■■その愛の名を教えて 19■■


「…い、痛い…まだ何か挟まっている様な感じがする…」
「初体験の朝の様な台詞だね」
「初体験じゃない」
私はベッドから起き上がれずに顔を枕に突っ伏した。
「今日は一日寝ていると良いよ。必要なら薬を買ってくるけど?」
「い、要らない」
「まぁ、別に切れていたりはしないからね」
「うぅ…」
キシッ
透也がベッドに腰掛ける。
「思いのほかすんなりと僕を受け入れてくれたから驚いたよ」
「…そう言われても、私が意識的にそうしたわけじゃないから…」
「ん…まぁそうだね」
彼は髪の毛をひとつに結い上げて、ノーフレームの眼鏡を掛けた。
「…悩んでいる事があるんだ」
唐突に透也が言うので私は驚いて顔を上げる。
「なに?」
「僕は…チチオヤに逢うべきなのかな…と」
ぽつりと言う彼に私は又驚いた。
「逢いたい…の?」
「逢いたくはない、だけど」
「…うん?」
「まりあが…母が生きているのなら、一度は逢ってみたいんだ」
「透也…」
「暁兄弟を見て…そんな風に思えてきたんだ」
「…」
私はどう言ってあげれば良いのか判らなかった。
単純に考えたら、今日の今日までなんの音沙汰も無いのだから透也が彼女に歓
迎されるとは考えにくい。
彼も勿論そんな事は判っていると思う、それでも逢いたいと思うなら…。
でも…だけど…今、私は…不安でいっぱいになっている。
なんに対しての不安なの?
掴み所の無い感情に戸惑う。
「逢わずにいても後悔するかもしれない…だけど…逢っても後悔するかもしれ
ないよね…」
私の言葉に透也は腕を組んで俯く。
彼は…私に後押しをして欲しいのだろうか。
彼がそれを望んでいるのなら、そうしても構わない。
だけど…
どうして?胸騒ぎがするの。
「それでも…逢いたい…の?」
「そうだな…」
「…透也…どうして」
彼は顔を上げて私を見た。
「僕もいずれは人の親になるだろう…それなのに、このままで本当に良いのか
と迷う」
「子供はいいんだよ作らなくても、私は居なくても構わない」
「…だけど…君の親御さんは孫を見たいと望むだろうね」
「そんな事気にしなくてもいいんだよ、孫は…お兄ちゃんがきっとお母さん達
に見せてくれる筈だから」
「君を見ているとどれだけ愛されて育てられたのかが良く判る。なのに僕の所
為で孫を諦めてくれと言うのは申し訳ない」
「透也…」
「娘さんを下さい、だけど子供は作りませんとは言えないよ」
「…私がお嫁さんにしてと言った事が逆に透也を苦しめているの?」
「いいや、みのりがそういう風に言ってくれた事はとても嬉しい、だからこそ
…僕は君に関わる全ての人に対しても感謝をしたい。今の君が在るのは、君を
愛しんでくれた家族がいたからなのだからね」
「…それは…そうかもしれないけど…」
「君のお兄さんは身を挺しても君を護ろうとした」
「…」
「暁さんもまた、自分の母親、妹、弟の為に自分の人生を投げ出してまで支え
ようとしていた。家族である事の意味を知らされた様な気がしたよ」

