「由眞ちゃん、まぁ、立ってないで座ったら。りんごでも食べる?」 柊吾がそう言って差し出してきた白い皿の上には、うさぎの形に切られたりんごが乗っていた。 (う……うさぎの林檎? お婆ちゃんが剥いたのかな……っていうか、由眞ちゃんって何! なんか、慣れ慣れしくないですかッ) 「柊吾くんは器用でねえ。いつもりんごを剥いてくれるんだけど、決まってうさぎなのよねぇ。由眞も小さい頃はうさぎのりんごを喜んで食べてたねぇ」 (ちょっと待って。お婆ちゃんが剥いたんじゃなくて、この超絶イケメン自衛官が剥いたってこと!!) ひぃいいいいと心の中で叫んだ。 なんて器用で、可愛らしいことをする人なんだろう。とか思っている場合じゃない。 「わ、私、今はお腹がいっぱいで……すみませんけど」 由眞は極力感情を表に出さすに、丁重にお断りをする。 「そう? 残念だな」 (……残念って何) コトンッと、柊吾はベッドに備え付けのテーブルに皿を置く。 彼はいつまでも立ちっぱなしの由眞を、じっと見つめてきた。 「座らないの?」 柊吾の横にパイプ椅子があるけれども、由眞はそこに座る気にはなれなかった。 「え、えー……っと。そうだ、お婆ちゃん、売店で何か買ってきてあげようか? 何か欲しい物ある?」 「欲しいものねぇ……暇つぶしになるような……女性週刊誌でも買ってきてもらおうかね」 「わかった、じゃ、じゃあ行ってくる」 「売店の場所はわかるのかい?」 「大丈夫!」 一刻も早くこの場から離れたかった由眞は病室から飛び出そうとするが、思いがけず腕を掴まれた。 「僕も行くよ。この病院、広いし、売店の場所もちょっとわかりづらいんだ」 ひぃっ、とまた心の中で由眞は悲鳴を上げた。 親切にしてくれなくていいから、放っておいてくれないかなと、額に脂汗が滲んだ。 「柊吾くん、お願いするよ。その子、方向音痴でねぇ。ひとりにするとどこに行っちまうかわからんから。糸が切れた凧みたいに」 確かに方向音痴だけれども! 糸が切れた凧ってひどくない? と由眞は叫びそうになったが堪えた。 「ふふ……承知しました。では、行こうか、由眞ちゃん」 なんでこの人は、ずっと自分のことを名前呼びなのか……と由眞は思っていた。 ふたりでしばらく歩いてから、由眞は思い切って言う。見ず知らずの(自衛官)に名前で呼ばれる必要がない。 「あの……赤坂さん。私、名字、野木っていうんで……」 「うん、さっき聞いたよ」 「だから、あの……」 「なんだったら、僕のことは穂村さんみたいに、柊吾と呼んでくれてもいいよ」 柊吾は、後光がさしてそうな眩しい笑顔を、こちらに向けてくる。 (そうじゃない!!!ソッチじゃない!) 「い、いえ、そうではなく……お婆ちゃんのことを穂村って呼んでいるのだから、私のことも、野木っていう呼び方でいいのでは……と、思いまして」 「皆子さんのことは名前で呼んでいるよ? 息子の継彦くんのことも」 「あ、そうですか――――じゃなくて、いや、それでも、ですね」 「どうして? 名前で呼ぶのは何か悪いことだったかな?」 「あー……うーんと……いえ……いや、その」 悪いことという言い方をされると、胸がちくりと痛む。 このやり取り自体が不毛な気がして、由眞は諦めようとしたとき――――。 「由眞ちゃん」 再びにっこり笑って彼はかがむ。そして由眞の肩にかかる髪をそっとかきあげた。 「ひぃいいいっ! な、何するんですか!」 「あぁごめんね。ホクロがあるなぁって思って」 「ホクロのない人間なんているんですか!?」 「あははっ、そうだね」 「そうだね、って、さ、流石に失礼だと思います! 触ったりするの」 「ごめんね?」 彼は小首を傾げて、由眞の瞳を覗き込んできた。 (ひぃいいい。だ、だから、顔を近づけてこないでってば……) 思わず顔が赤くなってしまう。 彼はそんじょそこらのイケメンではなく、そして自衛官というだけあって、素敵な体躯をしていた。 細身っぽく見えるのに、必要な筋肉はしっかりついてそうで――――。 (だから、何を観察しているのよ! 私っ) 首をぶんぶんと振った。 「も、もういいんで。でも二度としてこないでください。私たち、今日逢ったばかりなんですから!」 「……」 由眞の言葉に、柊吾からの返事はなかった。 (あれ? 何? 聞こえなかったのかな) とはいえ、もう一度言うのも気が引けた。 「え……えぇっと……売店は……」 「エレベーターに乗って、そうだな一階の売店が近いかな」 彼は普通に話してきた。 さっきのは、聞こえてなかったのかな? 聞こえてないということにしようと由眞は思った。 「……売店っていくつもあるんですか?」 「うん、地下と六階と十階のカフェの近くにあるから四箇所かな」 「詳しいんですね」 「……まぁ、この辺で大きい病院っていったらここぐらいだし……」 「自衛官の人も……」 由眞は口を閉ざした。何をうっかり仲良く喋っているんだろう。 (距離、距離よ……由眞) 「自衛官がどうかした?」 「あ、なんでもないです」 「何か言いかけていたじゃない?」 「いえいえ、大したことじゃないんで。えーっと、お婆ちゃんがいつも読んでいる雑誌って何だったかなぁ……私も何か買おうかなッ」 柊吾はエレベーターの壁に寄りかかって、横目で由眞を見ている。 