「おつかれさまでした〜」 野木由眞《のぎ ゆま》は着ていた白衣を自分のロッカーにしまい、同僚たちに挨拶をすると、足早にロッカールームを後にした。 (今日は遅くなっちゃったな。激安スーパーの割引弁当、何か残っているかなぁ) 毎日スーパーの割引お惣菜を食べる日々は、体に優しくないと思いつつも、仕事で疲れている由眞には、自炊をする労力は残っていなかった。 お昼ごはんはかろうじてお弁当を作るものの、それも冷凍食品三昧だった。 お米は宮城に住んでいる祖母が送ってくれる。 『たまには自炊しないと、嫁の貰い手がなくなるよ』 祖母はそう言って笑う。 (お婆ちゃんは、料理のスペシャリストだもんねぇ) 松島の航空自衛隊基地内にある、民間のカフェレストラン・ミラノを経営しているのが由眞の母方の祖母、穂村絹子《ほむらきぬこ》だった。最初は祖父がメインで働いていたのだが、祖父が亡くなってから四年、それからは祖母とたまに手伝いに入ってくれる伯母の穂村皆子《ほむらみなこ》でカフェレストランを切り盛りしている状態だった。皆子の息子の継彦《つぐひこ》も手伝ってくれているから大丈夫だと祖母は言っているが、由眞は祖母の体が心配だった。 御年七十三歳の祖母――――。毎年夏と冬には会いに行くようにはしていたが、同じ年代の人よりは若々しく見えても、老いは隠しきれない。 (……私は、どうしたらいいんだろう) 由眞の心配事は、祖母のことだけではなかった。 十歳年の離れた弟、弘貴《ひろき》のことも心配の種だった。 生まれた時から体が弱く、入退院を繰り返している。心臓に難しい病を抱えていて、仕事で忙しかった母の礼子《れいこ》も、今では弘貴につきっきりだった。母が仕事に出られない分、由眞の収入があてにされていて、働けど働けど彼女の手元にお金は残らなかった。 薬剤師になるために借りた大学の奨学金の返済も、やっとつい最近払い終わったばかり。 (おっとあぶないあぶない) 残り一個の半額で百八十円のサバ弁当をカゴに入れ、由眞はレジに向かった。 (お婆ちゃん……私、嫁にはいけないわよ) 由眞は苦笑いをした。 無造作にひとつ結びにした髪の毛。化粧も適当。洋服も着られるものを古着屋で買う生活。 お洒落をする時間もお金もない。 休みの日は、弘貴の面会に行くのに時間を取られる。 ――――不満には思っていない。家族なのだから。 (……家族……だもの。でも) 自分は幼い頃、ずっと一人で遊んでいた。そのことにだって、不満には感じてはいなかった。 両親が共働きで、忙しかったのだから仕方がないと、自分に言い聞かせていた。 寂しくはない。だって、自分は強い子だもの――――。 『由眞は強いから、ひとりでお留守番もできるわよね?』 弘貴が生まれてからは『由眞はお姉ちゃんだから、大丈夫よね』に変わった母の言葉。 できるわよね? と、できることを前提に言われてしまえば、できないとは言えないのが由眞だった。 寂しいと、泣けばよかったのだろうか。 甘えたい気持ちを、素直に表現しておけばよかったのだろうか? そうすれば現状は何か変わっていただろうか? ――――だが、そんな生活の中でも、夏休みや冬休みなどの長い休みがあるときは、宮城の祖父母の家に預けられ、そのときの由眞は、祖母や祖父に存分に甘えることができた。 ガス抜きができる場所があったから、由眞は自分を保てていられたのかもしれない。 (そんなお爺ちゃんが、亡くなってもう四年か) 突然倒れて、そのまま帰らぬ人になった。 だから由眞は、忙しく働いている祖母も、そうなりはしないかと心配だった。 (……私は、どうすればいい? お婆ちゃん……) 一人暮らしのアパートの一室の鍵を開け、由眞はさっき買ってきたサバ弁当を電子レンジの中に入れた。 「……はぁ」 知らず知らずのうちに、ため息がでた。 祖母のために、レストランの手伝いをしながら、宮城で薬剤師の仕事をすることも考えてはいる。 祖母のことも心配だが、弘貴のためのお金も必要だ。 だが昔の由眞とは違い、今の彼女は"自衛隊"というものに苦手意識を抱《いだ》いていた。 それというのも、航空祭のときに機体を見せてくれていた岩谷が、訓練中の事故で怪我をし、航空自衛隊をやめることになってしまった。 ずいぶんと可愛がってくれた人だったから、別れの日は辛かった。 ――――それから、小学校六年のときにできた由眞の初恋の人、山口光弘《やまぐちみつひろ》。 卒業アルバムで自分の夢の欄に"将来は自衛官になる"と書くぐらい、その道を小学生で決めていた男の子だった。 成人式後に行われた小学校の同窓会のときに、山口は陸上自衛隊に入隊したものの、訓練生の期間中に怪我をして退官することになり、今は民間企業に勤めていると、山口と仲が良かった男子が言っていた。 本人は同窓会には来なかった。怪我は重いものであり、現在は車椅子生活をしているとも聞いて、由眞は胸が苦しくなった。 スポーツが大好きで運動神経抜群だった彼がおかれている状況を考えると、なんとも言えない気持ちになった。 自衛隊の仕事とは――――有事がなくても、危険な仕事なのだ。 よく知った人が大怪我をする姿を見るのは、あまりにも辛すぎる。話を聞くのも耐え難い。 岩谷や山口以外でも、訓練中に怪我をする自衛官は多い。 (私は、弱くなってしまったのかな) 『由眞は強いんだよ』 遠い昔、初対面の"お兄ちゃん"相手にそんなことを言ったのをふと思い出した。 一人で公園で遊んでいたら、ボールが背中に当たった。 痛みと驚きで泣き出しそうになったけれども、その人が駆けつけてきてくれたから、かろうじて涙は溢れなかった。 (あのお兄ちゃん、今、どうしているのかな……) もともと、驚くくらい綺麗な男の子だったから、今は素敵な男性に成長しているに違いない。 不意に、スマートフォンの着信音が鳴り響いた。 画面には"母"と表示されている。嫌な予感がした。彼女がメールではなく、電話をしてくるときは決まって悪い話だった。 「はい、お母さん? 弘貴に何かあった?」 『由眞……お婆ちゃんが、倒れたって……』 目の前が真っ暗になった。 とっくに温めが済んだサバ弁当が、電子レンジの中で冷えていった−−−−。
>>>>>>cm: