■■その愛の名を教えて 9■■


怖かった。
彼に私の全てを知られるのが怖かった。
あの人が、私の何処までを受け入れてくれるのかが判らないから。
私達は、”信頼”という言葉で結びつく事が出来るほど、お互いの歴史を共に
歩んではいない。
例えば、景ちゃんにだったら、私は言えたかも知れない。
「私、Mなんだ」
そう言ったら、「へぇ、そうだったんだ」そう答えが返ってくる事が予測出来
た。
景ちゃんはどんな私も否定しない。
だったらどうして彼の手を振り払ったの?

透也と共に歩きたいと思ったから。

だけど、怖いの。
貴方が差し出す手のもとに行くまでには一本のロープしかない。
私は綱渡りをして彼の所まで行かなければいけない。
いつ落ちてしまうか判らない危うさが怖かった。

一緒に歩きたい
だけど怖い
怖いんだ。

透也
透也―――――。

******

「…とうや…」
目尻に溜まった涙を誰かが拭った。
その感覚に覚醒する。
ぼんやり見上げると白い天井が見えた。
視界がはっきりしてくると、男の人が覗き込んでくる。
「気が付いたか?」
良く見知った人、馴染んだ声。
私は唇を振るわせた。
「景…ちゃん…?」
「ばーか。俺に黙ってホストクラブになんて遊びに行くから罰(ばち)が当た
ったんだ」
彼はそう言うと私の額をぴんっと弾いた。
「え?どういう…事?」
「ホストクラブの帰り、酔っぱらって、駅の階段から落ちたんだよ。おまえ」
「え?」
「丸一日、気を失っていたんだぞ」
「一日?」
「脳波には異常ねぇってよ。良かったな馬鹿にならなくて」
景ちゃんはくしゃっと私の頭を撫でた。
どうやら病院に運ばれていた様だった。
頭がずきんってする。
「でっかいたんこぶ出来てんじゃねーの?」
後頭部が痛かった。
私は落下の衝撃で頭を打ったとの事だった。
念の為にもう一日入院させられて、それから退院をした。
季節は春になっていた筈なのに外は寒く、冬の風が吹いている。
景ちゃんに家まで送られた。
家…引き払った筈のアパートだ。
私は鍵も持っていて、それで扉を開けると景ちゃんが帰っていった。
部屋に入り、鞄を開いて透也から貰ったピンクの携帯を探した。
何処にもそれは無かった。
私の指にも、透也から貰った筈のピンクダイヤのピンキーリングがはめられて
いない。その代わり、左手の薬指には景ちゃんから貰った指輪がはめられてい
た。
「…」
頭…痛い。
携帯電話が鳴る。
表示を見ると香穂からだった。
「…はい」
『みのり?大丈夫だった?』
「あー…うん」
『もう、階段から落ちて救急車沙汰になった時はひやひやしたよ!』
「えっと…ごめん…ね?」
『伊勢崎くんに思いっきり叱られたわよ!』
「…あの…香穂?私達この前初めてフェイクタウンに行った…んだったよね?」
『頭大丈夫?打ち所悪かったんじゃないの?でも私がフェイクに連れて行かな
かったらみのりは怪我しなかったんだもんね、ホントごめん!』
頭の中がグラグラした。
『まだ具合、悪い?』
「ん…なんか…少し」
『みのりが怪我したって事、ヒカルに言ったら心配してたよ』
「え?あ…」
『忘れちゃった?フェイクのNO.1の人。私が指名した人よ、金髪で紫色の
瞳の』
「…忘れてない」
『ま、ともかく無事で良かったわ』
「ごめんね迷惑かけちゃって」
『いいっていいって。また飲みに行こ?』
「うん…」
『じゃあね』
香穂からの通話が切れた。
もう一度鞄の中をあさる。
ヒカルの名刺と、朔さんの名刺が入っていた。
ここに記載してある携帯の番号は多分営業用だ。
透也のプライベートナンバーは何番だった?
私は思い出せない。
透也の家は何処だった?
何度も行っている筈なのに、どうしてもその場所が判らない。

仕方が無しに、私は名刺に書いてあるナンバーに電話をする。
10回コールされて、それからようやく彼と繋がる。
『…はい』
「透也?」
『…どちらにお掛けですか?』
声は明らかに透也だ。
「あ…その…ごめんなさい、ヒカル、さん?私、月嶋みのりです」
『あぁ、みのりさんか…帰りに駅の階段から落ちて入院したんだって?もう大
丈夫?』
「今日退院しました」
『そう、それは良かった』
心配している様な口振りだけど、どこか素っ気ない。
「…今、お忙しかったですか?」
『いや…寝てたけどね』
「今日は大学はお休み?」
『大学って?』
「ヒカルさん大学に通っていますよね?」
『僕が?通っていないよ。誰からそんな嘘を聞いたの?』
ふふっと彼が笑った。
―――――え。
「私と、同じ学部ですよね?」
『何か記憶違いをしていない?』
「…」
『まぁ、また懲りずにウチに遊びに来てよ。待っているから』
「あ…はい…あ、あの…ヒカルさんに逢うには…お店に行かないと、駄目…で
すよね」
『そうだね。でも…あー…君は香穂さんの友達だからね、僕指名って言うのは
ちょっとマズイかな。他にも良いホストがウチにはいっぱい揃っているから、
その子達を指名してあげてくれないかな』
「お店の中でも外でも逢えないって言う事ですか」
『君も香穂さんとトラブルになるのは嫌だろう?』
「でも、私ヒカルさんに逢いたい」
『うーん…そうは言ってもね決まり事みたいな物だし』
あぁ、私、凄い突き放されてる。
涙が出そうになった。
透也、透也、私貴方に逢いたいよ。
「逢いたいんです」
もう一度言うと彼は息をついた。
『うー…ん…弱ったね』
「私、ヒカルさんに逢えないの嫌なんです」
『僕を気に入ってくれるのは嬉しいんだけど…』
「一度でいいから、逢って貰えませんか」
『…本当に一度だけだと約束が出来るのなら、そうだね…外で逢っても良いよ』
胸がちくんってする。
透也は私に逢いたいとは思ってくれていない。
「…」
『どうする?』
「それでも、いいです」
『OK。じゃあ…ドライブにでも行く?』
「…はい」
『日曜日の17時にフェイクの前に車停めて待ってるよ』
「はい…すみません…無理を言って」
『行くと決めたからには楽しむつもりでおいでね』
「はい」
『それじゃ、日曜にね』
ぷつっ
通話が途切れる。
透也の方から先に電話を切られた事が無かったので、その事にも私はショック
を受けてしまう。

―――――私は長い長い夢を見ていた。
ひどく愛される夢を。

幸せだったから、夢なら覚めないでと願っていた。
夢では無いよと彼は笑っていた。
そう言っていたのに。

大学に行った。
石田教授の講義の時間にも、透也は現れなかった。

******

日曜日、フェイクタウンに向かうと、お店の前の道路にはシルバーのベンツが
停まっていた。
私の姿を見つけた透也が左側から出てくる。
…右ハンドルじゃないんだ…
透也は助手席側の扉を開けてくれる。
私が乗り込むと、彼も左側に回り込み乗り込んできた。
「…BMWじゃないんですね」
「BMWの方が好きなの?ベンツの方がハクがあって良くない?」
「…ヒカルさんがこの車に決めたんですか?」
「うん、そう」
「…」
透也は紫色の瞳を隠す様にグレーのレンズのサングラスを掛けていた。
瞳がパープルって事は仕事のウチのひとつだと考えられているのだろう。
寂しくて、私は窓の外を見た。
透也が隣に居るのに、どうしてこんなにも虚しいの?
愛する対象を見失った迷い子の様な気分だった。

