悪いと思わない。
ただそれだけの事がなんでこんなにも安らかなのだろうか。

「…綺麗なお部屋だね、陽もいっぱい差し込んできて」
張り替えられたばかりの真白な壁紙。
フローリングの床もまるで新しい物の様だった。
「兄貴が…選んだ」
「そう」
僕は彼女の身体を撫でた。
本当に触れたい所は避ける様に、肩や腰をそっと撫でる。
さくらが少し震えた。
「もっと、触れて良いよ…」
白い彼女の頬が朱に染まる。
大きな瞳を伏せて僕の手を取り、ふっくらとした自分の膨らみに触れさせた。
欲望のままに抱いてしまえればどんなに楽だろうか。
彼女に自分の欲だけを押しつける事が出来たのなら。
だけど僕は、彼女の肉体だけでは満足していない気がした。
「さくら…」
彼女が離れたいと言えば僕はそれを承諾しなければならない事が、この行為の
代償の様な気がして。
ならばいっそ抱かずに…それで傍に居て貰えるのなら…。
僕は彼女の背に手を回し、また彼女を抱きしめた。
「…塩瀬君?」
「…さくら…」
力の加減を忘れてしまう程に僕はさくらを抱きしめた。

僕はこの気持ちを持て余す。
どう表現し、どの様にぶつければ良いのか判らずに、くすぶる想いが何かも判
らないまま抱きしめる事しか出来なかった。

「ん…ぅ…くるし…」

さくらが小さく漏らした言葉に僕は、はっと我に返る。
「あ…す、すまない…」
「…ウン…」
彼女は小さく笑って、自分のブラウスのボタンに手を掛けた。
僕はその手を止める。
「今日は、しない」
その僕の言葉に、彼女はそのつぶらな瞳を僕に向けてきた。
「しないならどうして私を呼んだの?」
「…」
僕は口を結んだ。
ただ逢いたいと、それだけの理由では駄目なのか?
「…ごめん…変な事訊いちゃったね…じゃあ…あの…」
迷う様な顔をして、それからさくらは口を開く。

「…もう帰ってもいい?」

僕は、
生まれて初めて、潰れるかと思う位の胸の痛みを感じた。

時間を共有するという事を、拒まれたのだと自覚するまでにはそう時間は掛か
らなかった。

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