「すみません、ちょっとお手洗いに行ってきます」 「ああ」 安藤に断りを入れてから、桃花は席を立った。 ざわざわと騒がしい居酒屋は嫌いではないが、今、聞きたいと思う“彼”の声がかき消されてしまって寂しさが増し、傍に行きたいと思いながらもそうすることが出来ない自分が哀しかった。 他人に歩み寄るにはどうすればいい? ネコのように思うがままにすり寄れるのなら、どんなにいいだろう……。 考えれば考えるほど、心の中が苦しかった。 触れ合わなければよかったのだろうか、身体を重ね合わせなければ、こんなに苦しい思いはしなくてすんだのだろうか。 残業時間に、ほんの少しだけ宮間と話せればよかったあの頃の自分にはもう戻れない。思いもよらないような貪欲な自分が心の奥深くに潜んでいて、それがやたらと騒ぎ立てていた。 欲しい気持ちは自覚しているのだから黙っていてもらいたい、騒がれても焦燥感だけがつのるばかりでどうにも出来ないのだから。 淡い色の口紅を塗り直して、桃花は溜息をついた。 ちらりと顔を上げて鏡に映った自分を見てみると、陰気な表情をしているように見えて彼女は慌てて首を振った。 (駄目、こんなことじゃ) もう一度息を吐いて、背筋を伸ばした。 自信をもって生きることは難しいけれど、俯いていても仕方がない。自分の人生は他の誰でもなく自分が引き受けるしかないのだから。 化粧室の扉を開けると、すぐ近くの壁に宮間が寄りかかるようにして立っていて思わぬ出来事に桃花の心臓が跳ねる。 「み、宮間……さん」 「君は俺がいなくても楽しそうなんだな」 「楽しそう?」 彼は何を言っているのだろうかと桃花は思う。寂しい思いをさせられているのに楽しそうだと言われるのは心外で、恨み言のひとつでも言ってしまいそうになり、慌てて口を結んだ。 「……宮間さんが何故そう思ってしまうのか、私には判りません」 「しらばっくれるんだ」 「何を?」 彼女が顔を上げて宮間を見ると、彼は眼鏡の向こう側にある瞳をうっすらと細めた。 「男と楽しそうに喋っているくせに」 「男?」 安藤のことだろうかと桃花は思った。 「……安藤君は、同期ですよ?」 「だから?」 「だから……と言われると」 「同期だろうと男には違いないだろう」 「それはそうです……けど」 「何を話してたの?」 「え、えっと……色々、料理のこととか……好きな食べ物とか、そんな感じです」 「他は?」 「……他って言われても……」 言葉を選んでいるわけではなく、大した内容の話をしていなかったので何を宮間に伝えればいいのかと口ごもってしまう。そんな彼女の様子を彼がどう思ったのか、宮間は焦れたような表情を一瞬し、迷う様子を見せながらもふいに彼女の左手を握り締めてきた。 互いの左手が繋ぎ合った瞬間、電気のようなものがばちりと流れる。 静電気だったのだろうか? だが、その件に関して桃花はそれ以上考えられなくなる。彼の体温を手のひらを介して感じてしまったからすぐにそれに溺れた。 心の中が瞬く間に宮間の色で染まっていく。 彼が好きだと思う気持ちが心の全てになった。 触れたい。もっと触れたい。 彼が愛しくて堪らない。そんな感情に桃花は支配された。 「……桃」 宮間に名を呼ばれればいっそう思いが募った。感情を言わずにはいられなくなり桃花の唇が動いた。 「宮間……さん、私……宮間さんが……好きなんです」 「……ああ」 「このまま、ずっと、宮間さんを好きでも…………いいですか」 否定されてもすぐに消えるとは思えない恋情ではあったが、忘れる努力ぐらいは出来るかもしれなかった。 「……忘れなくてもいい」 「……はい」 彼の言葉に桃花の瞳がじわりと滲んだ。大きな瞳に薄い膜が出来たように涙で覆われる。 「宮間さん……好き」 宮間への思いで心が染まる。 温かくて柔らかな感情はやがて心の中で大きな渦になって激しさを増す。 「……可愛い桃花、俺も、君が好きだよ」 頭の上で囁かれた言葉に、彼女の涙が止まらなくなった。 「嬉しい……です」 彼の言葉に驚きながらも、この世の幸を全て注がれたような気持ちになっていた。 「ずっと、俺を好きでいて。俺が……どんな人間でも」 「ずっと好きでいます」 腕を伸ばし、宮間を求めるように彼の身体に縋ると、手を繋いだまま彼はもう片方の手で桃花の身体を抱き締めた。 「この時間が、ずっと続けばいいのに」 ぽつりと言う彼の言葉はどこか寂しげで、桃花はそっと顔をあげて宮間を見た。眼鏡の奥にある黒曜石のように輝く瞳は強い意志を持つように煌めいて、その美貌は変わらず心奪われるぐらい美しく、色香を放っていたものの、表情は少しだけ憂いているように見えた。 「宮間さん、好きです……私は……」 ずっと傍にいると言いかけてやめた。 それを彼が望んでいるかどうかが判らなかったからだ。だけど、彼は瞳を細め、微笑む。 「うん……ずっと、傍にいて」 「……あ、は、はい」 「桃花を抱き締めるのは、いつどんなときでも、俺がいい」 「はい」 「だから、他の男なんて見るなよ」 「見ません」 「……食事……とか、行ったら駄目だからな」 「え? あ、はい」 一瞬、何故彼は安藤と食事に行く約束をしたことを知っているのだろうかと考えたけれど、誰かから話を聞いたのかと桃花は思った。 「美味しいパスタが食べたいのなら、俺が連れていってやるから」 「本当ですか?」 桃花は顔を上げてにっこりと微笑んだ。 「嘘はつかないよ」 宮間のその言葉に彼女は白磁の肌を朱に染めて、小さく聞いた。 「じゃあ……私を好きって言ってくれたのも、嘘……じゃないですか?」 「嘘じゃないよ。俺は桃花が好きだ」 嬉しそうに微笑む彼女の顔を宮間はじっと見つめていた。 「桃……今夜、ずっと一緒にいられる?」 「…あ…は、い」 胸の中を燻る甘い種火が大きな炎になっていっているような気がした。 その感情は温かいのに激しく燃えてもいて心の内側さえも溶かしてしまいそうなものだった。 小さく触れあった唇同士も、チョコレートのようにその熱で溶けてしまいそうに思えた。 「今夜は、うちに来る?」 「宮間さんのお家ですか?」 「うん、そう。ホテルのほうが良ければ話は別だけど」 「い……いえ、宮間さんの家に行きたいです」 「じゃあ、飲み会が終わったら駅で待ってる」 ちゅっと軽く彼女の頬にキスをして、宮間は繋いでいた指を解いた。 解けていく指になんとも言えず残念な気分に桃花はさせられた。 触れてはいけないと言われていた手。その手と触れ合っている間は繋がっているという感覚を強く感じることが出来ていた。だから離れていくその手が惜しい、追いかけて、再び握りしめたいと考えてしまうほどに。 「なんて顔してるの」 ふっと宮間が笑う。 「……宮間さんと繋がっていたいです」 「……」 彼はじっと桃花を見下ろした。 「手を、繋いでいる間は、そういう感覚が強かったです」 「……不思議な子だね」 柔らかく微笑んだ宮間は、もう一度彼女の頬に唇を寄せた。
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