貴方が好きで好きで…。 自分の事よりも大切で…。 だから、貴方が笑うと私も嬉しい。貴方が哀しむと私も哀しい。 貴方をもう泣かせたくないから、私が透也を幸せにするの。 「透也…」 彼が瞳をこちらに向けてくる。 薄茶色の瞳が甘く滲んでいた。 透也の髪に優しくそっと触れる。 艶やかで繊細そうでまるで絹糸の様。 金色の髪は彼に良く似合っていた。 …例え髪の色が何色であっても、彼の美しさを引き立てる事には違いないと思 えた。 ただ何をするでもなく、私達は触れ合う。 まるで存在を確かな形にしようとするかの様に。 携帯の着信音が鳴った。 透也の…正確には”ヒカル”の携帯が。 「ああ…電源を切っておくのを忘れたな」 そう言って彼は手を伸ばし、携帯を手中に収めると二つ折りの携帯をぱちんと 開いた。 「はい…あぁ、君か…え?これから?」 透也がちらりとこちらを見るので私は頷いた。 「うん、良いよ。じゃあ、フランシーの隣にある喫茶店で逢おう、うん、じゃあ」 彼は身体を起こすと携帯を閉じた。 「出掛けるね」 「うん」 「…暁さんの弟君(おとうとぎみ)に呼び出された」 「え?雪乃さんって弟が居たの」 「ウン。生きうつした様にそっくり」 「へぇ…」 雪乃さんの弟さんが透也に何の用事があるんだろう? 透也は身支度を整えて玄関に向かう。 「すぐに帰ってくるよ」 こちらに振り返ると、彼はちゅっと私にキスをした。 ****** 「驚いたよ、君から連絡があるとは思っていなかった」 僕が喫茶店に着くと、彼はもう居た。 暁さんの弟君は見れば見るほど暁さんに似ている。 同じ遺伝子を受け継いでいるからだろうか。 …もしも僕に弟が居たとしたら、こんな感じなのだろうか? 髪の色が黒いものの、弟君がかもし出すオーラは暁さんのそれと良く似ている。 弟君は先だって、彼の姉と共にフェイクタウンに遊びに来た。 兄である暁さんがどんな風に仕事をしているのか見たかったからだと言った。 が、弟君が帰った直後、誰から聞いたのか暁さんからフェイクに電話がかかっ てきて、弟君は未成年だから入店禁止にするよう言われる。 弟が同じ世界に入る事を暁さんが望んでいないというのが判った。 「暁さんから言われてないの?ホストには関わるなって、言われたでしょう?」 「…言われました」 「僕は関わる事を禁止されているホストなんだけどね」 ふふっと僕は笑って、白いコーヒーカップを持ち上げた。 「すみません、お忙しいのに…お呼びだてして…」 「…まぁ、いいけど…君の用事って何かな」 僕がそう言うと、弟君は意を決した様な表情になった。 「僕を…”使って”欲しいんです」 かちゃり。 僕は持ち上げていた白いコーヒーカップをソーサーの上に戻した。 その言葉の意味をどういう風に捉えれば良いのか迷う。 「それはホストになりたいという意味?まぁ、素質はあるとは思うけどフェイ クは君を雇えない。君は成人していないのだろう?他のお店はともかくうちの お店は成人していない人間は雇わない主義でね」 「…判っています。俺は…18にもなっていませんだから余所の店でも雇って は貰えないです」 「じゃあ”使って”欲しいってどういう意味なのかな」 僕がそう言うと、彼は真っ直ぐにこちらを見てくる。 その瞳に強い意志を感じた。 「…店に出なくても、使う方法はいくらでもあるのではないかと」 彼の言葉の意味をどう捉えるべきなのか僕はもう一度考える。 考えても答えはひとつしか浮かばない。 「…悪い…煙草を吸っても良いかな」 「どうぞ」 僕は煙草を一本取り出すと、それを銜えて火を付ける。 「随分と際どい話をしてくるね」 「意味が通じている様で良かったです」 「…僕には、非合法で客をとりたい…そう聞こえるのだけれど」 「ええ、そういう意味です」 灰皿にとんっと煙草を叩きつけて灰を少し落とす。 やっぱり”そういう”意味か…。 「金が欲しいの?」 「…」 弟君は視線を落とす。 「だったら相談する相手を間違えてはいないか?お小遣いが欲しいので有れば 暁さんに頼めばいくらでもくれるだろう?10万20万欲しいって言ったって あの人ならぽんと出すよ」 「小遣いが欲しいわけでもなければ、俺が欲しい金額が10万20万程度の額 でもありません」 「桁が違うと言うわけか…君…自分にそれだけの価値があるとでも思っている の?」 