私と、和也先輩は、場所を移動して屋上に来ていた。 人気がないところってなると、ここになっちゃうのかな? 先輩は腰を下ろして、溜息をついた。 「前に真雪ちゃんに彼女はいるのかって聞かれたことがあったよね」 「え?あ…はい」 「あのとき、いないって言ったけど、あれ、嘘」 和也先輩はそう言うと髪の毛をかき上げた。 さらさらと額に落ちていく前髪を見ながら私は首を傾げた。 「なんで、そんな嘘をついたんですか?」 「なんでだと思う?」 「…えーっと…」 嘘をつくというのは言いたくないか、隠しておかなければいけないかの どちらかの可能性が高いと思えた。 今の先輩の様子を見ると、言いたくないというよりは… 「隠さなきゃいけない人が、彼女だから…ですか?」 「…うん、そう」 「私に言えない相手ということは、私が知っている人だからですか?」 「うん、そうだよ」 「…それは、誰ですか?」 私がそう言葉を発すると、和也先輩はその切れ長の瞳を私に向けた。 まるで情熱を向けたい相手を見るように私を見るので 私はどきっとしてしまう。 「君の今の香りが、俺が最も欲していて最愛の人のもの」 「み、水本先生?」 「……凄く、愛していたよ」 あぐらをかいた膝のうえに肘をついて、先輩はふいっと横を向いた。 「どうして過去形なんですか」 「別れを告げられた」 「…」 「俺にはまだ気持ちがあるのに」 「もう戻れないんですか?」 「どうだろう?」 「先生は、どうして和也先輩と別れるなんて言ったんですか?」 「世間体かな?俺は、子供だし」 凄く大人びた表情をする先輩の、 ”子供”と表現する言葉に私は違和感と悲しさを感じた。 「世間体って…」 「それか、愛してるって思っていたのは、俺だけだったのかもね」 「そんなこと…」 「別れるって言われたとき、子供だと思って馬鹿にしてって思った そっちがその気なら、すっぱり別れてやるって思ったのに 時間が経つ毎に、忘れられない気持ちが募っていって、苦しくて愛しいんだ」 「…」 「愛していないなら、初めから受け入れなければ良かったんだ 今俺が、どんなに苦しいか知らないで、彼女は笑って教壇に立っている」 そう言って和也先輩は視線を空に向けた。 「苦しいな…彼女の匂いに狂わされるほどに」 「…でも、私の他にも、この香水をつけている子、いますよ」 「知ってる。でも、真雪ちゃんの匂いは、他の誰よりも凄く彼女に似てる 間違えて、それを知ってて、それでも手を伸ばしたくなるほどにね」 和也先輩はそう言って、誘うように私に微笑みかけた。 甘く滲む光を放つ瞳には、吸い込まれてしまいそうだった。 「私は、水本先生じゃないですし、全然、タイプが違います あんなに綺麗じゃないですし、髪の毛だって、こんなんだし…」 和也先輩が手を伸ばしてくる。 私の癖毛に指を梳かし入れ、一房掴み取ると、その髪に自分の唇を寄せた。 「どうしてそんな風に言う?とても綺麗だって言ったじゃないか」 「せっ、先輩!?」 「君には、掴み取りたくなる魅力があるよね。 ヒロが夢中になるのもわかる」 「魅力って、そんなの、私には…」 「蕾が咲き誇ろうとしている、そんな瞬間に、君は今居るんじゃないのかな」 「いや、そんなのないです、ほ…本気で!」 和也先輩と距離をとろうと一歩退こうとしたが、髪を掴まれているので 私は動きがとれない。”痛い”と言えば手を離してくれるだろうか? 私が言葉を発するちょっと先に先輩の方が口を開いた。 「傍に居てくれないか?君の人生の中の、ほんの一瞬でいいから」 「えっ…ええっ!」 和也先輩は私の髪から手を離して、今度は私をひっぱって抱きしめた。 「………い、一瞬って、この、一瞬ですか」 「そんな意味じゃないよ」 「…水本先生の代わりなんて無理です!」 