■■蒼の扉 9■■


「…俺は…言ったよな。他人と共有する事を認められるほど広い心を持ち合わ
せてはいない…と」
「わ…私は誰ともしていないよ!」
叫ぶ様に言うさくらに、僕はほっとした。
極度の緊張状態に心が切れてしまいそうだったから。
だけど、例えばさくらが他の誰かと寝ていたとしても…僕はさくらを手放せら
れるのだろうか?
「では一体誰が携帯を壊したのだ?」
僕の問い掛けに、さくらは益々震えた。
…普段と変わらない口調でいるつもりなのだが僕の言い方がキツイのだろうか?
とはいえ、僕は追及を止める気はしなかったが。
「さくら…誰が、壊したのか?」
「……お…おにい…ちゃん…」
「兄貴?」
さくらはこくんと頷いた。
「おまえの兄が、携帯を壊したと言うのか」
僕の言葉に、さくらは頷いた。
僕は息をつく。
”下”というものは、”上”の支配下に置かれる事が多いのか。
そう僕は解釈をした。

『同じ様な事を二度したらその時はおまえから”自由”を奪い取ってやるから』

兄が僕に向けて言った言葉を思い出す。
「付き合いを反対されているのだな?」
あの時の僕達は、付き合っていなかったけれども。
さくらは黙っていた。
そんな彼女を抱きしめると、さくらは泣いた。

******

さくらが帰った後、僕はぼんやりと考えた。
…さくらは今、辛い状況に置かれているのだろうなと、そう考えるとやりきれ
なかった。
本人には聞かなかったが、あの夜、さくらが僕の部屋に来た時に出来ていた唇
の傷は…もしかしたら彼女の兄に殴られて出来た傷なのではないだろうか。
そう僕は思った。
少し天井を見つめてから、僕は起きあがって携帯をぱちんと開いた。
…僕の携帯には矢島のナンバーが登録されている。
以前、彼が無理矢理僕の携帯に登録したのだ。
遊びに行く時は誘えだとかそんな事を言いながら。
僕は息をひとつついてから、矢島のナンバーに電話をかける。