透也は湾岸道路から途中ファミレスに寄ってそれから海の見える場所まで連れ
て行ってくれた。
「冬の海は、さすがに人が居ないね」
サイドブレーキを引きながら透也が言った。
「…そうですね、静かですね」
「…君が誘った割にあまり楽しそうな顔をしてないよね」
「…」
「君が思っていた様な男では無かった?」
透也はそう言って、ふっと笑った。
「…いえ、現実ってやっぱりこういうものなんだろうなって…思いました」
透也が私を好きになる筈がない。
交わらない世界。
それがきっと正しい世界なんだ。

私は私の都合の良い様に透也を作り上げ、妄想の世界にはまっていた。

こんな風になれば良いと思った世界で、それでも私は悩んだりしていて…
馬鹿みたい。
透也が其処にいてくれて、愛していると言ってくれるだけで十分だったのに。

ふっと透也の身体が近付き、がくんっとシートを倒される。
「きゃっ…」
彼の身体が私の上にある。
「僕とヤりたい?」
「え?」
「僕に抱かれたい?」
見上げて合った視線の先には熱のこもらない無表情な透也の瞳があった。
「好きでもないのに抱けるんですか?」
「一度だけならね」
一度だって、私の透也なら身体を許したりしないだろう。
深い絶望の色が心を染めて涙が溢れた。

こんな場所で、こんな風に彼と抱き合って、何を得られるのだろう。

もう取り戻せないと、私の身に教えるとでも言うのだろうか。

だけど彼に抱かれた。

透也、透也。

うわごとの様に彼の名を呼んだ。

「…ソレって誰の名前?」
彼がそう言った。
「私の、最愛の人です」
「彼氏?」
「…違います」
貴方に似た、私の心の中の住人。
私が作り上げた、私しか知らない人。

透也が居ない。
私の世界に貴方が居ない。

夢でしか逢えない人ならば、現実なんて要らないよ。

ヒカルの匂いが、身体が、唇が、透也とは全然違っていて涙が溢れた。

彼が居ない。
もう何処にも。

カチッ

ヒカルが煙草に火を付けた。
彼が吸っている煙草はマルボロで。

「…私、外の空気を吸ってきます」
「ああ」

私は車のドアを開けて、海岸に足を向けた。
打ち寄せては引いていく波を見て、その音を聞いて、私は一人だと思った。
もう景ちゃんを愛せない。
私の、心も身体も違う人のものになった。
景ちゃんに言うサヨナラは寂しくない。
だけど透也には言えない。

夢で良いから彼に逢いたい。

夢の中の人だと判ってもなお、彼しか想えない。

私は海の中に足を進めた。
冷たい水の感触に現実を感じる。
私の現実が無くなれば、永遠に私が眠ってしまえばもう一度貴方に逢える?

