■■その愛の名を教えて 11■■


透也に怒られた。
彼があんな風に感情を露わにする事はそうそうある事ではないので少し怖かっ
た。
だけど、それだけ私を愛してくれているというのは理解出来た。

でもね。

透也が私と出逢わなければ、もしかしたら彼にはもっと最良の出逢いが待って
いたんじゃないかって思う気持ちも本当なの。
透也が居なくちゃ嫌だ。
透也の居ない世界では生きていけない。
透也が居なければ私の世界は終わる。

それは私の我が儘だ。

だから透也と共に歩いているのが、本当に私でいいのか、自信なんて無かった。
私なんかが彼の傍に居て良いの?

鏡を見る。
もう少し美人だったら、少しは透也と釣り合いがとれるのに。

「…まだ何かウダウダと考えてるの?」
大学から帰って来た透也が私に声を掛けてきた。
「あ…お、おかえりなさい」
眼鏡を掛けて髪をひとつに束ねた透也は、私を見つめてくる。
「鏡を見ながら何を考えていた?」
「…言うと怒られるから言わない」
「僕が怒る様な事は考えるな」
「…と、透也は…」
私の声に、ちらりと彼が視線を送ってくる。
「私を…美人だと思う?」
「…綺麗だよ」
「嘘ばっかり」
透也は首を傾けて、少しだけ息を吐いた。
「君は、カサブランカとセントポーリアのどちらを美しいと思う?」
彼はそう言うと結っていた髪を解いた。
「…え?ど…どっちって…どっちも綺麗だと思うけど」
「うん、良い答えだね」
そう言って透也は煙草を銜えてカチッとライターの火を付ける。
「例えば君が小さく可憐に咲くセントポーリアだとして、君は大輪の花のカサ
ブランカを羨んでる。だけど、君が言う様にセントポーリアもカサブランカも
どちらも”花”で美しい。僕から見れば、君がクヨクヨしてるのってそういう
レベルの問題なんだけどね」
「…」
「その実、羨んでいるカサブランカこそが自分だとも知らずに」
透也は煙草の煙をふぅっと吐き出した。
「女を見慣れているホスト三人にアプローチをされて、少しは”私って凄いの
ね”って思わないかね。普通」
「…でも…」
「調子に乗る女はウザイだけだけど、君はもうちょっと自信を持った方が良い
んじゃないの?」
「…」
「自分を卑下するにも程がある」
透也は煙草を吸いながら目を細めた。
「自分が美しく咲く花だという事をいい加減認めたら?そんなんだから君は、
いつまで経っても無防備なままなんだよ」
「…」
「ま、僕は温室から君を出すつもりはさらさらないけどね」
そう言うと透也は灰皿に煙草を押しつけて消した。
俯いていると透也が近寄ってきて私の頬に手を置いた。
「君は誰よりも美しくて可憐な花だ。少なくとも僕の目にはそう映っている。
それとも君は世界中の男に美しいと言われないと納得が出来ないのかい?」
「ううん…」
「…みのり、愛している…余計な事は考えるな。自分が僕に相応しくない人物
だと思うのはもう止めて、哀しくなるよ」
「透也…」
「僕に相応しいのは自分しか居ないと考えてよ。誰にも僕を渡したくないと思
ってよ。僕が身動き取れなくなる位、僕を愛してよ」
透也はそう言って私をぎゅっと抱き締めた。
「僕は君に囚われたい」
彼の顔が近付いてきて、口付けをされた。

******

”愛する事は信じる事だ”

