■■蒼の扉 6■■


それから時間は前と変わらず、同じペースで過ぎていった。
僕はさくらを呼ぶどころかメールを送る事も出来ずにいた。
そして彼女からもなんの音沙汰もない。

彼女の世界に、
僕という人間は不必要なのだろうか。

彼女の傍で居心地が良かったのも、彼女を抱いて気持ちが良かったのも、一方
的に僕だけだったのだ。
その事実があまりにも寂しく、哀しかった。

与えて貰うばかりで、僕は何も彼女に返せなかった。
僕にとっては一大事の事でも、彼女にとっては聞くにつまらない話を延々と聞
かされて、さぞや退屈だっただろうと思うと、僕はもうさくらとは何を話せば
良いのか判らなかった。

******

午後7時を過ぎて、今日の夕飯は何にしようかとぼんやりと考えていると姉が
突然訪ねてきた。

室内をぐるっと見渡して笑う。

「良い部屋ねぇ、駅からも近いし学校も近くなったし申し分ないじゃない」
「別に俺は不満を言った覚えはないが?」
「あいっかわらずアンタって堅苦しい喋り方してるのね」
そう言って姉は僕の頭をぐしゃっと撫でた。
「今日は一体…なんなんだよ」
「たまにはあたしとつるんでみない?」
「つるむって?」
「前から思っていたんだけどさ」
「は?」
「お兄ちゃんの仕事ってどんなのか気にならない?」
「…ホストだろ?」
「そのホストってどんなものか見てみたいと思わない?」
僕は息をひとつ吐いて腕を組んでいる彼女を見た。
「気には…なるが…」
「行って見ようよ、ホストクラブ」
姉の突然の申し出に僕は目を見張った。
「…冗談…俺、未成年だぜ?」
「そんなの黙っていれば判んないって」
そう言って姉は紙袋から夏物の濃いグレーのスーツを取り出した。
シャツも持ってきていた。
「彼のだけど同じ様な体型だから着られるでしょ、ほら、着て」
強引に彼女は僕に押しつけてくる。
「行くだなんて言っていない」
「アンタねぇ」
姉はわざとらしく大きく溜息を吐いた。
「お兄ちゃんの日頃の苦労を私達は知るべきだと思わない?」
「それは…思うけれども」
「7時から営業してるホストクラブがあるんだって」
そう言って彼女は腕時計を見た。
「初回料金三千円、二人で…まぁ六千円だけど勉強料だと思えば安いかもね」
「本当に、行くのか」
姉はちらりと僕を見た。
「どちらかと言うとあたしよりアンタの方がお兄ちゃんの仕事の事、気にして
ると思ってるけど?」
僕は黙ったまま彼女の手からスーツを受け取る。
「私達は、知らなければいけないと思う」
姉はそう言った。
知らない世界で働いている兄を、ただ大変そうねと言うだけの自分が我慢でき
無いとも姉は言った。

「アンタって本当、お兄ちゃんそっくりね」
スーツ姿の僕に姉はそう言った。
「ああ、兄弟なのねって思うわ、本当」
「…なんだよ、それ」
「言葉のままよ」
彼女はハイヒールの踵を鳴らしながら、アスファルトの地面を歩く。

