■■蒼の扉 8■■


朝、目が覚めたらさくらが僕の腕の中に居た。
僕はずっと彼女を抱きしめたまま眠っていたのだ。
窮屈な寝かせ方をさせてしまったのではないだろうかと思い、僕は彼女の身体
からそっと自分の腕を引き抜いた。
「ん…ん…塩瀬…君…?」
「あぁ、すまない起こしてしまったか」
「んー…」
「まだ眠っていて構わないよ」
「う、ん…」
さくらは小さく身体を丸めて眠りに落ちる。
彼女の寝顔を見ながら僕は、訳もなく幸せだと感じてしまう。
胸の中が、仄(ほの)かに温かい。
さくらがただそこに居るだけで。
(さくら…)
慣れない感情を抱きしめながら僕はじっと彼女を見つめた。
艶やかに輝く少し茶がかかった髪の毛が、唇の端に触れている。
指先でそれをそっとはらう。
唇の傷が指に触れる。
この傷は一体どうしたのだろうか。
転びでもしたのだろうか。
僕は彼女の頭を一度撫でてから身体を起こした。
喉の乾きを覚えたので、僕が冷蔵庫に向かうと携帯電話が鳴る。
こんな時間に電話をしてくるのは一人だ。
画面を見ると表示されていたのはやはり兄の名だった。

「もしもし?」
『…ユイか』
「あぁ」
いつもと少し違う口調だったので、兄の用件が何なのかはすぐに察しがついた。
『昨日の様な事は、もう二度とするな』
「…」
『七菜子から話は聞き出している、この件に関しての口答えは許さない』
「…もう知られているのか、凄いな」
『おまえが見たり触れたりして良い世界じゃない』
いつもの兄らしくなく、言葉が鋭かった。
『…携帯の番号をホストに教えたりしていないだろうね?』
「教えてないよ」
『ホストから貰った名刺は全て捨てろ一枚も残すな』
「…」
『それからヒカル君と連絡を取る事は絶対に許さない』
「…別に、電話なんてしないよ」
『絶対にするな』
「しないと言っている」
兄は大きく溜息をついた。
「…あの人は、兄貴の事を良く言っていたけど…悪い人なのか」
僕が訊くと、兄はまた溜息をついた。
『良いとか悪いじゃなくておまえにとってホストをやっている人間は有益じゃ
ない』
「なんだよ、それ」
『特にヒカル君は…フェイクの社長と繋がっている』
「だから?」
『おまえに目を付けられると困るんだよ』
「…俺は高校生だよ」
『稼げると判れば、年齢を詐称させてでも使う人間は使う』
「…」
『…こんな事…やめてくれ、本当に』
兄の物言いが、とてつもなく悪い事をした様な気分にさせる。
「俺達は、興味本位で行った訳ではない」
『理由がどうでも、ホストの世界におまえが触れて良い事にはならない』
「実の兄がしている事を知るのが、そんなにいけない事なのか」
『ユイ』
「俺に知られたくない様な仕事だと思っているなら、兄貴の方こそホストなん
てやめてくれ!」
『…』
「俺がしていい仕事ではないと思っているのならホストなんてやめてくれ」
『…ユイ』
「学校やめて、俺も働くから」
僕がそう言うと兄はしばらく黙ってから、ふっと笑った。
『笑わせるな、子供が』
「―――――っ、なんだって?」
『学歴が全てだとは言わない、何かひとつ秀でた物があれば成功する人間も居
るが、おまえの様に普通の男が高校程度も卒業出来なくて、一体どこの会社が
雇ってくれる?』
「…」
『例え何処かに就職出来たとしても、おまえが朝から晩まで必死に働いて貰う
給料程度、俺の一日の稼ぎにもなりはしない』
「…そういう…言い方をするのか」
『屈辱的か?』
兄はそう言ってまた笑った。
「俺がどんな思いで…」
『俺は自分の意思でホストになった。誰の為でもない』
「それは嘘だ」
『誰かの為になんてぬるい事言ってやっていける程、甘い世界じゃないね』
「…」
『おまえが自分の為に俺がホストをやっていて心苦しいとか思っているのなら
高校位卒業しろバーカ、戯れ言はそれから聞いてやる。それまでは俺の仕事に
口出しする事も関わる事も許さない、判った?』
気持ちのやり場が無くて僕が黙っていると兄が繰り返す。
『判ったか』
「…わ…かったよ」
言い方がどうしても反抗的になってしまう。
それが判ってか、兄は笑った。
『ユイ』
「なんだよ」
『おまえが生まれた時を俺は知っているよ』
「…だから?」
『親がおまえと過ごした同じだけの時間を同じ様に過ごし、同じ様に見てきた。
そんな俺がユイを可愛いと思うのはごく当たり前の感情だとは思わないか?』
「飴と鞭というわけか」
『そう思ってくれても構わないけどね』
「だったら、俺が兄貴を思う気持ちも理解して貰いたい」
『はいはい』
「…」
『まぁねー、なんと言うかねぇ、ユイの気持ちは確かに有り難いんだけどさ、
おまえの”想い”って俺から言わせて貰うと、ぬるいんだよね』
「…っ」
『気を悪くした?でも受け止め側の俺がそう思うんだから仕方ないよね』
兄は笑いながら残酷な言葉を簡単に吐いてくれる。
『受け止め側に伝わらない想いなんて所詮自己満足でしかない。まぁ、俺の為
におまえに必死になって貰いたいとも思わないけどな』
言葉が出てこない。
そんな風に言われるのは心外だったし口惜しいのに。
言い返す言葉を失っている僕に兄は尚も続けた。
『おまえは黙って俺に可愛がられていれば良いんだよ』
だから逆らうなという強い感情を向けられた。
『同じ様な事を二度したらその時はおまえから”自由”を奪い取ってやるから
そのつもりで、じゃあな』
ぷつり、と通話が途切れた。
―――――僕の気持ちは、思いは…自己満足でしかないのか…案じる事すら許
されない程に。
「…くそ…」
僕は携帯電話を強く握り締めた。
兄の為に僕は何一つ出来はしない。
事実だ。
だけど…。