海に潜る最後の瞬間に、ヒカルが何か叫んでいる声が聞こえた―――――。

******

「みのり、起きて」
私は揺すられて目が覚めた。
目の前に透也の薄茶の瞳があった。
「…ヒカル?透也?」
「どうしたの?僕だよ…透也だ」
身体を起こして彼に抱きついた。
透也の香りがする。
透也だ。
彼だ。
私は戻ってきた。
彼の居る世界に。
頬を伝う涙を透也の指が拭っていく。
「怖い夢でも見たの?泣いていたよ」
「違うの…私、夢の中に戻ってきたの」
「え?」
透也が笑った。
「君、大丈夫?」
悪戯っぽい瞳で彼は茶化す様に言った。
「またアレ?僕が君の作り出した妄想だって言うの?」
「…本当にそうだったよ。私、初めてフェイクに行った帰り、駅の階段から落
ちて気を失っていたの。ヒカルの事を良いと思った私は”透也”って言う人物
を作り上げてヒカルを私の理想通りの人に仕立て上げたの。気を失っている間
そんな夢を見ていたの…目が覚めたら、ヒカルは”ヒカル”で私を愛してくれ
なくて…海に潜って…多分私は死んだと思う…だからまたここに戻ってこられ
た」
「良く出来た”夢”だね」
「違う、夢じゃない、あっちの方が現実だった」
透也は首を傾けた。
「…そう、じゃあ君は僕に逢いたいが為に命を絶ってまでこの世界に戻ってき
たと言うんだね?」
「うん…ウン」
「だったら僕の言う事はなんでも聞けるね」
私は顔を上げて透也を見た。
「花屋の仕事、今すぐ辞めて」
「…花…屋?」
「君はこの世界でフランシーと言う花屋のアルバイトをしている。そのバイト
を辞めて欲しいんだ」
「…うん…」
「それから、君の携帯の履歴にある”工藤晃子”って誰?」
「雪乃さんの事?」
透也は目を細めた。
「ああ、やっぱり…君達は繋がっていたんだ」
そう言って彼は私の腰を抱いて自分に引き寄せた。
「君…自分がMだって悩んでいるんだってね?」
「え?」
「暁さんがそう言っていたよ」
「…どうして雪乃さんがそんな事を透也に…?」
「”夢”だから、なんでも有りって感じ?」
「……」
「僕は、君がMでも全然構わないよ」
そう言って透也は私の頬にキスをしてくる。
ああ…夢だから、彼はまた私を肯定してくれるんだ。
私に都合良く修正されてる。
「…君…」
「え?」
「暁さんと三度も逢っているんだってね?いつの間にそんなに親しくなったの」
透也が私の耳元で囁く様に言う。
「親しくって…一度目は透也にも話したけどレンヤさん関係だし、二度目は…
あの…帰りが遅くなった日、オーナーさんに不夜城に連れて行かれてその時に
逢って…三度目は…」
「三度目は?」
私の顔が、ぼっと熱くなった。
い、言えない。
薬を貰った事なんて…
「…言いたく…ない」
透也が身体を離して斜めに私を見てくる。
「どうして言いたくないの?僕が怒るから?」
「…」
「君が何を言っても怒らないよ。だってそうだろ?僕は君の妄想の人物なんだ
から、君が僕に怒られる事を望んでいないのなら僕が怒る筈がない。だから言
ってご覧」
彼を見上げた。
「ね?」
そう言って透也は微笑む。
私は重い口を開いた。
「…あ…あの…良いものをあげるから一瞬だけ逢おうって言われて…喫茶店で
待ち合わせして…」
「…良いものって何?」
言い淀んでいると、透也が催促をしてくる。
「言ってみて」
「…その…薬を…」
「薬って?」
「えっちな気分になる薬」
「淫靡薬って事?」
「…う、うん」
「それを貰ったのってもしかして一昨日?」
「…」
「君は暁さんから薬を貰って一昨日の夜、それを飲んだんだね?」
「う…うん…」
私がそう答えると、透也は大きく溜息をついてベッドに身体を仰向けに倒して
顔を両手で覆った。
「…とう…や?」
「…一言、言わせて貰っても良い?」
「うん…」
「もし…暁さんにその気があったのなら君は三度目に逢った時にその薬を知ら
ずに飲まされて、ホテルに連れ込まれ、やられたという可能性が十分に考えら
れるんだけど?」
「…」
「薬がどれ程効いたかって言うのは身をもって知っているよね?」
「…」
「自分がどれだけ危ない事をしたかって言うの…判ってる?」
「…ごめん…なさい…でも雪乃さんが私にそんな事をするなんて考えられな…」
言いかけて、私は身体を倒される。
透也がのし掛かってきた。
「暁さんは、君を好きだと言っていたよ。欲しいってね」
「雪乃さんが私を?そんなの有り得ないよ」
「僕が、この耳で聞いた。君がMだって事をカミングアウトして彼に振られれ
ばいいって言っていたよ」
「嘘、そんな…」
「どうして僕が嘘を言わなければいけない?」
「だ…だって…雪乃さんとは三回しか逢ってないのに」
「ねぇ、この世界に暁さんは必要じゃないよね?僕だけ居ればいいんだろ?」
「…う、うん…」
「携帯は解約する。もう二度と暁さんに電話する事は許さない」
「…」
「何か不安や悩みがあるのなら僕に言って、他の人間になんて相談しないで。
僕は絶対に君を否定したりしないから、いい加減信用してよ」
「う…ん」
透也は、ふっと笑った。
「それに、僕は君の夢の住人なんだろ?」

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