「誰もあの人の代わりになんてならないよ」 「じゃあどうしてそんな事、言うんですか?」 私は藻掻いて、和也先輩から離れた。 「こんなの、嫌です」 「ヒロを好き?」 「す、好きです」 「本当に?」 和也先輩は、何かを見透かすようにした瞳で私を見つめる。 どうして、そんな瞳で私を… 私は首を振った。 「私はヒロ先輩が、好きです!」 「俺がどんなに望んでも、君は…君も、傍に居てはくれないのか」 「私は、ヒロ先輩のものですから」 「嘘、君はヒロのものじゃない。まだ…ね」 和也先輩のその言葉に、私は顔を赤くさせた。 「そ…そんな話までしてるんですかっ!」 「いや、ヒロはそういう話は一切しないけど、真雪ちゃんを見ていればわかる」 「み…見ていればって…」 「ふふ。ごめん、冗談だよ。…ヒロと仲良くね」 屋上の扉が、ぎぃっと開き、和也先輩は行ってしまった。 なんだか…胸が、苦しい… 水本先生の代わりだと言うことがありありと判っていたから 私は和也先輩を拒むことが出来たけれど、 もし、和也先輩にそう言うのがなくて、 私に傍に居て欲しいと言っていたらどうだっただろう? 私は和也先輩を拒むことが出来ただろうか? 先輩の甘く誘うような瞳が思い出されて、私の胸を締め付けた 私にはヒロ先輩がいるというのに、どうしてこんな気持ちになるの? 私は和也先輩に抱きしめられた自分の身体を、ぎゅっと強く抱きしめた。 ****** 「お待たせ」 スポーツバッグを肩からかけたヒロ先輩がやってきた。 疲れを知らないのか、部活の後でも先輩はいつも清々しい顔をしている。 「あ…はい…」 「…あれ?」 ヒロ先輩は身体を屈めて、私の近くに顔を寄せる。 「な…なんですか?」 「匂いがする」 「匂い?…あ…」 私は、自分の首筋に手を当てた。 そうだ、奈美に香水をつけられたんだった。 そしてそれが原因で、和也先輩とあんなことに… 「ごめんなさい、駄目って言われてたのに、友達に香水、かけられちゃって」 「…」 「…ごめんなさい」 「いいよ。でも今日だけだぜ?」 ヒロ先輩はあっさりとそう言うと、笑って見せた。 「…怒られるかと思った」 「怒りたい気持ちがないわけじゃねぇけど…どうかしたか?」 「え?」 「真雪、なんか様子が違うからさ。何かあった?」 胸がどきりとした。 「な、なんにも、ないです」 「その割にはなぁ、なんか覇気がないというか…」 「気のせいですよ」 「真雪」 ヒロ先輩は急に真顔になって私の名を呼ぶ。 「は…はい」 「どんな些細なことでも、隠し事は無しにしようぜ? 俺は真雪の傍に四六時中いるわけじゃないんだから、気になるんだよ。 真雪はどんな一日を過ごしているんだろうって だから、そんな顔されちゃうと、ほんと気になってたまんねぇ」 鋭いというか、勘がいいと思った。 それとも、あっさりばれてしまうほどに、私の顔色が良くないのか。 「真雪のことはなんでも知っておきたい」 「違うの……その、こ、香水のこと、怒られると、思っていたから」 「本当にそのこと?」 ヒロ先輩は首を傾げて私を覗き込んでくる。 愛くるしい彼の瞳と目が合った。 くりっとした瞳が私に問いかけてきている。 「…本当に、そのこと、です」 「なんだよ。俺ってそんなに怖いかなぁ」 そう言って頭を掻くとヒロ先輩は笑った。 「怖いです。先輩に怒られちゃうと私、 どうしていいかわからなくなっちゃいますもん」 「あー…ごめんな」 ヒロ先輩は、ぽんぽんと私の頭を軽く叩くようにして撫でた。 「以後、気を付けます」 敬礼をするような形をとって先輩が言う。 私は首を振った。 「私が悪いんです。ヒロ先輩が嫌がるようなことをしちゃうから…」 勝手に親しみをもって和也先輩に近付いて、 小さな好奇心から余計なことに足を突っ込んだ。 …そして 『俺がどんなに望んでも、君は…君も、傍に居てはくれないのか』 和也先輩の、望んだ声が、甘く耳に蘇る。 胸がきゅっと締め付けられるような感じがした。 激しく強い意志が、一瞬私に向けられて、 そのたった一瞬でも、私は焼き焦がされそうだった。 彼の、想いの炎に 「帰り、少し駅ビルをぶらぶらしていこうか」 駅ビル 色んなお店が入っていて、割とリーズナブルだったりするから 暁の学生がよく寄り道をして帰っているところでもある。 もちろん、ドトールなどのカフェも入っているので、 そこは暁の生徒のデートスポットにもなっている場所だったりもする。 「はい」 私は、ヒロ先輩に手を引かれて駅ビルに向かった。 そこには、案の定、暁の制服を着たカップルがちらほらといた。 手を繋いで、こういうところを学校帰りにデートするって、 なんだか本当に彼氏彼女っぽい… そう ”彼氏彼女っぽい” それっぽいだけで、本物ではない私達。 『ヒロを好き?』 『す、好きです』 『本当に?』 澄んだ漆黒の瞳が私をとらえていた。 恋の情熱を知っている和也先輩から見たら、 私達の…ううん私の付き合いは嘘っぽく見えるのかも知れない。 私は本当にヒロ先輩が好きなの? ただ付き合うのに都合が良くて、条件が良いから付き合っているのではないか そんな感情が私にまとわりついた。 私はただ、彼氏が欲しかったから、ヒロ先輩と付き合っている。 「真雪?」 「…あ、は、はい」 「本当に、今日は変だね。そんなにしょげた顔しないで、怒らないから」 「…うん」 「…真雪が言う通り、良い香りがしているよ」 「……」 「そんなに香水がつけたいんなら、俺がなにかプレゼントしてあげようか?」 「え?」 「真雪も、おしゃれがしたいんだろうし。 ほら、クラスの女子なんかもさ、結構つけてるやつ、多いから」 「でも、駄目って…」 「うん…駄目って思ってたけど、実際真雪が良い香りをさせてたら そういうのも悪くないかなって、ほら、おいで」 ヒロ先輩はそう言うとフレグランス売り場に私をひっぱっていった。 香水をアトマイザーに小分け売りにしているショップだ。 ここにも暁の女生徒やカップルが居た。ヒロ先輩は率先して、 透明の小瓶に入った香水が染みこませている綿の香りを嗅いでいる。 「どういうのが好み?」 「さわやかっぽいのがいいです。あんまり甘くなくて」 「甘くない…ねぇ」 ヒロ先輩は次々に瓶の匂いを嗅ぎながら首を傾げたりしている。 そんな彼の様子に私は胸が詰まる思いだった。 こんな時なのに、ごめんなさい 私 ヒロ先輩のこと、好きじゃないのかもしれないって思ってる。 「ね?こんなのどう」 先輩から渡された小瓶の香りを嗅ぐと、ふんわりと爽やかで優しい香りがした。 「あ…すごく、いい」 「真雪にもぴったりって思うんだ」 その香水の名前は”サンフラワー”と言った。 「どうする?」 「…うん、これがいい」 「じゃあ、それね」 花柄のアトマイザーにサンフラワーの香水を入れて貰ってヒロ先輩は それを私に渡した。 「はい。どーぞ」 「ありがとうございます」 「どういたしまして。大事に使ってね」 「…うん、そうする」 渡されたアトマイザーを私は胸の前でぎゅっと握りしめた。 「ヒロ先輩は、とっても私のことを大事にしてくれる …ありがとうございます」 「なんだよ。こんなことぐらいで」 駅ビルの屋上にあるベンチに座って私達は話をしていた。 「私、駄目だなぁって思って」 「香水のことだったらもう気にするなよ あれこれ言って言うことをきかせようとした俺も悪いんだし」 「…でも」 「いいの。俺が悪いんだよ。真雪の先輩でもあるのに了見が狭くってさ 本当に、申し訳ないよ。ごめんね」 「そんな、先輩が謝る事なんてなにもないのに」 「…」 ふいにヒロ先輩の身体が近くなって、私は慌てて退いた。 