「塩瀬…君…」

声がして、振り返るとさくらが起きていた。
「…ご免、起こしてしまったか」
二つ折りの携帯をぱちんと閉じてからさくらに近寄ると、彼女は僕のシャツを
小さく握った。
「学校…やめるって…」
不安そうに僕を見上げてきた。
「…やめないよ…」
そう言って僕はさくらの頬を撫でる。
彼女の不安を払拭しようと笑おうと思ったけれども出来なかった。
僕は、そんな簡単な事すら出来ないのか。
さくらはそれ以上追及してくる事無く、黙っていた。
手を伸ばして僕は彼女を抱きしめる。
応える様にさくらも僕を抱きしめた。
「ごめんね」
ぽつっと彼女が言う。
「…何を謝っている?」
「……」
「さくら?」
ぎゅっと彼女が僕を抱きしめる。
「好きなの…どうしても、どうしても…」
「…」
「…大好きなの」
震えるさくらを僕はそっと撫でた。
「俺も…さくらが好きだよ」
「塩瀬君…」
「…なんて、俺が言っても何の重みもないのだろうな…」
僕の言葉にさくらが顔を上げた。
「それもそうだ…散々さくらの気持ちを踏みにじっておきながら、それで好き
だなんて…よく言えたものだと…呆れる」
そう言う僕にさくらは首を振って瞳を滲ませた。
「…ごめんなさい…私が、言えば…塩瀬君に辛い思いをさせるって…そんなの
判っていたのに」
僕は深く息をついた。
「さくらが悪い事は何もない、言われなければ気が付けない俺が悪いのだから」
見上げてくるさくらの頭を、僕は撫でる。

どんな風に想いを形にすれば正しく相手に受け止めて貰える?
どんな風に伝えれば。

受け止めて貰えずに、すり抜けてしまうのは僕の想いが軽いからなのか。

僕はまた息をついた。

「…もう少し眠るか?」
僕が聞くと、さくらは首を振った。
身体を屈めて僕は彼女の頬に唇をあてる。
ちら、とさくらが僕を見た。
「…塩瀬君…あの…ね」
「何だ?」
「今度の…花火大会…」
「…うん?」
「塩瀬君と一緒に、行きたい…」
「ああ、構わないよ」
僕の答えに、さくらはほっとした様に微笑んだ。
「…遠慮する事はないよ、したい事や行きたい所があるのなら言うといい」
そう言った僕を彼女はじっと見つめる。
「…いっぱい…一緒に居たい」
「だったら毎日逢おう」
「いいの?」
「構わないよ、俺も逢いたい」
僕の言葉に、さくらは涙を浮かべる。
ああ…本当に…彼女に辛い思いをさせてきてしまったのだなと僕は改めて思っ
た。
「ご免な」