「……つれないなぁ」 ぼそっと彼が呟いた。条件反射的に由眞は顔を上げてしまう。 茶色の綺麗な瞳と目が合うと、抗《あらが》えない何かを感じてしまった。視線をそらせないまま、何か喋ってしまってはいけないと思っていたから、由眞はまるで金魚のように口をパクパクさせた。 (つれないってどういうこと? だって、私たち初対面だし……きっと、そうだわ、この人とは感覚が違うんだわ) 「穂村さんを病院に運んだのは、僕なのになぁ」 ぼそりと彼が言う。 そういえば、伯母の皆子が誰かが祖母をここに運んだと言っていた。 「え? あ、そうだったんですか? わ、私知らなくて……それは……すみませんでしたっていうか、ありがとうございました。お婆ちゃんを助けてくださって」 「うん。僕が穂村さんを助けたのに、由眞ちゃんの態度ってあんまりなんだよなぁ」 「す、すみません、すみません」 由眞は何度も頭を下げた。 そのたびに肩までの髪が揺れて、首筋の小さなハート型のホクロが見える。柊吾は満足そうに彼女の首筋を眺めていた。 「ねぇ、僕たちってさぁ」 柊吾が何か言いかけたとき、エレベーターの扉が開いた。 「一階ですね。売店は右ですか? 左ですか?」 「……左側……」 由眞はスタスタと歩いて行く。額に汗を滲ませながら。 (ぼ、僕たちって……何っ) 理由はわからなかったが、急に柊吾が距離をつめてこようとした気がする。 一体なんなのだろうか? 彼の人との距離のとり方がまったくつかめない。 遠い場所にいるはずなのに、すぐ近くまで寄ってきたがっているように思えてしまって−−−−。 (いやいや、気のせい、気のせい。気のせいじゃなかったら、彼はただの女ったらしよ!) 由眞はピンときた。 これだけの容姿の持ち主でブルーインパルスのパイロットだ。モテないはずがない。引く手あまた過ぎて、女と見たら口説かずにはいられない人なのでは? いや、口説かれてなんかいないかもしれないけど、と彼女は思う。 柊吾クラスの男性が、自分なんぞを相手にするわけがない。 勘違いにも程がある、と由眞は思った。 「うわ、売店広い」 「皆子さん、そこのブルーインパルスパイが好きだよ」 お土産コーナーを指さして、柊吾が言う。 「え? あ、お土産コーナーもあるんだ。このパイ、美味しいんですか?」 「うん。美味しいよ。みんな買って帰るね」 「そうなんですね。うわ、なにこれ! ブルーのキーホルダーめちゃくちゃ可愛い。猫がブルーに乗ってる」 あまりの可愛さに、由眞のテンションがあがった。 「それ、人気みたいだね。フリマサイトで高値で転売されているらしいよ」 「そうなんですか? いや、転売用じゃなくて普通に自分用に買うでしょう。あ、薬局の人たちにも買っていこうかな。えーっと、キーホルダーと……このパイ、皆子伯母さんの分と、みんなの分と……」 「楽しそうだね」 にこりと柊吾が笑うと思わずつられて、由眞もへらっと笑ってしまった。 (こら! 由眞っ) でも、突然真顔になるのもおかしい気がしたから、由眞はその顔のままブルーインパルスパイを二箱と、猫ちゃんブルーインパルスキーホルダーをたくさん購入した。 「……由眞ちゃん、ところで雑誌は買ったの?」 柊吾に言われて、何のために売店に来たのか、当初の目的を忘れてしまっていたことに気付かされる。 「あっ」 ふふっと柊吾は笑って、手に持っていた雑誌を由眞に渡した。 「はい、雑誌。由眞ちゃんがお土産を見ている間に、買っておいたよ」 「す、すみません。お金、払います」 「いいよ。穂村さんには、いつもお世話になっているから」 そう言って柊吾は歩き始める。 (うぅっ……失敗した……恥ずかしいな) それから由眞は意を決して、柊吾を呼び止めた。 「あ、あのっこれっ」 小さな袋を、由眞は彼に差し出した。 緊張のためか、由眞の腕に思いがけず勢いがついて、柊吾が驚いた表情をする。 「え? 何?」 「……今回は、祖母が大変お世話になって……その、御礼と言うか……大したものじゃなくて、あれなんですけど……とにかく、お礼です」 「あ、ありがとう」 柊吾は由眞の手から小さな袋を受け取ると、中身を出した。 さっき、由眞が見てはしゃいでいた、ブルーインパルスに猫が乗っているキーホルダーだった。猫は青色の蝶ネクタイをしている。 「へぇ。これは……嬉しいけど"大したものじゃない"って言われると、僕はどういう反応をすればいいのかな?」 くくくっと柊吾が可笑しそうに笑う。 「え? あっ、すみません。なんていうか言葉のあやというか、金額の問題というか……この子が大したものじゃないって意味じゃなくて……」 「わかっているよ、ありがとう。自分じゃ買わないし、純粋に嬉しい。"また"君から貰ってしまったね」 「……え?」 またとはなんだろうか? と由眞はフリーズした。 これも、彼特有の口説きというものなのだろうか? だとしたらウカウカと乗るわけにもいかない。 「そうだ! お婆ちゃん、待っていますね。早く戻らないと……」 「そうだね」 あっさりと彼はひいて、再び歩き始める。 これはこれで、寂しいと感じてしまう自分が恨めしかった。 (ダメダメ、彼は自衛官よ) 由眞は自分に言い聞かせた。
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