誰かがそんな事を言っていた様な気がする。
でも私が信じなければいけないのは相手の気持ちだとかそう言う物ではなくて
自分が持つ可能性だと思えた。

「何をぼんやりしているの?」

透也の声に、ハッとする。
顔を上げたら彼が微笑んだ。
「ここの食事はお気に召さなかった?」
「う、ううん…美味しかったよ」
「そう?」
「うん、お魚の料理美味しかった」
白ワインの注がれたグラスを私は傾けた。
「透也は色んなお店を知っているよね」
「自炊しないからね。外食専門になると嫌でも色んな店に行ってみたくなるも
のさ」
透也は舌が肥えていそうなので、間違っても御飯を作ろうか?なんて言えない
でも働かなくなった以上、もっと家の事をするべきだとは思うのだけれど…
「ね…あの…私、働きに出たら駄目かなぁ…」
「ダーメ」
即答される。
「僕の稼ぎで十分食べられるんだから君が働く必要は全くないね」
「でも…」
「欲しい物でもあるの?だったら買ってあげるよ言ってご覧」
「欲しい物なんてないよ…それに、もし欲しい物があったら自分のお金で買い
たいの、だから…」
「駄目、だめ、ダーメ」
「…」
「君が働きに出る事は認められません」
「だけど…」
「君が自分の価値を正当に認められる様になって、自己防衛が出来る子になっ
たと僕が判断した時にその話はまた考えるよ」
「…う…そんな日が来るの?」
「君次第なんじゃないの?」
透也は涼しい顔でそう言いながらワインを飲んだ。
「…このままじゃ私、なんにも出来ない子のままだよ」
「別に手に職をつける必要もないだろ?前にも言ったけど、君の事は僕が一生
喰わせてあげるから」
「だけど、私…」
「大丈夫、例えば明日僕が死んだとしても君ひとりが食べていける位のお金は
持っているから…あぁ、僕の銀行口座を君に教えておいた方がいいね」
「縁起でもない事言わないでよ」
「君が働きに出る事は許さない。絶対譲歩しないから」
「…」
「君を外に出して、また何かをしでかしてくれるかと思うと気が気でないから
ね。働くという事は自分には縁が無かったのだと諦めるんだね」
「でも、私、透也に食べさせて貰うのって…」
「気が咎める?」
「…うん」
「だったら結婚して僕の扶養家族になる?」
「…」
「…」
「…」
私が無言でいると、透也が息を吐いた。
「君ってこういう話題になると絶対にウンって言わないよね」
「だ…って、私、奥さんになるのなんて…無理…」
「戸籍が僕の所に入るだけで、今と状況は変わらないと思うけどね」
「自分がちゃんと働いたり出来ないうちは結婚なんて無理」
「働くのは駄目って言ってる」
「自分が自立出来てないのに人の親になるなんて絶対無理」
「僕は子供が欲しいなんて言ってないよ」
「だって、結婚したら…」
「君は子供が欲しいの?」
「…」
「僕の子が欲しいの?」
顔がかぁっと熱くなった。
「なんで赤くなってるの」
透也はふふっと笑った。
「だ…だから、私は…ちゃんとした人間になりたいの。ちゃんと社会に出て世
間知らずなんて言われない位の人間になって、それからお母さんになりたいの」
「君の言っている事は理解できる。だからと言って容認する事は出来ない」
「とーやの馬鹿」
「なんとでも」
「私はちゃんと成人式も迎えて、国に大人だって認められているんだよ!」
「国が認めようが誰が認めようが僕は認めない。なまじ君は大人だから子供よ
りも質(たち)が悪い」
「…」
「例えば君が会社勤めをする様になったとしても、新人歓迎会なんてやられて
しこたま飲まされた挙げ句、男性社員の食い物にされるのがオチだ。どんなセ
クハラ親父がいるか判らないのにそんな危険な目に遭わせられるか」
「…」
「妻子ある男が安全なんて思うなよ。そういう輩ほど女性社員を食べているん
だからな」
「…」
「君って、”相談に乗ってあげるよ”なんて甘い言葉に乗ってホイホイ付いて
ってすぐにやられちゃいそうな感じがするんだよな」
「…」
「暁さんに貰ったなんだか判らないアヤシイ薬をなんの疑いもなく飲んじゃう
様な子だからねぇ」
うっ…
「それで大人だから社会に出させて下さいって?僕は君の何を信じて働いても
良いよなんて言えばいいわけ?」
私が無言でいると、透也は更に続ける。
「世間は君が楽に泳いで渡れるほど甘く出来てないよ」
「だ…だから、泳げる様になる為に…」
「ダーメ」
透也はライターの火を付けたり消したりしてその動作を繰り返す。
「ぜーったいに、駄目。諦めるんだね」
「意地悪」
「君の方が余程意地が悪いよ、なんだってこうも僕を困らせる様な事を言うの」
「…」