そっと彼に触れる。
「透也…」
「…ご免…泣かせてしまって…」
透也の言葉で自分が泣いている事に気が付いた。
彼が私を見つめ、伝う涙を拭ってくれる。

透也が前を歩こうとしているのに、私は逆に不安になってしまう。

今の幸せはいつまで続くのかと。
−−−−−そんな事を考えてしまうから。

透也には彼の家族と接触して欲しくない。
長男が居るとしても、彼が愛人の子供だとしても、透也は西園寺の子だという
事には違いない。
貴方をいつか私の手から奪われてしまいそうで。
「ただ不安にさせてしまっただけみたいだな…すまない」
私は彼を抱きしめる。
「透也、ずっと私だけの貴方で居て」
「……」
「家族がどうだとか…そんなのいいじゃない、ふたりで居られたらそれで良い
よ、だからお願いもう考えるのは止めて」
「…君が思うより、西園寺は僕に執着していないよ」
「今まではそうだったかもしれないけど、これからはどうだか判らないじゃな
い」
透也が小さく笑う。
「西園寺が僕を表に出そうだなんて少しでも思っているのなら、僕がホストを
やっている事を良しとはしないだろう」
「でも…」
「僕をどうにかしようという意思は見せずに、ずっと僕に金をつぎ込み続ける
のは疑問に思うけどね」
「それは…まりあさんの子供だから…」
「まりあにも、執着している気配は無い。彼はここ数ヶ月彼女に逢っていない」
透也の言葉に私は顔を上げた。
「…どうしてそんな事が判るの?」
「彼の行動は逐一報告を受けている」
「報告って…」
「僕も…そして織原さんも、西園寺の動きにはチェックを入れている。まぁ向
こうもそうだろうけどね」
透也は視線をこちらに向けてきた。
「探っても判らないなら、やはり直接チチオヤに訊くしかないのだろうなと思
う」
「探るって…そうまでしてもお母さんに…逢いたいの?」
「…母に、なにか求めているわけではないけど…」
一度視線を落としてから再び私の方を見る。
「もし…もしも…彼女が虐げられている事があるとしたら…と、思うと…ね」
息を呑んで彼を見ると、透也は苦く笑った。
「母は、好きで愛人になったわけでは無いと思う。もしそうであったのなら、
僕の出生を拒んだりはしなかったんじゃないのかな」
「とう…や…」
貴方が想像している事がどんなに貴方にとって残酷な事なのか判っているの?
判っていて、それを知ろうとしているの?
「どうして貴方は辛い道を選ぼうとするの」
「…僕…は」
透也は綺麗に微笑んだ。
「自分が生まれた事を一度だって良いと思った事なんて無かった。だからまり
あにも逢いたいだなんて思わなかった…だけど…今は心の底から彼女に感謝を
したい。僕を生み出してくれてありがとうと…例えそれが彼女の本意ではなく
ても」
「……」
「西園寺に縛られ続けているのなら…自由にしてあげたい」
「彼女がひとりで居るのかどうか判らないよ?もしかしたら新しい家族を作っ
ているかもしれない、そういう可能性があるとしても逢いたいの?」
「僕はまりあに母親になって貰いたいんじゃない、今が幸せだというのなら、
それはそれで構わない」
透也は小さく笑って私の頬を撫でた。
「僕が今幸せなのだから…まりあにもそうであって欲しい」
「…透也…」
「永遠にまりあに受け入れられなかったとしても僕は僕の出来る事を彼女にし
てあげたいと思うのはいけない事だろうか?」
涙が溢れた。
「透也は…今まで自分がされてきた事を振り返ってもお母さんを護りたいと言
うの?貴方がどれだけ苦しんできたかって考えたら、私はそうする事を喜べな
いよ」
彼が私の涙を拭う。
「僕が普通に育てられていたら君と逢う事も無かった。僕の為に泣いてくれる
君とすれ違う事も無かった。例えば人生をやり直す事が出来たとしても僕は今
の僕が良いよ」
「透也…」
「だから君の家族にも、僕の母にも…ありがとうと言いたい」
「その精神を病に冒されてしまう程辛い思いをしてきたのに、貴方はどうして
そんなに優しくなれるの?」
透也が笑う。
「それは君と出逢えたからだよ」
泣く私を彼が抱きしめた。
「経過がどうだったかなんて、もうどうでも良い事なんだよ?僕は君に愛され
ている。その事実だけがあれば良い、だけどそれだけに甘んじているというわ
けにもいかなくてね」
私は泣く事しか出来なくて…
彼をひき止める事も、後押しをしてあげる事も出来ずに。
「心配しなくて良いよ、僕が帰る場所はひとつなのだから」