そんな風に言うと、彼は顔を上げて僕を見てくる。 なんの迷いもない様に瞳を煌めかせていた。 「暁雪乃に稼げて、俺が稼げないとは思いません」 「この業界、舐めてるの?顔が同じなら同じぐらい稼げると思ったら大きな間 違いだよ」 「…」 「暁雪乃は暁雪乃であるから客は惹かれるし金も使う、だったら君はなんだっ ていうの?暁雪乃のコピーでしかないだろう?」 少しキツイ言い方かな?と思えたけれどはっきり言わなければいけないと思っ た。 だけど彼は怯(ひる)む事も臆する事もなく言葉を続ける。 「俺がコピーでもなんでも…お願いします、俺を使って下さい、貴方なら上手 に使う事も出来るでしょう?」 「…君の申し出、僕一人では答えは出せないな…暁さんを交えてでなければ」 遊びに来ただけでフェイクにわざわざ電話をしてくる位だ。 暁さんが良しとする筈もない。 「兄には関係有りません」 「君に仕事をさせたら恨まれるのは僕だよ?僕はあの人を敵にまわすのはご免 だな」 本気でそう思う。 暁さんを敵に回す事は危険だと、直感的に思えた。 僕は携帯を取り出して電話を掛ける。 掛ける相手はただひとりだ。 「…兄が許す筈などない」 声を振り絞る様に弟君が言う。 「そうだろうね」 僕もその様に思えた。 携帯から暁さんの声が聞こえる。 「…ああ、お忙しいところすみません、フェイクタウンのヒカルです、こんに ちは…今お時間取れませんでしょうか…ええ、お逢いしたいのですが」 不思議そうに応えてくる暁さんに僕は告げる。 「今、貴方の弟君(おとうとぎみ)とご一緒させて頂いているのですが」 ****** からん 喫茶店の扉についている鐘が音を立てた。 そうは時間が掛かる事なく、暁さんはやってきて弟君の真横に立った。 彼が怒っているというのはすぐに判った。 「…どういう事だ?唯人」 「…」 「ヒカル君に逢うことは勿論、連絡を取る事も禁じた筈だったよな」 感情的にならずに静かな物言いをする暁さんに、僕は少し恐ろしさを感じた。 やっぱり敵に回したくはない人だ。 「取り敢えず、お座りになったら如何ですか?目立ちますし」 暁さんは僕をちらりと見ると弟君の隣に座った。 はぁ、と彼は大きく息を吐く。 「…君に聞いた方が早そうだね、ヒカル君、こいつは一体なんの用事で貴方に 逢っていたんですかね?」 僕は、少し笑ってから言葉を出した。 「働きたいそうですよ…非合法にね。僕に客を斡旋して欲しいと」 「ふざけるな」 「僕に言わないで頂けますか?」 苦笑いをする僕だったが、暁さんの表情は相変わらずだ。 「ヒカル君に言ったんじゃない」 「それなら良いですが」 僕は手を挙げて店員を呼ぶ。 「何を飲まれます?」 「…なんでも良いよ」 「じゃあ、クリームソーダにしますか?」 「君はふざけているのか?」 少し冗談を言ってみると、初めて暁さんがその表情を見せた。 むきになっている。 余程、弟君が大事なのだろうなと思える。 そうまで想えるというのは血の繋がりなのか? 血が繋がっているというだけで、人はこんなにも愛し、愛される事が出来るの か。 家族というものは…そういうものなのか…。 別に僕は暁さんの寵愛を受けたいわけではなかったが、弟君が羨ましく思えた。 ふっと僕は笑う。 「貴方が狼狽えている姿が面白くて…」 「面白いだって?」 彼が僕を睨み付けた所で店員がやってくる。 「お待たせいたしました」 「ブルーマウンテンを3つ」 「かしこまりました、カップをお下げ致します」 店員が飲み終えたコーヒーカップをふたつトレイに乗せて、僕に頭を下げて立 ち去っていく。 はぁ、と大きく暁さんが息を吐いた。 「そういう話なら、これ以上する必要は無い。唯人が客をとるだって?冗談 じゃない」 「でも貴方の弟さんはお金が必要みたいですよ」 僕がそう言うと、暁さんは彼を見た。 「一体いくら必要なんだ?」 「兄貴には関係がない」 「唯人!」 まるで貝の様に口を閉ざす弟君に代わって僕が言う。 「10万20万の金じゃない様ですよ」 「そんな大金がどうして今のおまえに必要なんだ?不自由のある生活はさせて いないだろう?」 