『はい?』
「矢島か?塩瀬だけど」
『ああ、見慣れないナンバーが表示されっから誰かと思ったぜ』
「今、話せるか」
『今ねーデート中なんだよねぇ』
「…それは悪かったな、ではかけ直す。いつなら都合が良い?」
ククッと矢島が笑う。
『うっそーん。良いぜ、話って何?まぁ…どーせ高崎の事だろ』
「ああ、察しが良いな」
『塩瀬が俺の所に電話をかけてくる理由なんて他に思いつかねーもん』
「…」
『何、仲良くやってんの?』
「付き合っているのか?という意味の質問であるのなら、そうだ」
『あっそ』
「…俺は矢島に謝った方が良いのか?」
『なんで?』
「なんとなく、そう思った」
『謝って、と言ったら謝るの?』
「そうだな」
ククッとまた矢島が笑う。
『別に、もう高崎とは付き合ってなかったし、塩瀬がどうしようと俺には関係
ないって言えば関係ないかね』
「…思ったのだが」
『何』
「矢島が俺をやたらと誘って来たのは、さく…高崎から俺を遠ざける為だった
のか」
『…さくらって呼べよ。付き合ってんだろ』
矢島が息をついた。
『結果的には…高崎にアクション起こさせる羽目になっちまったがな』
「それは、イエスと言う事か」
『そうだね』
「矢島は…さくらが俺を…」
言いかけて僕は言葉を飲んだ。
僕が言わない代わりに矢島が口を開く。
『見てれば判るっての、高崎は…割と早い段階からおまえの事を見ていたよ』
見ていれば判る。
彼はそう言った。
矢島は、未だにさくらの事を…。
「矢島は、今でもさくらが好きなのか」
『そんな事聞いてどうすんの?』
そう言って彼は小さく笑った。
『今でも好きだと俺が言えば、高崎を譲ってくれんの?』
「無理だ」
少しの沈黙の後、矢島が言う。
『高崎は…100%を見せてくれている様で、その実、硬い殻の中に閉じ籠も
っている様な…そういうやつだ』
ふっ、と彼は息を漏らした。
『もっと早く、その事に気が付いていたらなぁ…』
「…矢島…」
『んで?話って何、まさか付き合ってる報告の電話じゃねーだろうな』
「あぁ、違う…俺が聞きたいのは、さくらの家庭環境の事だ」
『家庭環境?ああ…その事か、高崎は何て?』
「その事かと言うのはどういう意味だ?何か特別な環境なのか?」
『おまえに言わねぇって事は、上手くいってねぇのか…それとも上手くいって
いるからなのか…』
「知っているのなら教えて欲しい」
『俺と付き合い始めてちょっとした頃かな、あいつの親が再婚してさ』
「再婚?」
『ああ、それまでずっと母親と二人暮らしだったんだ、なんでもあいつが…小
学生って言ってたかな、そん時に親父さんが事故で死んでさ』
「…そんな…そんな事、一言も…」
それだったのなら、僕の家が再婚したのだと彼女に話した時に、同じだと言え
ば良かったのに、それを言わなかったという事は。
「上手くいってないのか…義理兄と」
『兄貴が居るのは知ってるんだ…はっ…益々…悪いなそりゃ』
「…」
『付き合ってる時はさぁ…そういう事考えもしなかったんだけどよ』
「何だ?」
『…あぁ、こういう事おまえに言うとアレかな…』
「言えよ」
矢島は少し間を置いてから話し始める。
『高崎って…すんげぇ極端に嫌がったんだよな』
「何を?」
『何をって聞くか?』
矢島が笑った。
『ぶっちゃけ俺もあん時は経験とかなくってさぁ、余裕ない分、怖がらせたか
なっていう風にも思うけど、だけどさ、今思うと』
少しの沈黙。
また僕の心がぴりっとした。
何か凄く嫌な感じだ。
「思うと…なんだ」
その先の言葉を僕が催促をすると、彼がそれに応じる様に言葉を僕に向けて来
た。
『兄貴になんかされてんじゃねぇのかってさぁ…』
「何かとは?」
『…性的虐待…とか』
「…っさくらはっ」
言いかけて止める。
さくらは、僕が初めてだったけれども…だけど…その後は?
「さくらが…乱暴されている…と、言いたいのだな」
『国立大学に通う3つ上の兄貴が出来たと初めの頃は嬉しそうに話していたよ
だけど…その後全く話さなくなった、別に問題が無いから話さないんだと俺は
思っていたんだけどよ、でも本当は逆じゃねぇのかなぁって』
僕が息を詰まらせると、矢島は言う。
『塩君、大丈夫?』
「……」
『…そんな事あるわけねぇって…反論してくんねぇかな…なんか、すげぇ…痛
いんだけどよ』
言葉なんて出ない。
呼吸さえも苦しい。
例えば、今まではされた事がなかったとしても、あの夜はどうだ?
僕に逢いたかったと泣いた夜。
初めて僕に感情を向けてきたあの日。
抱こうとした僕を怯えた瞳で見上げて―――――。
『…心当たりが…あっちゃったりするわけ…か?』
「…」
『無言でいるのは肯定だと思うぜ?』
矢島の声が微かに震えていた。
互いに言葉が無く、沈黙がしばらく続いた。
その沈黙をやぶったのは彼の方だった。
『なんで…もっと早く…』
「…矢島」
『傍に居ながら、俺は何も知ろうとも判ろうともしないで、ただ苦しめて、目
を瞑っていた結果がこれかよ!やっと出来た家族に、兄貴に乱暴されて』
「矢島!」
『俺は何も出来ずに…くそっ』
息を吸い込むと気管が震えた。
僕は小さく、細かく息をついて、それから言葉を吐き出した。
「おまえはもう…何も考えなくて良い、今おまえが言った事は推測にすぎない
だから忘れろ」
『ふざけんな!推測だって?おまえには心当たりがあるんだろうが!』
「例えば真実だとしても、さくらとおまえはもう何の関係もないだろう」
『おまえ…よく、そんな事が言えるな…”例えば真実だとしても”だって?な
に落ち着いちゃってんだよ…てめぇの女がレイプされてんだぞ、それとも何か
おまえの高崎への感情は動じないで済む程度のものなのかよ!』
「…喚(わめ)くな…騒いで、動じて、それで何か解決するものがあるのか?」
『騒ぐ事も動じる事もしないで済む程度の事なのかって言ってんだよ!俺はっ
!』
「違う、矢島が騒いだり動じたりする必要が無いと言っているんだ」
『その落ち着き払った態度が気にくわねぇって言ってんだよ!』
「今まで矢島が言った事は全部忘れろ、さくらはレイプなどされてはいない…
もしそうだとしても…まるで痛みを分け合う様に苦しんだりするのはおまえで
はない、この俺だ。さくらの痛みを感じて良いのは俺だけだ」
『……』
「…夜分、騒がせてしまってすまなかった、それじゃあな」
『おまえは護れると言うのか?』
矢島の感情を剥き出した言葉に、僕は返した。
「…おまえに…約束が必要なのか?護れないと言ったらおまえが護れるとでも
言うのか?何も出来なかったと自分でも言っただろう?」
僕はそう言って、電話を切った。
矢島には何も出来はしない。
―――――だけど、僕なら出来ると言うのか?
ただ兄の庇護の下(もと)で甘んじている僕が。

******

花火大会の夜。
僕とさくらは土手の上を歩いていた。
さくらは変わらず微笑んでいる。
僕が手を繋ぐと、はにかみながら笑った。
「…塩瀬君と一緒に来たかったの」
「…そうか…」

黒い空に光の花が咲く。
僕達は、否、僕は天を仰ぎ見た。
何故さくらに痛みを与えるのか。
どうして?
何も出来ない僕を嘲る為か?
立ち向かえはしないと蔑む為か?

僕は強く彼女の手を握り締めた。
さくらが僕を見上げる。
「…何があっても、俺はさくらを離さない」
「…塩瀬…君?」
「俺はさくらから離れない」
「……」
さくらの黒い瞳に僕が映る。
僕の瞳に彼女が映っている様に。

何を捨てても裏切っても、僕は彼女を護りたい。
こんなに強く何かを願うのは初めてだった。
だけど願うだけで成就出来るなんて思いはしない。
そこまで僕は子供ではない。

ふたりが繋いだこの指を、どうすれば離さずに済むのか。

僕とさくらが生きていける場所。
ふたりで歩いて行く道を。

―――――僕は必ず見つけてみせる。

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