私達のテーブルの横を女の人数人が通り過ぎる。
なんとなくその人達を見ていると、その中でも一番綺麗だなと思った女性が私
達を振り返った。
ん?と思っていると引き返してきて透也を覗き込んだ。
「透也?透也じゃない?」
え?
透也は瞳だけを上げてその人をちらりと見て、視線をすぐに戻した。
「透也よね?私よ…ほら、高校が一緒だった…」
「知らない」
透也は、ばっさりと切り捨てる様に一言だけ言った。
「やだ、私を忘れちゃったの?あ…私、そんなに変わったかな」
彼女が嬉しそうにそう言っている間、透也は無表情な瞳をしていた。
「三沢葵(みさわ あおい)よ。高校卒業してから全然連絡取れなくなっちゃ
って…逢いたいなって思っていたの、透也って聖亜(せいあ)大学に進学した
んだったよね?今、何処に住んでいるの?」
私の存在をまるきり無視する様に彼女は言葉を続けている。
確かに透也は聖亜大学の生徒だ。
そんな事を知っている位だから、知り合いなんだろうけど…
…知り合いって言うか…むしろ…
だけど透也は徹底的に彼女を無視している。
困った様な顔をした彼女が初めて私の方を見た。
「あ…ごめんなさいね?透也のお友達?初めまして、私、高校の時に透也と」
「君なんて知らないと言っているだろ」
透也が彼女の言葉を遮る様にして言った。
「”例えば”知り合いだとしても、話かけられるのウザイんだけど」
「う…ウザイって…私、ずっと貴方に逢いたかったのよ?そんな言い方しなく
てもいいじゃない。高校卒業して寮から出た後の連絡先も教えてくれなくて、
随分冷たいんじゃないの」
がたんっと透也が立ち上がった。
「…勘違いしてんなよ、おまえ何様のつもり?本当に頭の悪い女だな」
冷えた透也の声に彼女よりも私が、びくっとした。
「私は、今も昔も透也の事が好きなのよ、今だって忘れてない、誰と付き合っ
ても貴方の事が好きで、他の人じゃ駄目なのよ」
「俺がいつ、おまえを好きだと言った?」
「だ…だけど」
「同じ事を繰り返し何度も何度も言わせるな」
彼女がちらりと私を見てから、また透也を見上げた。
「どうして私じゃ駄目なの?…まさか、そんな子が今の貴方の相手?」
「黙れ!」
「と…透也…」
「おまえが女で無かったら、殴る位では済ませない所だ」
透也が振り返って私の手を取ると、私を引き寄せてキスをしてきた。
「…んっ…」
歯列を割って透也の舌が入り込んでくる。
透也はわざと舌が絡み合っているのを見せつけるようなキスの仕方をした。
「と…、と…や…」
ちゅっと唇を一度吸い上げてから、彼は私の唇から自分の唇を離し、彼女の方
を見た。
「俺が何を言いたいか判るか」
「…」
彼女は身体を震わせて、私を睨んだ。
「嘘でしょう?貴方が…キスをするなんて…そんな子に…信じられない」
透也は私をぐいっと引っ張ると彼女の居る場所を後にした。

店から出ても透也は一言も喋らずに、私の手を引っ張って歩いていく。
「とう…や…」
声をかけても、彼は歩みを止めない。
大通りに出て、透也は手を挙げてタクシーを止めた。
彼は運転手に自宅の最寄り駅を告げる。
「あ、あの…透也…」
透也は煙草に火を付ける。
「…今、喋りたくない…悪いけど、黙っていて」
穏やかに彼は言ったが、一切の言葉を許さない雰囲気だった。
それでも繋がれた手を透也が離す事は無くて。
私は俯いて繋いだ手を見つめた。

あの人、透也と関係のあった人だ。
多分、高校生の透也が抱いていた人。
綺麗な人だった。
涙が出そうになって身体が震えた。
手を握る透也の力が強まる。
「…頼む…今、泣かないで…」

そう言う透也の手の方が震えていた。

******

僕が過去にしてきた行いをどれだけ責められてもそれは僕に責任があるのだか
らどんな風に言われても構わなかった。
だけど何故みのりが侮辱されなければならない?
あんな下らない人間に、みのりの何が判ると言うのだ。
僕の身体にしか興味を持たなかったあんな女に。
僕が初めて望んで望んで手に入れた愛しい人が、さも自分よりも劣るという様
な言い方をされて、侮蔑した視線にさらされなければならない?

適当に自分の身体を許してきた過去を悔やんだ。
好きでも愛してもいない人間を何故抱いた?