「…」 相変わらず弟君は黙っている。 …今の暁さんの口振りだと、弟君を養っているのは彼なのか? 確かに暁さんだったら、弟君に不自由な生活はさせないだろう、それだけの収 入は有る筈だから。 では何故弟君は自分で働きたい等と言うのだろうか。 何故多額の金が必要なのだろうか? 興味が湧く。 「僕も聞きたいね、なんで君がそこまでして金を欲しがるのかが」 それでも弟君は口を開かないので僕は言葉を繋げた。 「事情によっては君の望みを叶えてあげないでもないよ」 「そんな事は俺が許さない」 少しの間を空ける事無く暁さんが口を挟んだ。 「…僕は、弟君に訊いている」 「君が訊くまでも無く、唯人が働く話は無しだ。金が必要なら俺が出す」 「兄貴の金では駄目なんだ」 口を閉ざしていた弟君が言葉を吐いた。 苦しそうで、だけれども強い意志を見せながら。 「なんだって?」 「俺が…自分で働いて得た金でなければ意味がない」 そう言う弟君に僕は首を傾げた。 「わざわざ働いて苦労しなくても、お金をくれると言っているのだから貰えば 良いんじゃないのかな。別に僕は君がどうでも構わないのだけれど、だからと 言ってなにもホストを…しかも非合法でやらなければいけない必要も無いと思 うよ」 僕の言葉に弟君は首を振った。 「俺は…俺の力で護りたいんだ」 「何を?」 そうまでして護りたいものはなんだろうかと僕は思う。 弟君はこちらをじっと見つめてきた。 「…大事な人を護りたい、だからその為ならなんだってするし…そんな俺を兄 貴が許せないと言うのならば…」 彼の最後の言葉が震える。 暁さんが静かに口を開いた。 「…許さないと言ったら…何だと言うんだ?」 弟君は振り絞るような声で言う。 「許さないと言うのなら、縁を切ってくれて構わない」 「…それ、本気で言っているのか」 「もう貴方の庇護は受けない」 そんな彼の言葉に、暁さんは鋭い視線を弟君に向けた。 「俺の手から離れると言うのか、そんな事は許さない」 「俺は俺の力で生きていく」 「唯人!」 僕は少しだけ考えて、それからひとつの答えを導き出す。 「大事な人って…女か」 そう言った僕に、弟君はぴくりと反応し、暁さんは彼の肩を掴んだ。 「女ってまさかさくらちゃんか?」 該当する子が居たらしく、暁さんが言う。 「…そうだ」 「付き合いだして間もないだろう…何を…熱に浮かされているんだ」 「…熱に浮かされてなどいない」 「それ以外になんだと言うんだ?」 「俺にはさくらだけだ、他には…何も、望みはしない」 「ずっとおまえを見守り続けてきた俺を切り捨てても女を選ぶと言うのか、赤 の他人を」 「…すまないと…思う、だが、ふたつを選べなくてひとつしか選べないと言う のなら俺はさくらを選ぶ」 「女はあの子だけじゃないだろう!たまたまあの子と寝たそれだけで必要以上 に情を移す必要など無い!あの子に何か事情があると言うなら捨てればいいだ けだ、この先いくらでもおまえに女は出来る」 「この先なんか無い!俺にはこの先何年かかってもさくら以上に愛せる女なん て出来はしない、俺が欲しいのはさくらだけだ他は要らない!他の全てを失っ ても俺の手にさくらが残っていれば俺は何も悔いたりはしない」 …この先何年かかっても… そうだ…愛したい人はひとりだ。 そしてそれは護りたい時に護るのでなければ意味がない。 少しのタイミングのずれが、愛しい人を傷つける事になる。 僕は…… 僕がもっと早くみのりを自分のものにしていたら、みのりを別の男には抱かせ なかっただろう。 妊娠するかもしれないという恐怖に彼女を曝す事もなかっただろう。 そうで有れば僕が出すべき答えはひとつだ。 がたん 僕は立ち上がった。 コーヒーを運んできた店員が戸惑った様にこちらを見る。 「…話は判った…もう僕が訊きたい事は何も無い、僕の分のコーヒーは飲むな りそのままにするなりお好きにどうぞ」 「ヒカルさん!」 立ち上がる弟君を僕は見る。 強い子だ。 暁さんに甘える事を自分に許さずに、そして護りたいという想いを貫こうとし ている。 僕がまだ”チチオヤ”の庇護の元で甘んじていた年に彼はもう自分の足で歩こ うとしている。そんな彼が僕には少し眩しかった。 「…お願いします…貴方だけが頼りなんです」 「話は判ったと、言っただろう?」 