ネオン街には明かりが灯っている。

「ホストクラブってお水や風のおねーさま方を相手にする事が多いから大抵深
夜からの営業なんだってさ」
「風って?」
「風俗」
「…あぁ…」
「お兄ちゃんの店も12時かららしいわよ」
「そんな話、兄貴としているのか?俺には全然話さないのに…」
「何十回としつこく訊いていれば一度位は返事が返ってくるものよ」
姉はそう言って、クセのない長い髪を掻き上げた。
「…あぁ、此処よ」
彼女の言葉に、僕は看板に目を向けた。
ホストクラブ・フェイクタウンと書かれている。
姉は臆する事無くすたすたと店に入っていく。入り口までの廊下にずらりとホ
ストの写真が掛けてあった。
その中でも写真の大きさが明らかに違う物があって、そこに写っている人がい
わゆる此処のNO.1なのだなと理解できた。
扉を開けて店内へと足を踏み入れる。
「いらっしゃいませ、お二人様ですか?」
「…ええ、それから…初めてなんだけど」
「ありがとうございます、こちらのほうへどうぞ」
と、言いかけたホストが僕をじっと見た。
未成年である事が見抜かれたのかと僕は一瞬ひやりとする。
「何?」
あくまでも強気の態度を貫く姿勢の姉に、ホストは応えた。
「あ、あの…失礼ですが、暁(あかつき)さんですよね?」
「え?」
「えぇっと…すみません」
ホストは困った様な顔をして、僕達を置き去りにして奧に入ってしまう。
なんだろうか?
僕と姉は顔を見合わせた。
奧から白いスーツを身に纏った金髪のホストがやってくる。
僕を見て微笑んだ。
「イベントでも無いのにどうかされましたか?」
そう言う彼に姉は言い返す。
「初めてってさっきのホストに言ったんだけど、聞いていなかったのかしら?」
素っ気ない彼女の言い方を気にするでもなしにホストは微笑んだ。
「暁さんでは?」
「…違いますが」
僕がそう言うと、パープルアイを細めて彼は僕を見た。
「ああ…失礼しました、人違いの様ですね。知った人と、とても良く似ていら
っしゃるので間違えてしまいました」
鮮やかに笑って彼は言った。
…”暁”というのは、もしかして兄の事ではないかと思えた。
「あの…暁さんというのは…」
「申し訳ありません。大変失礼いたしました」
彼はそう言って頭を下げる。
「こちらにご案内致します」
テーブルに案内される。
僕はもっと”暁”なる人物の話が聞きたいのに。
それが伝わってか、姉に肘でつつかれた。
落ち着けと言いたいのだろうか。
慣れない雰囲気も手伝って、やけに気が急いた。
「ウイスキー、焼酎、ビールにソフトドリンクはどれだけ飲んで頂いても料金
は変わりません」
「フリータイム?」
「はい、フリータイムです」
そう言ってホストの彼はアルバムの様な物を姉に差し出した。
「当店のホストです、お気に召されたホストをご指名下さい」
姉はそのアルバムを開く事無く言う。
「貴方が良いわ」
「…有り難う御座います。ヒカルと申します。お客様の事はなんとお呼びすれ
ば宜しいでしょうか」
「あたしはナナ。この子はユイでいいわ」
「お飲物はいかが致しましょうか」
「焼酎の割物、牛乳ってやってくれるの?」
「牛乳…ですか」
「出来ないの?」
「いいえ、ご用意致します。ユイ様はいかが致しますか」
「…同じ物で」
「かしこまりました、少々お待ち下さい」
跪いていたホスト…ヒカルさんは、すっと立ち上がって裏に消えていった。
「牛乳酎なんて、ないんじゃないのか?こういう所って」
「そうね、そうだと思うわ」
姉は笑った。
「出来そうに無い事をやらせるのも醍醐味じゃなくって?」
「…酷いな。姉貴の発言ひとつひとつにヒヤヒヤさせられるよ」
とてもではないが初めてだとは思えない。
「今頃新人くんが牛乳を買いにコンビニに走っているんじゃない?」
ふふっと姉貴は笑った。
「…姉貴の様な人を接客しなければいけないなんて、大変な職業だな」
「あら、もっと悪い女だって居るんじゃない?」
姉貴が煙草を銜えると何時戻って来ていたのかヒカルさんがすっと火を付けた。
「有り難う」
「いいえ。飲み物の方、こちらに置かせて頂きます」
ウエイターから飲み物を受け取り、ヒカルさんは僕と姉の前に置いた。
「もう出来たの?早いわね」
「カクテルでも牛乳を使用しますから」
「ああ、そう言えばそうね、つまらないわ」