自分がひどく汚れた人間の様な気がした。
…いや、汚れているのだ。
本当はみのりに触れる事など許されないのだ。
例え、処女ではなくても、みのりは何処までも清らかな聖女(おとめ)なのだ
から、僕が触れていい人ではないのだ。

冷ややかなコンクリートの感触、空虚に見上げた青い空
遠い昔の出来事なのに、つい今し方起きた出来事の様に感覚が甦ってきておぞ
ましい気分になった。
みのりではない別の女の身体を思い出して吐き気がした。

僕は赦されてはいない。
かの人は僕を哀れみ、彼女を与えてくれたのではなく、僕の行いを戒める為に
彼女を僕に使わした?
みのりを諦めなければならないのか?
嫌だ、嫌だ、嫌だ。
他のどんな物を失っても構わない、だから彼女だけは僕に残して。
ああ…気持ちが闇に引きずられる。
眩暈がして、頭が痛かった。

貴方は僕に母を与えなかった。
一度として柔らかな温もりに包まれる事無く生まれ育った。
今となってはそんな事はもうどうでも良かった。
だけど、みのりの温もりを手放す事は出来ない。
どうか僕のただひとつの願いを聞き入れて。

―――――苦しい。
訳もなく苦しくて、生きている事を放棄したくなる様な感情が僕を揺さぶる。

「…透也、大丈夫?」
「…」
「とう…や?」

みのりが僕に話しかけてきている。
それは判っていた。
だけど応える気力が僕には無かった。
息をついて、吸っていた煙草を灰皿に押しつけた。

タクシーを家の前で止めて貰い、ずっとみのりの手を握りしめていた。
少しでも手を離したら、僕を戒めるという役目を終えた彼女が消えて居なくな
りそうな気がしたから。
僕を妄想の人物だと言った彼女を笑えない。
僕もまた、彼女が現実の人間では無いのではないかとおかしな事を考えている
からだ。
有り得ない。
大丈夫だ。
彼女はココに生きている人間だ。
女神の様な人ではあったけれども、女神(それ)ではない筈だ。
だってそうだろう?
彼女の手は、こんなにも温かく僕の手を握り返してくれている。

だけど

手を離したがっているとしたら?

また、ある日突然居なくなってしまったら?

彼女の声を聞く事も、その温もりを確かめる事も出来なくなったら?

”ごめんね”と、何に対しての謝罪なのか判らない手紙ひとつを残して居なく
なったら?あれは何の謝罪だったのだ?僕を愛せなくてごめんという事か?

捨てられたと思った。
みのりは僕を要らないと判断したから居なくなったのだと、そう思った。
彼女の居た空間に彼女が居ない。
僕の部屋にも、彼女の部屋にも、大学にも、何処にも彼女は居なかった。

あの時、初めてホストの仕事を休んだ。
それも長い期間。
毎日が虚ろで憂鬱だった。

誕生日の日。
イベントをやるからどうしても来いと社長に言われ、渋々出掛けた。
そしてその翌日、惰性で出勤した僕に朔が思い出した様に言ったのだ。
「そういえば、みのりさんって花屋になったみたいですね」
花屋の名前を聞いて僕はいてもたってもいられずにフランシーに向かった。
遠くから店内の様子を窺っていると、紛れもなく、みのりが其処に居た。
すぐにでも駆け寄りたかったが、僕はその衝動を堪えて、みのりの住んでいる
場所を後を尾けて確認しようと考えた。
だが、閉店時間にひとりの男が店内に入っていき、そしてみのりと出てきた。
僕が苦しんでいる間に、彼女はとっくに僕の事など忘れて、新しい愛を育んで
いたのだ。違う、その男が居たから僕からも離れていったのか?
彼女達の後を尾けると、仲が良さそうにみのりは彼の腕に自分の腕を回し、そ
して彼は彼女の肩を抱いた。
やめてくれ。
彼女に誰も触れるな。
それを許されたのは、僕だと…思っていたのに。
苦しくて苦しくて、もうどうしようもなかった。
僕の手をすり抜けていった先で、彼女が別の男に抱かれるなんて事は許しがた
い事だった。
彼女を殺して、僕も死のうと思った。

彼女が幸せならそれで良いだなんて考え方は出来なかった。
僕は彼女が居なければ存在する事すら辛いのだから。

失う位なら、彼女を道連れに死を選ぶ。

地獄に堕ちる事など怖くない。
彼女の居ないこの世そのものが僕にとっての地獄なのだから。

そう、彼女が居なければこの世界は地獄なのだ―――――。


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