☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 翌日、由眞は仕事を休み、母と一緒に祖母が入院している宮城へと飛んだ。 このあたりでは一番大きな病院、帝王大学病院の分院である松島大学病院に入院しているということが、由眞の不安を煽った。 入院施設がある病院はそこ以外にもあるだろうに、帝王大学病院といえば、全国的に有名な病院で、何故その分院にわざわざ入院をさせられたのかと彼女は思った。 「ねぇ……お母さん、お婆ちゃん、そんなに悪いの?」 「私も姉から、倒れたとしか聞いていないのよ」 「……そうなのね」 「それよりも、由眞。今日、薬局《しごと》を休んでよかったの?」 「え?」 「今は手に職持っていたって、簡単に職を失う時代だし……あなたまで一緒に来なくてもよかったのに」 (お婆ちゃんは――――私にとっては親よりも大事な人よ) ――――と言いたいのをぐっと堪えて、由眞は作り笑いをした。 「土曜で今日は時短だし……それに、チェーン店の調剤薬局だから、他の薬局から足りない分、人を回してもらえるから、大丈夫なのよ。私もそれで別の薬局に行ったことがあるし」 「そう? それならいいけど……弘貴のこともあるのだから、無職になるのはやめてね。お父さんもお母さんも、あなたのことを頼りにしているんだから」 「わかってるわよ」 (一人暮らししているんだから、無職になったら、私自身が大変よ。弘貴のことで貯金だってほとんどできてないんだから) 幼い頃のほうがましだった。 一人で放っておかれる方が、まだ気が楽だった。 弟のことは嫌いではない。だけど、何もかも、弘貴が優先されるのは何故なんだろう? と由眞は常々思っていた。 (私、もう一生……こうなのかな……) 由眞がぼんやりしていると、声をかけられる。 「由眞ちゃん! 礼子! こっちよ」 空港まで伯母の皆子が、車で迎えに来てくれていた。 「皆子伯母さん……お婆ちゃんの具合は……?」 皆子の車に由眞は駆け寄り、聞いた。 「過労だって。年だからねぇ」 皆子が答えるやいなや、礼子が喚《わめ》いた。 「何!? ただの過労なの? それだけのことで私を呼んだの? 私達が弘貴の看病が大変って知っているはずよね?」 「……ただの過労って、あんたさぁ……。まぁ、そう言うと思ったから、詳しいこと言わなかったんだけどさ。入院するぐらいお母さんが働いて倒れたっていうのに、お見舞いにきて、文句言わなきゃ気が済まないの? 弘貴くんのためにお母さんが田畑や山を売ってお金を作ったのも、忘れちゃった? 恩知らずね」 「……それでも、足りないのよ。仕方ないじゃない! あの子を助けるためにはもっとお金が必要なのよ!」 「あんたって本当……まぁ、いいわ、早く乗って。早く帰りたいんだろうし、まさかここまで来て、顔も見せずに帰るなんて言わないわよね?」 由眞はトランクに荷物を入れると、車の後部座席に乗った。礼子は不満そうに荷物をトランクに入れると大きな音を立てて閉めた。 「……泊まるつもりだったけど、お母さんの顔を見たらすぐ帰るから、空港まで送ってよね」 「はいはい。由眞ちゃんも、同じでいいのかしら?」 ルームミラー越しに問われると、由眞は首を振った。 「私はお婆ちゃんの家で一泊していきます。明日も仕事は休みなので」 「あら、だったらうちに泊まっていきなさいよ。タンシチュー作ってあるのよ」 「……そうですか、じゃあ」 「由眞、やめておきなさい。あなたは月曜からまた仕事があるんだから、お母さんと一緒に帰るのよ」 礼子が話に割って入ってきて、そんなことを言った。 昔からそうだ。由眞が皆子と仲が良さそうに話をしていると、割って入ってくる。 (自分の思い通りにいかないと、気が済まないのよね……) だが由眞も遠路はるばる宮城までやってきて、すぐに帰るという気にはなれなかった。 「ごめんね、お母さん。お婆ちゃんや皆子伯母さんに会うのも久しぶりだし、伯母さんの家に泊まらせてもらうわ。お母さんは弘貴のために帰ってあげて」 「――――あなたは、弘貴のために帰らないの?」 礼子が言うと、由眞はにっこりと笑った。 「弘貴には先週も先々週も会っているから……あの子だっていいかげん、私の顔を見飽きてるわよ」 それきり礼子は黙り込み、車は松島大学病院に向かって走り出した。 車が松島大学病院に到着すると、皆子は祖母の病室まで何も言わないまま歩いて行く。 (綺麗な病院ね……弘貴が入院している病院の分院ってだけあるわね) 「過労だけなら、わざわざこんな大病院に入院させなくてもよかったんじゃないの? お金かかるのに」 また礼子が文句を言うと、皆子がくるりと振り返った。 「お母さんが倒れたときに運んでくれた人が、この病院に連れてきてくれたのよ。お金はあんたが出すわけじゃないんだからグズグズ言わない」 「まったく、その偉そうな物言いなんとかならないの?」 「あんたもね。娘らしいことして頂戴」 再び皆子は歩き始める。 「お母さんに余計なこと言わないでよ。どうせすぐ帰るんだからにっこり笑って、帰ってよ」 「……」 由眞はぼんやりと、昔のことを思い出した。 従兄弟の継彦が『どうしてお母さんと礼子叔母さんは、そんなに仲が悪いの?』と皆子に聞いたことがあった。『なんでだろうねぇ、ウマが合わないんだろうね』と彼女が言った。 それもそうかもしれなかったが、礼子《はは》は圧倒的に皆子より自分のほうが優秀だと、自負していた。自分は優秀だからと、常に上から目線で物を言うのが母だ。 大学に六年通って薬剤師になった礼子と、大学を出て民間企業に就職した皆子。 (……でも礼子伯母さんは、レストランの手伝いだってしているのに……) 母と一緒にいると、ときどき由眞は"家族"というものが、なんなのかわからなくなってくる。 家族だから助け合うのは当然と、日頃から言って由眞に弘貴の介護をさせるわりに、由眞が困っているときには何もしてくれない。 そして今も――――自分の母親が倒れたというのに、それが過労だと知るやいなや、早々と帰ろうとする。疲れているだろう皆子の代わりに、介護をしようという気持ちは微塵もなさそうだった。 もちろん同じく入院している、弘貴のこともあるけれど――――。 (お母さんにとって家族って、弘貴だけなの……?) ぼんやりと由眞の心に落ちていた影が、その色を濃くした瞬間だった。 「あらあら、礼子、来てくれたんだねぇ」 細い腕に点滴を打って、ベッドで横たわっている祖母が笑っている。彼女の笑顔に由眞は救われた気がした。 だが、前に会ったときよりも痩せていて、ひどく老けた気もした。 母がポツリと言う。 「……元気そうで、良かったわ」 「見ての通りよ。わざわざ来てもらって悪かったねえ」 「……別に……いいわよ、これくらいのこと……」 母の歯切れが悪くて、なんだろうかと由眞は思った。 由眞からははっきりと見えなかったが、どうやら、先客がいるようだった。 「ご家族の方ですか? では、僕はこれで」 綺麗な声が病室内に響く。 声の仕事でもしているのではないかと思うほど、よく通り、そして透明感のある声だった。 「忙しいのに悪かったねぇ、柊吾《しゅうご》くん、見舞いに来てくれて。それに色々ありがとね」 「いえ、休日でとくに用事もなかったので気になさらないでください。お大事に」 カーテンの影から、すらりと背の高い男性が姿を表した。 向こうがこちらを見るから、由眞は頭を下げる。すると向こうも頭を下げた。 「……こんにちは。