「ご期待に添えられなくて申し訳ありません」
と、姉の魂胆を知るかの様に、にこっとヒカルさんは笑った。
「本当よ、苛めるのが楽しいのに」
「お手柔らかにお願いいたしますよ」
気を悪くするでもなく柔らかく彼は微笑んだ。
”苛めるのが楽しい”?初めて来た店でそんな事を言うか?普通。
僕は息を吐いた。
だけど兄がSだと言っていた事を思い出して、血は争えないと思った。
「先程は失礼をしてしまって本当に申し訳ありませんでした」
ヒカルさんはそう言って軽く頭を下げた。
「その…暁さんと言うのは…もしかしてホスト?」
「…申し訳ありません」
「いや、謝って頂きたいのではなくて、暁さんの話を聞きたいんだ」
ヒカルさんはパープルに輝く瞳を少しだけ細める。
「良い話であれ、悪い話であれ、他店のホストの話をお客様にするのは如何か
と思われます」
「その他店のホストとウチの子を見間違えたクセに」
姉は少し意地悪な言い方をして笑った。
「そうですね、接客業をしている者としてはあるまじき行為ですね」
ヒカルさんは臆する事無く優雅に笑う。
へりくだった態度なのに、誇り高い様に見えてしまうのは何故なのだろう。
うやうやしくも尊厳を見失っていない彼は気高い別次元の人間の様に思えた。
ホストとは、もっと違う物の様に僕は思っていた。
客に媚びへつらい、擦り寄っていくのがホストだと。
…だけど、この人はどうだろう。
”擦り寄っていきたい”と、思わされる物がある。
男の僕でさえ、心惹かれそうになってしまう。
この人と同じ空間を共有し、少しでも近くに居たいと、それが高い金銭を要す
る事であっても、そうしたいと思ってしまう”何か”。
―――――それを有するのがホスト、兄の生業(なりわい)。
「どうかされましたか?」
ヒカルさんはそう言って僕を見つめてきた。
「いや…ホストって、凄い…と思って」
僕の言葉に、彼は首を少しだけ傾けた。
「凄いと言われる様な事は何もしていませんが?」
「…何もしていないのに凄いと思わされる事が…凄いのだと…」
僕は息を吐いた。
「お褒め頂きまして有り難う御座います。とても光栄に思います」
彼は柔らかく笑んだ。
なんて美しく笑うのだろうかこの人は。
ジャケットの内ポケットから名刺入れを取り出し、彼は姉と僕に名刺を渡した。
「…ホストって大変?」
姉が焼酎を飲みながら訊いた。
「どんな職業でも楽して稼げる仕事はないと思います」
「お決まりの返事ね」
「申し訳ありません」
ふっとヒカルさんは笑う。
「じゃあ、貴方がホストを辞めないのは何故?」
「…」
姉の言葉にヒカルさんは少しだけ考える様な表情をする。
「辞めたいと…思わないからでしょうね」
「…辛くはない?」
「例えばどんな事が?」
「毎日、お酒飲んで、女性の相手をする事が…かしら」
「それが僕達の仕事ですから、それが辛いと思う人間は、別の仕事を…探すで
しょうね」
ヒカルさんがちらりと僕を見た。
「…ホスト…希望?」
「いえ、俺には無理です」
「そう?」
彼が笑う。
「気付かない?先程から、お客様方がちらちらと貴方を見ている事に」
内緒話をする様に、少しだけ僕に身体を近寄らせてからヒカルさんはそんな事
を言った。
「当店のホストより、貴方が気になる様ですね」
「…それは、俺の顔が兄に…」
言いかけて言葉を飲み、僕は姉を見た。
「さっき貴方が言った”暁”というのは私達の兄の事だと思うの、兄の源氏名
を私達は知らないけれど、ウチの兄もホストをしているのよ。この辺りでね」
「そうですか、じゃあかなりの確率でナナ様のお兄さんが暁さんでありそうな
感じですね」
「兄をご存知?」
「ええ、知っています」
「貴方から見て、兄はどんな人?」
「そうですね…誰にでも心を配れる人当たりの良い、優しい人…でしょうか」
「…」
僕と姉は顔を見合わした。
「優しい上に器量好しなので、この界隈でもかなり有名なホストですよ。ホス
トの中でも彼を慕う人間も多いですし」
ヒカルさんはそう言って持っていたグラスを傾けた。
「…ホストという職業は、人に誇れる仕事では無いかもしれませんが」
彼はにこっと笑う。
「営業のやり方と考えようによっては、そんなに悪い仕事でもないですよ」
僕達を安心させる為か、ヒカルさんはそんな風に言った。