僕は笑った。 「僕が一千万で君を買おう。それでいいかな」 「…え?」 「一千万では足りない?」 「い、いえ…でも、それは…どういう意味…」 「別に客をとらせるつもりもないし女と寝ろなんて言わない」 「…ヒカル君、そんな事は認められない」 そう言う暁さんを僕は見下ろした。 「じゃあどうするの?僕が手を下さなければ、この子何をするか判らないと思 うよ。可愛い弟君を売り専にでもしたいわけですか?」 「冗談を言うな!」 「…彼を買ったからと言って僕が彼を可愛がるつもりもないから…唯人君を僕 に預けてくれませんか、決して悪いようにはしませんお約束します」 「一千万程度の金なら俺だって出せる!」 「だけど、貴方のお金では駄目なのだと…言っているじゃないですか」 「唯人!!」 …暁さんには理解出来ない事なのだろう。 僕もみのりと出逢ってなければ、弟君の事は突き放したと思う。 弟君の想いに同調出来るからこそ、彼を助けたいと思えるのだ。 「すまない…兄貴のお金では、俺がさくらを護る事にはならないんだ」 「ヒカル君の金なら良いと言うのか?どこが違うと言うんだよ」 「…俺は、ヒカルさんの為に出来る事はなんでもする…」 「契約成立という事で良いのかな」 「…はい…お願いします。俺を…買って下さい」 彼の言葉に、僕は息をひとつ吐いて暁さんを見た。 「そういう事なので、僕を恨むのは止めてくださいね」 「…もう…勝手にするが良い」 諦めたのか自棄(やけ)になったのか、暁さんはそう応えた。 別離しかないのだろうか? この2人は。 仕方の無い事なのだろうか。 暁さんは無表情な瞳で正面を見据えていた。 「では、唯人君、行こうか」 僕は伝票を取り、レジに向かった。 背後で声が聞こえる。 「…兄貴…すまない」 「……俺には、弟など居なかったと思う事にする。今生の別れだ」 「兄貴…」 「それ程の覚悟が、おまえにはあったのだろう」 「…」 「もう俺は一切の介入はしない。今後逢う事もないだろう」 暁さんの言葉に弟君は小さく言う。 「…さよう…なら…」 「…二度と俺の前に顔を見せるな」 「…」 「唯人君、行くよ」 僕が声を掛けると、彼は一度こちらを見てから暁さんに向き直る。 「兄貴…」 「…俺は、もうおまえの兄ではない」 鋭い暁さんの言葉に、弟君は小さく息を漏らした。 「…そう…だな」 「そうだ、それをおまえが望み、選んだ事だ」 もうそれ以上の言葉はなく、弟君は僕の傍に来た。 元気付けてやりたい気持ちはあったものの、今はどんな言葉も有効では無いと 思えた。 「…口座に振り込むと厄介だから、毎月少しづつ君にお金を渡す事にするよ」 そう言う僕に彼は俯いたまま返事をした。 「…大事に使わせて貰います…学校は、やめて…昼は働きます」 「そう」 僕は前髪を掻き上げる。 「護りたい物は護れる時に護るのでなければ意味がない。高校なんて卒業しな くったって…いずれ必要な時が来たら大検を受けると良い」 「…俺が、貴方の為に出来る事があるのならなんでもやります…」 それでも前向きに彼が言う。 別れを哀しむ様子は見せないいじらしさを感じた。 彼は…彼もまた、男なのだなと思える。 男だから、護りたいものは自分の手で護りたいのだ。 「そう…じゃあ今度の休みの時に僕の愛車の洗車を頼もうかな」 「…え?」 「大事な車だから丁寧に頼むよ」 「…ヒカルさん…」 「君は、ただ一人の大事な人の事だけを考えれば良い…今は」 「…はい…」 弟君は少し俯いて小さく笑った。 「これからどうするの?」 「…はい…淫行罪で、彼女の兄を訴えようかと思っています」 「…近親相姦?」 「義理の兄から性的虐待を受けている様なのです」 「…そうか…それは…何と言ってあげればいいのか判らないな…」 ああ、だからこそ結論を急いだのだなと感じた。 「……」 「必要なら、弁護士を紹介してあげても構わないよ。腕の良い弁護士を知って いるから」 「…有り難う御座います」 「もしかして、その為の金?」 「弁護士の…費用と…これからふたりで暮らしていく為の金がどうしても欲し かったんです」 「そうか」 ふふっと僕は笑った。 頼もしい子だ。 その為の手段は間違えだと言う人が居ても、僕は正解だと思う。 