穂村さんのお孫さんですか?」 「おや、由眞も来てくれたのかい? ありがとうね」 彼の切れ長の瞳がすっと細められた。 「ゆ、ま?」 突然呼び捨てにされる。 だが、呼ばれたというよりは、彼は由眞の祖母の言葉を反復したという雰囲気だった。 「あ、はい。穂村の孫の野木由眞です」 再び頭を下げると、彼も軽く頭を下げた。 「第四航空団所属、第十一飛行隊一等空尉、赤坂柊吾《あかさかしゅうご》です。基地内では穂村さんによくお世話になっています」 「柊吾くんは、うちのタンシチューが好きなのよねぇ」 祖母が朗らかに笑うと彼も笑った。驚くほど綺麗な笑顔だ。 ビスクドールのように端正な顔立ちで、透けるような茶色の瞳はどこか人懐っこそうに見えて、笑うと更にその魅力を増す。 髪の毛も茶色なので、もともと色素の薄い人なのだろうと由眞は思った。 唇は薄めで、淡い桜色をしている。 一言で言ってしまえば、容姿端麗だ。でも。 「えぇ、穂村さんのタンシチューは世界一です」 「相変わらず、口がうまいねえ」 ほほほと祖母が笑ったが、由眞は静かにあとずさりをしていた。 (待って、ちょっと待って。彼、今、第十一飛行隊って言った……わよね?) 容姿端麗、などとぼんやり考えている場合ではなかった。 頭の中で警告音がビービーと鳴り響いていた。 彼は航空自衛官だ。しかも第十一飛行隊と言った。その第十一飛行隊はブルーインパルスの隊だった。 (逃げなきゃ) 祖母たちがタンシチューの話で盛り上がっている最中、由眞は忍者のごとく、足音もたてずに病室を抜け出し、一番近い女子トイレに逃げ込んだ。 (え? え? ちょっと、何? なんでここに自衛官がいるの? それはいいとしても、なんでブルーの飛行隊の人が、お婆ちゃんのお見舞いに来ているの? ど、どうして?) ブルー。 由眞が憧れているブルーインパルスの愛称だ。大空に舞う飛行隊。その姿をひと目見たら誰でも心奪われることだろう。 航空祭で祖母や祖父に連れられて、由眞は何度もブルーインパルスを見た。 憧れが強いがゆえに、最も近づいてはならない人だ。 (岩谷おじちゃん……山口くん……) 彼らのことがなければ、ブルーインパルスの話を喜々として柊吾に聞いたのだろうが、今の由眞には無理なことだった。 仲が良かった人、親しくしてくれた人――――。淡い思いを抱いていた人――――。その人達が訓練中の事故で、退官を余儀なくされた。 岩谷も、山口も、自衛隊という組織に誇りを持っていたはずだった。 (もう、これ以上知り合いが傷つくのは嫌……) 由眞が小さくため息をつくと、彼女のスマートフォンが鳴った。Lineの着信音だ。 画面を表示させると、アカウント名が赤坂柊吾、となっている人からのメッセージだった。 (んん???) 『今晩、皆子さんの家で夕飯をいただくことになりました。どうぞよろしく。このラインアカウントは皆子さんから教えてもらいました。よかったら友達登録してください。赤坂柊吾』 (え、ちょっと待って、なんで伯母さん勝手に私のアカウント教えてるの!? どうぞよろしくって、何をよろしくされたの!?) 由眞はトイレの個室でワナワナと震えていた。 (お母さんと帰ろう。今すぐ帰ろう! そうしよう!) 女子トイレから飛び出すと(手はきちんと洗った)祖母の病室に戻った。 すると母親の姿は既になくて、例の自衛官はまだいる。 祖母のベッド近くの椅子に腰掛けていた。 「お婆ちゃん、お、お母さんは?」 「あぁ、礼子はもう帰ったよ」 「えぇ?」 「皆子が空港まで送っていったよ。まったく忙しない子だねぇ」 ほほほと祖母は笑う。由眞もつられて笑うしかなかった。
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