「なんで下がるのさ」 「だ…だって」 「人目が気になる?」 「…」 「気にすることねぇじゃん」 「そういうわけにもいかないです」 「でも、そうでなきゃ、真雪とくっつく時間なんてねぇじゃん」 「…」 「俺、真雪の一番傍に居たい」 肩に腕を回されて、私はヒロ先輩の大きな胸の中にすっぽりと収められた。 「先輩…私…」 「一番近くにいさせてよ」 「でも、私なんかの傍にいたって、先輩はなんにも良いこと無い」 「傍にいられるだけで、俺は幸せなんだよ」 「どうして?」 「―――――俺は、真雪が…好きだから」 「どうして私がいいんですか?…だって、私と今西さんとでは 全然タイプが違うじゃないですか」 「え?今西?」 「…」 「なにさ、今西って」 「先輩、今西さんていう人が好きだったんでしょう?」 「…なんでそんなこと知ってるの」 「和也先輩から聞きました」 「…なんでそう言うこと、聞くんだよ」 「…私、今日見たんです、今西さんのこと。 凄く綺麗で、活発そうで、賢そうな人だった ああいう人の方が、ヒロ先輩に似合うんじゃないでしょうか」 「俺が好きなのは真雪だけだよ。昔好きだった女の事なんて どうだっていいじゃないか。関係があったのならともかく、 俺がただ片想いしてたってだけなんだからさ 第一、その肝心のお相手は、和也先輩が好きなんだぜ?」 和也先輩の名前が出てきて、胸がどきんっとした。 「なんでそんなことにかき乱されちゃってるの… だから、俺は君に何も話さなかったっていうのに」 「違う、違う…そういうことじゃなくって、私…」 「何?」 「私、判らないんです。気持ちが」 和也先輩の名前を聞くだけで震えてしまう この胸にわき上がる感情の正体を教えて あんなたった一瞬のことで惑わされてしまったものの正体を教えて 「私、ヒロ先輩の傍に居られないかも知れない」 「…何、言ってんの?冗談やめろよ」 「だって、私…」 「俺は、離す気なんてねぇからな」 「でも…」 「わけわかんねぇよ。なんで突然そういうことになるのさ ちゃんと判るように話してくれない?」 ヒロ先輩が私を覗き込む。 大きな瞳が震えていた。 私も、わけがわからない。 一体自分は何を言いたくて、何を言おうとしているのか ただ、判っているのは、 私はヒロ先輩のことが好きで付き合い始めたんじゃないって事。 彼氏が欲しかったから、先輩と付き合い始めたんだって事。 その事が大きく心を揺らす。 そして、和也先輩の気持ちは本気じゃないって事ぐらい判っているのに、 和也先輩に求められてぐらついてしまっているって言う事。 ただ恋しい人の香りが、私の存在を求めさせたと言うことだけだというのに それなのに、馬鹿みたいに心が震えてしまう。 「私は、ヒロ先輩が好きなんじゃなくて、彼氏彼女というシチュエーションを 楽しみたかっただけで、先輩じゃなくても、誰でも…」 「止めろよ。そういうこと言うな」 ヒロ先輩は私の言葉を遮ると、大きく溜息をついた。 「誰でも良いなら、なんで俺を切り捨てようとするの? それって…本当に好きな奴が出来たって事なのか?」 「好きな人なんて…私…」 「そういう風に聞こえる、今更そんなことを俺に聞かせて 俺から離れようとするなんて…そんなの…あり?」 「判らないの、好きとか、そういうこと」 「判んねぇなら教えてやろうか?俺がどれだけ真雪を好きか」 ヒロ先輩はそう言うと私をぎゅうっと抱きしめた。 「離せねぇよ…好きなんだ。真雪がいなければ、俺、どうにかなっちまう」 「ヒロ…先輩」 「いいじゃん、彼氏彼女ごっこだってよ。俺は、それでもかまわねぇから 真雪の傍にいたいよ」 私はヒロ先輩を抱きしめ返すことが出来なくて、 瞳からは涙が溢れて零れた ―――――ごめんなさい 心の中で何度も繰り返した。 |