「頑張ると良い」 「…はい…その為に…俺は…兄と決別したのだから」 「君の判断は正しかった。僕は君にとって実に役立つ人間だと思うよ」 僕は空を見上げる。 「…羨ましいな、運命の人間とこんなに早く出逢う事が出来た君が」 空虚に生きていたあの頃。 みのりの存在しない世界で生きていた自分を振り返ると恐ろしい。 もう、今ではどうやって独りで生きていけば良いのか方法が浮かばない。 独りで生きろと言われる位ならば、僕は生きない道を選ぶ。 弟君は静かに、だけれどもはっきりと言葉を返してきた。 「出逢えて良かったと、思います」 歩くべき道を見つけた彼の言葉には重みがあった。 険しい道を選んだ彼を僕は少しでも助けてやりたい…そんな風に思った。 もう独りでなんて生きられない―――――。 みのりが居てくれなければ。 ****** 「おかえりなさい」 玄関の扉を開けるとみのりがリビングの扉を開けて僕を出迎えてくれた。 「…みのり」 ほんの少し離れていただけなのに、随分と長い間引き離されていた様な気にな る。 彼女の顔を見るとほっとして、緊張状態から解放された気分になる。 手を伸ばし、みのりの身体を自分に引き寄せた。 「…透也」 優しい声が響く。 「…え?あ…雪乃さん?」 みのりが驚いた様な声を上げる。 …ああ、そういえば弟君を連れて来ていたんだったな。 僕は彼女を抱きしめたまま言う。 「違うよ、暁さんの弟君」 「へぇ…そっくりなんだね」 「あ…あの…塩瀬唯人(しおせゆいと)です」 弟君がそう言うと、みのりは首を傾げた。 「アレ?雪乃さんって…”工藤”だよね?」 「…父と母が離婚して、僕と姉は父方に、兄は母方に引き取られたので」 「そうだったのか」 僕が彼を振り返ると、弟君は小さく笑った。 「…だけどもう…俺には兄はいませんが」 「君まで諦める事は無い、今はどうしようもなくても時が解決してくれる事も あるよ」 弟君は首を振った。 「兄を…俺から解放したいんです。兄は、親が離婚してからずっと俺と姉の為 に人生を費やして来たので…」 「それもまたひとつの愛情表現なのか…難しいな…色々と」 「これで良かったんです、ヒカルさんにはご迷惑をお掛けしてしまいますが」 「それは気にする必要はないよ、僕にとって一千万は”たかが”のレベルだか ら」 僕の言葉に抱きしめていたみのりが顔を上げる。 「…だから透也の金銭感覚はおかしいんだね」 「別におかしいなんて思わないけどね」 「少しは思った方が良いよ?」 「考えておく」 僕はみのりを解放するとリビングに向かった。 クローゼットの中にある収納ボックスから封筒を取りだし、それを後からやっ てきた弟君に渡す。 「取り敢えず、100万渡しておくよ」 「え?あ…す、すみません」 「弁護士の件は明日にでも話をつけておくから」 「…はい」 僕らのやりとりを見ていたみのりが渋い表情をする。 「透也、そんな所に多額の現金を置いてちゃ駄目だよ」 「現金を置いてあるのは此処だけじゃないよ、部屋中家捜ししてご覧」 「たんす預金は止めようって!」 「銀行に行くのが面倒なんだよね」 「…面倒って」 ふっと僕は笑った。 弟君が言う。 「ヒカルさんにも…居るのですね…大事な人が」 「ああ、命に代えても惜しくはない人だよ」 そう応えると、彼は微笑んだ。 ―――――暁さんのコピーだと僕は彼に言ったけれども、なかなかどうして、 魅力的じゃないか。 暁さんには無い何かが彼には有って、それが見る者を惹きつける。そんな気 がした。 彼の為に僕は最善を尽くそう。 そして、かつて織原さんが僕にした様に、自力で歩く術を与えよう。 ホスト以外の職業で。 いずれ暁さんと和解できる日を願いながら。 弟君は彼女と一緒に暮らす様になる。 僕の弁護士が間に立ち、彼女の家族から彼女を離す事が出来た。 「透也が誰かの為に動くなんて」 みのりが嬉しそうに微笑んだ。 僕は応える。 「僕は彼に、自分を重ねているのかもしれないね」 だから願うのだ。 ただ一人の人を、彼が護れる様にと…。 そして証明したいのだ、誰にでも大事な誰かを護る腕が有るのだという事を。 僕のこの腕が、みのりをずっと護れるという自信が欲しいだけなのかもしれな かったが…。 |