******

「何か考え事か?」
社長の声に僕は顔を上げた。
「え?」
「悩んでいそうな感じがしたからさ」
「あぁ…僕、そんな顔をしていました?」
「そんな顔っていうか…まぁ勘だな」
社長は笑った。
少しだけ考えてから口を開く。
「社長は前に、僕が訊けばチチオヤはまりあの居場所を言うかもしれないと言
いましたよね」
「そんな事言ったか?」
「言いましたよ」
僕は笑った。
「…まりあに、逢ってみたいと思うんです」
「本気か?」
彼は少しだけ目を細めた。
「ええ、本気です」
「……」
「まりあが僕をどういう風に思っていても、彼女は僕の母だから」
「…良い思いは…しないと思うぞ」
「みのりと同じ事を言うんですね…それは判っています」
「判っていながら何でわざわざ…」
社長は溜息をひとつ吐く。
「最初で最後の親孝行をしたいから…かな」
「ヒカル…おまえ…」
「それと、社長に借りを返したいかなって感じですかね」
「なんで俺が出てくるんだよ」
「…まりあに逢いたいのでしょう?」
「そりゃあ遠縁とはいえ親戚だからな」
僕は少し笑う。
「貴方はどうして未だに独身なんですか?」
「結婚したい女が居ないからだ」
「僕を自分の傍に置いたのは何故?」
社長は息を詰まらせて口を結ぶ。
「それは…僕がまりあに似ているからなのでしょう?」
「………はっ…阿呆か」
「違うの」
「俺がまりあの面影を追っているとでも言いたいのか?ただそれだけなら俺は
もうとっくにおまえを手放している」
意味深い言い方を彼はする。
「他になんの理由があるんです?」
「理由なんかねぇし、まりあをおまえに映しているわけでもねぇよ」
彼の言葉に対して僕が口を開こうとすると朔に呼ばれる。
「ほら、行ってしっかり稼いでこい」
社長が僕の肩を軽くはらった。
「…何か付いてましたか?」
「あぁ、糸くずがな」
「…それは…どうも」
「早く行け」
社長が僕を追い払う様な仕種をする。
「言われなくても行きますよ」
ホールに行きかけて僕は振り返った。
「逢わせてあげます、まりあに」
その言葉を受けて社長は苦笑いをした。
「判った判った」
「…時間が経つと言えなくなりそうなので言っておきます」
「なんだ?」
「織原さん…ありがとうございます」
「−−−−−なんだそりゃ」
「それだけ」
僕は笑ってホールに出る。
ホールに出た後だから僕は知る事が出来なかった。
彼がどんなリアクションをしたかを。

それからの僕は、秘書経由でチチオヤにアポイントメントを取り、数週間後、
彼と会う事が出来た。

彼は、まりあの居場所をあっさりと教えてくる。
隠していたわけではなかったのか?逆に僕が来るのを待っていたとさえ思える
態度だった。

「お払い箱っていう事か」
煙草を銜えながら言うと助手席に座っている社長が言葉を出す。
「まりあも、もう38になるからな」
「用済みって事?」
「だろうねぇ…」
「……」
僕は溜息をつく。
「遅かれ早かれ、奴はおまえさんにまりあを押し付けるつもりだったんじゃね
ぇの?俺が探偵を雇い始めてからここ五年ぐらい奴はまりあと接触してないし
まぁ、だからこそおまえを大学にまで通わせたんだろうと思うし」
「…逢っていないのならその方が良い」
もう一度深く息を吐いた。
予想はしていても愛が無いと知らされるのはやはり苦痛だった。
「大丈夫か?運転代わってやろうか」
「…大丈夫です」

「……海が見える」

車の走る先には海原が広がっていた。
まりあの居る西園寺の別荘近くには海があった。
「青いな」
光を反射させて煌く青い海を、まりあは毎日どういう思いで見つめてきたのだ
ろうか。
僕を産んだ事を悔やんだりしていたのだろうか。