「あー、唯人、終電無くなるから帰るわよ」
時計を見ながら姉が立ち上がった。
およそ2時間、僕達はこの席に居た。
何人かヒカルさん以外のホストがやってきたり、途中他で指名が入ったりでヒ
カルさんが席を外したりと結構忙(せわ)しなかった。
何人かのホストを見た事で、ヒカルさんは特別で格違いだという事が判った。
だから彼はNO.1なのだ。

物言わぬ花を美しいと愛でる人の気持ちが少し理解出来た気分だった。

彼がただ黙って其処に居るだけで、場は華やぐ。

「結構楽しかったわ、また来るかもね」
そう言う姉に、ヒカルさんは頭を下げた。
「お待ちしています、お兄さんに宜しくお伝え下さい」
「兄に今夜の事を話したら、叱られるわ」
ふっ…とヒカルさんが笑う。
「お気をつけて」

そうして、今日という日は終わっていく…と、その時の僕は思っていた。

******

(結局、夕飯は食べ損ねたな)
品揃えの悪くなったコンビニの弁当の棚を眺めながら僕はひとつ取りあげた。
温めて貰った弁当が入ったビニール袋が夜の町に、がさがさと響いた。
スーツのポケットに手を入れて部屋の鍵を取り出そうとした時、僕の部屋の前
に人がうずくまっているのが目に入った。
不審に思いながらも近付くと、それはさくらだった。
「さく…ら?」
僕が声を出すと、彼女は顔を上げた。
「どう…した?こんな時間に」
携帯電話の画面を見る。
メールも電話の着信もない。
「いつから此処に?連絡をくれればもっと早く帰ってきたのに…」
「…」
彼女と目線を同じにしようと屈むと、さくらの顔がはっきりと見えた。
…彼女の唇の端が少し切れている様に見える。
「それは…どうしたんだ?」
「……」
さくらは僕の質問に一切答えてくれない。
「…部屋、入る…か?」
さくらは小さく頷く。
「…ん、じゃあ…」
僕はポケットから鍵を取りだし、玄関の扉を開けた。
部屋に入ると彼女は僕が提げているコンビニの袋を見てぽつっと言う。
「夜食?」
「え、いや…夕飯」
「ふぅん」
フローリングの床にぺたりと座って、さくらは遠い目をした。
「…さくら?」
「お酒の匂い、するね」
「あぁ、姉貴と飲んできたから」
「へぇ、お姉さんと逢うだけなのにそんな格好するんだ」
「”そんな格好”とは?」
「…」
さくらはまた口を結んだ。
「この…スーツの事を言っているのか?これは…」
僕は説明をしかけて止めた。
僕の家庭の事情なんて、彼女が聞いても面白くも何ともないだろう。
「俺の事より、さくらはどうしたんだ」
「…別に、他に行く所が無かったから…来ただけだよ」
彼女らしくなく険(けん)のある言い方をする。
「こんな時間に出歩いたら、家の人が心配するのではないか?」
「今夜はお兄ちゃんしか居ない」
…今の答えは僕の質問に対するそれなのだろうか?
「兄貴だって心配するだろう?」
「帰れって言うの」
涙が滲む瞳で僕を見てくる。
「本意ではないが来た様な言い方をしておいて、帰れと言ったらそれを言った
俺が悪い様な言い方をするのはどうなんだろう?」
「判ったよ!帰ればいいんでしょう!」
半ばヒステリックにさくらは叫んで玄関に走った。
サンダルを片方履き損ねたにも関わらず、彼女はそのまま飛び出していく。
「さくら!?」
玄関でひっくり返っている彼女のサンダルを手に取って、僕はさくらを追った。
マンションの階段の途中に、履いて出た筈の彼女のサンダルが落ちていて、僕
はそれも拾い上げた。
彼女の”それ”は”どうせ追いかけて来てくれるんでしょう”的なカタチだけ
の走りではなく、本気で脱兎のごとく走って行って、そして彼女は…存外に足
が速くてアルコールが入っている僕の身体は思うようには動かずにさくらの姿
を見失ってしまう。
「…なん…なんだ…一体」
僕は駅に向かって走り出す。
駅までは歩いて5分程、タイミングが悪ければさくらを逃してしまう。
裸足で電車には乗らないだろうと思いながらも、裸足で走って行ってしまう位
だから絶対とは言い切れない。
僕は、走って走って、駅の少し手前でさくらを掴まえた。
「…信じ…られない」
息を切らしてそれでも僕は彼女を抱え上げた。
「裸足で公道を走るか?普通」
大人しく僕に抱かれながらも、さくらは泣いていた。
「泣いている理由は?」
「…」
僕は息をついた。
「何も言ってくれないから、俺はごく一般的な事を言っただけなのだけれども?」
そう言いながらも、彼女の瞳から溢れ出る涙を見て僕は心苦しい思いになって
いた。
「…逢いたくなかっただとか、追い返したかっただとか…そういうのでは決し
てない」
僕の言葉を聞いたかどうか判らなかったが、さくらは僕の胸に頭をつけて声を
出さずに泣いていた。

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