それから僕達は毎日逢った。
宿題を一緒にしたり遊びに行ったり部屋でただ眠ったり、そんな風に過ごして
いた。
毎日逢っていたから、僕は気が付かなかった。

ある夜。
何とも無しに僕はさくらに電話をしようという気分になった。
別段用事があるというわけでもなかったし、明日になれば逢えるのだけれど…
(構わない…よな)

彼女の携帯に電話をかけた…が、繋がらなかった。

******

「ねぇ、さくら」
「うん?」
「昨日…おまえの携帯に電話をかけたのだけど繋がらなかった。解約したんだ
な」
「…あ…う、うん…壊れちゃったから」
「壊れた?いつ」
「…いつだったかな…」
「何故黙っていた?」
「…ごめんなさい機種変更しようと思ったんだけど…今お金が無くて…」
「黙っていた理由は?」
僕が問い詰めると、さくらは俯いて黙り込む。
胸の中がぴりっとした。
さくらが”言いたくない”と言ったり、黙り込んだりする事は重要である様な
気がした。
「どうして言わなかったのか?」
「なんとなく…言いそびれちゃって…」
彼女がそういう返事の仕方をするには遅すぎた。
本当になんとなく言いそびれていたので有れば会話のもっと早い段階で言う筈
だ。
僕に何かを隠したいのだと思えた。
「なんで壊れてしまったの?」
「…落として…」
「何処で?」
「何処って…その…道で」
「何処の道?」
「あの、近所の…」
「近所って?」
「私の家…」
「そう」
さくらは下を向いている。
「…どんな風に壊れたの?」
「え、ど…どんなって?」
「壊れ方にも色々有るだろう」
例えばどんな、という例えは僕はしなかった。
その理由でと彼女に言わせない為だ。
「あ…その…」
「どんな風に壊れてしまったのだろうか」
「…」
「壊れた状態そのままを言えばいいだけだろう?何を考えているの、事実と違
う事を言おうとしているのか」
さくらは黙ってしまう。
黙るという事は肯定している様なものだ。
「いつ壊れたの?」
僕はまた初めの質問する。
さくらは黙っていた。
「今度は忘れたって言わないのだな」
「…」
「つき通せない嘘なら初めからつかない方が良いのではないか?」
「…二つ折りの携帯だったから…」
「だったから?」
「二つに…」
「二つに折れた…と言うのか」
さくらは頷く。
「普通に誤って落とした程度でそんな壊れ方はしない筈だな、人為的に壊した
と言う事か」
彼女は黙っている。
僕が言った事が間違っていないという事だろう。
「…まさか自分で壊した…のか?俺から連絡が無いから…」
「ち、違うよ」
「では誰が壊したんだ」
「…」
「…矢島?」
「違うよ」
「だったら誰?」
「言いたくない」
「…言いたくない、か」
彼女の言葉が話を流してはいけない重要な事だと僕に確信付ける。
胡座をかいている自身の膝を僕は拳で二度程叩く。
「…あの夜…」
僕がそう言うと、さくらがぴくりとした。
「さくらが俺の家の前で待っていたあの日、俺に逢いたくないと言われると思
った以外にも連絡をしてこなかった理由があって…それは…携帯が壊されてし
まったから俺に電話をしたくても出来なかった?ナンバーを覚えていなかった
から」
さくらは黙っている。
違うのならば違うと言うから、僕の推測は間違っていないという事になる。
胸の中がぴりぴりとした。
嫌な感じだ。
言いたくない言葉を僕は言わなければならない。
「…おまえの方こそ…あの日、誰かと逢っていたのか…」
「ちが…違うよ、そんな事しない」
「…誰かに…”親しい”人間に、携帯を見られた。俺の番号が登録してあるの
を見られた?それとも履歴?」
さくらは黙って、小さく震えた。
「俺と繋がっている事を知られて困る様な人間、怒る様な人間がおまえには居
るというわけなのだな」

”違う”

彼女はそう言わなかった。

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