大きな別荘にある駐車スペースに車を停める。

「…少しだけ、待っていて貰えますか」
僕がそう言うと社長は頷いた。
「あぁ、行って来い」
少しだけ息を漏らしてから車のドアを開ける。
「−−−−−透也」
呼ばれて僕は振り返った。
「はい?」
「これからも、俺はおまえさんの近くに居るから」
「稼ぎ頭だからですか?」
皮肉って言っても社長は言葉を返して来なかった。
「貴方までぴりぴりしないで下さいよ、緊張するじゃないですか」
「おまえがフェイクを辞めても、だ」
「……僕がフェイクを辞める?この世界にひき入れた張本人が何を言うんです
か」
「それは間違いだったかもしれないな」
僕は彼をじっと見つめた。
「何を考えてそう言っているのかは知りませんが、間違っているとは思いませ
んよ」
返した言葉に社長は息をついた。
「俺は、もうおまえさんを使う事は出来ないかもしれない」
「僕がまりあの子だから?まりあが愛しいから?」
「……両方、だ」
彼の言葉に僕は笑う。
「僕はまりあの子ですけど、愛するのはまりあだけで十分ですよ」
「透也…」
「貴方の想いが、成就するかは判らないですけどね」
僕は立ち上がりながら言った。

そして足を向ける。
まりあの居る場所へと。

******

チチオヤが別荘に連絡を入れていた様で、応対に出た人物に名を言うと「お待
ちしておりました」などと言われた。
待ってはいないと思うけどね。
彼女は。

広いリビングに通されて紅茶を出される。
良質な味がした。
少なくとも、まりあはそれなりの待遇はして貰えていたのだと思えて安堵する。

紅茶を飲み終えても、彼女は姿を見せなかった。
逢いたいと思われていないのは承知の上だが、かと言って逢わずに帰るわけに
もいかない。
お手伝いの人間が僕の傍に来た。

「奥様が、お逢いしたくないと…」
「でしょうね」
僕の返事に彼女は驚いた様な顔をする。
「だったら僕から逢いに行くよ。彼女は今何処に居るの」
「…それは…その…」
「言いたくないのなら言わなくても良いよ、部屋をひとつひとつ調べていくま
でだから」
広いとは言え何百も部屋数があるわけでもないのだし。
「…奥様のお部屋は…2階の突き当たりです」
「そう、ありがとう」
僕は立ち上がり2階へと進む。
まりあの居る部屋からは潮の香りがした。

扉をノックして彼女を呼ぶ。
返事は無い。
ドアノブに手を掛けると、施錠されていない様子だったので思い切って開けて
みた。

海が見える。

青い海。

バルコニーに居る彼女の金色の髪が輝きを放ちながら風に揺れている。

「まりあ?」

彼女の名を呼ぶ。
まりあは振り返らなかった。

「どうして逢いに来たの」
「…うん…そうだよね…来て欲しくはなかったよね」
「そうと知りながら来たの?さすがはあの男の子供ね」
「ごめんね、もう二度と逢わないよ」
「…なんで逢いに来たの」
同じ質問を彼女は繰り返した。
「西園寺とは縁を切って貰おうかと思って」
「西園寺は貴方の父親よ」
「でもあなたは愛していない…初めから」
まりあは振り返って僕を見る。
薄茶色の瞳が滲んでいた。
「そうよ、愛してなんかいなかった」
「…うん」
僕は初めて生で見る彼女を見つめた。
色は白く、大きな瞳は写真で見たのと変わらずにあどけなさを残している。
まるで成長を止めてしまったかの様に。
僕を見たまりあは涙を零した。
「ずっとずっと思ってた。貴方を宿した時から生まれて来ないでって」
「…西園寺には乱暴をされたの?」
そう言うと彼女はびくりと震えた。
「西園寺に堕ろせと言われなかったの?」
「堕ろせとも産めとも言われなかった。責任を全部私に押し付けて…卑怯で姑
息でどうしようもない人間よ」
「ごめんね、苦しかったよね」
僕の言葉に、まりあは顔を上げた。
「どうして貴方が謝るの」
「僕の所為であなたは苦しかったのでしょう、僕の為に軟禁状態で過ごしてき
たのでしょう…この21年間、あなたもまた独りだったんだね」
彼女は小さく薄い肩を震わせた。
「お人よしもいい所だわ。私…が、貴方にどうして”透也”という名を付けた
のか判る?」
「…いや」
まりあはその瞳を僕に向けてくる。
「透明になって誰の目にも留まるな…存在するなという意味よ!」

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