☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 「由眞ちゃん、お風呂入っちゃって〜」 皆子の声が階下から聞こえて、由眞はのろのろと立ち上がった。 「はーい。今行きまーす」 ちりんと音がして、テーブルの上に置いておいてあったブルーインパルスのキーホルダーが床に落ちた。 ブルーインパルスに乗っている猫は、耳のところに赤いリボンをつけていた。 お土産用に買ったのは、青い蝶ネクタイのものだけ。 由眞は自分用には、違うデザインのものを購入していた。 柊吾と同じものを持ちたくなかったわけではなく、その逆で、男の子と女の子という気がしたから、由眞は自分だけは赤いリボンのものにしたのだった。 (べ、別に……深い意味なんてないし) 誰に言い訳をしているのか、由眞は心の中で呟いた。 (明日になったら、もう二度と会わない人よ) 由眞はキーホルダーをテーブルの上に置いて、お風呂場に向かった。 「お風呂の使い方はわかるわよね? バスタオルはこれを使って。必要なものはその辺のもの使ってくれていいから」 「ありがとうございます。皆子伯母さん……あの……」 「うん?」 皆子は気さくに笑う。 「……お婆ちゃんって、本当にただの過労なんですか?」 「……理由の一つとしては過労だけど……私も継彦も毎日レストランに手伝いに入れるわけじゃなかったし……あとは、お婆ちゃんも、いい歳だからねぇ……色々、調べてもらったほうがいいと思って」 「それって、よくないこと?」 「お爺ちゃんのことがあったから、私がお願いして調べてもらってるだけよ。本人はあのとおり元気っぽくしてるけど、食が細くなっているからね。もう、以前のようには、働かせられない……かなぁって私は思ってる」 「……そうなの……」 「収入が減ると、礼子がまたうるさそうだけどね……」 「え? お母さんってまさか、お婆ちゃんからも毎月お金を?」 「……由眞ちゃんのお母さんのことだから、あまり悪くは言いたくないんだけどね。弘貴くんのことになると、ちょっと……ね」 由眞は渡されたバスタオルを、ギュッと握りしめた。 自分が切り詰めて生活して、弘貴のために送金するのは、年老いた祖母にお金の無心をさせないためでもあった。 弘貴のために、祖母が祖父の田畑や山を売ったことは知っていた。 だけど、それ以上のことも母は祖母に望んでいただなんて。 「……皆子伯母さん……、ごめん、なさい」 「由眞ちゃんが謝ることじゃないわよ」 「……ごめん、なさい。お母さんが酷いことしてて」 生ぬるい涙が由眞の頬をいくつも伝っていった。 「……由眞ちゃん……」 何度も言うが、弘貴のことは嫌いではない。 家族であり、弟だからだ。 だが、正直なところ、歳が離れすぎていて、弟といわれてもピンとこない。 彼とは十歳離れている。 母は歳がいってから出来た子供というのと、体が弱いというので過保護なぐらい弘貴を大事にし、そしてそれを周りにも押し付けた。 父も同じだ。あれだけ仕事が忙しいからと由眞にかまいもしなかったくせに、弘貴に対しては可能な限り傍にいる。 入院がちの弘貴の看病をするために、母は皆子との優劣を見せつけるため、あれほど執着していた薬剤師の仕事も簡単に辞めた。 そして母のせいで、この世界の中心は、弘貴なのだ。 (私の世界の中心が弘貴……私の世界って……いったいなんなの) そう考えたところで、いつもの母の言葉が頭の中で響いた。 『弘貴はあなたの家族で、由眞は弘貴のお姉ちゃんでしょう? どうして弘貴のために頑張ろうって思わないの? 冷たい子ね』 ――――私は、冷たい人間なんだろうか。 本当に、最近では自分がどうしていいのか、わからなくなってきていた。 小さい頃は仕事が忙しいからと我慢を強いられ、今は、弘貴の姉ということで我慢を強いられている。 両親の傍にいるのも、弘貴の傍にいるのも、ただただ辛いだけだ。 (……私は、やっぱり……) 由眞は、ずっと考えていたことがあった。 祖母が倒れたことで、決めるときがやってきた――――。 (松島に来よう) お風呂から上がり、部屋に戻ると、スマートフォンにメッセージが入っていたようで、ピカピカと点滅している。 (誰だろ……) スマートフォンを持ち上げて、由眞はメッセージの送り主を見てフリーズする。 ――――赤坂柊吾。お近付きになりたくない人からのLineメッセージだった。 『星が綺麗だよ。都会の空では見られないだろう。一緒に見ないか?』 (この人、どうしてこんなに私にかまってくるんだろ……) ブルーインパルスのパイロットといえば、老若男女好かれる立場だ。そんなの当の本人が一番よく知っていると思う。 (私じゃなくても、いいはずなのに) はぁ、と思わずため息が漏れた。 『今、お風呂から出たばかりなんです、なのですみません』 メッセージを送ると、返事はすぐにきた。 『そうか、残念だな。風邪をひかせたら申し訳ないから、宿舎に戻るよ。じゃあね』 「……」 自分からの返事をずっと外で待っていてくれたのかな、と思うと、途端に申し訳ない気がしてきた。何より、彼は祖母の恩人だ。 由眞はあわててメッセージを返す。 『髪の毛を乾かす時間、いただけますか?』 あぁ、なんだって自分はこんな返信をしているんだろう……と由眞は思った。 『わかった。皆子さんの家の近くで待っているよ。ゆっくりで大丈夫だから、ちゃんと乾かしておいでね』 『はい』 猫が敬礼しているスタンプを送信して、由眞は髪の毛を乾かし始めた。 (ゆっくりで大丈夫って……なんか、気遣いの人だなぁ) とはいえ、タオルや速乾ブラシを使いながら、由眞は可能な限り急いで髪を乾かした。 さすがに髪の毛をまっすぐにする時間は取れないと思ったから、髪の毛は一つに束ねる。 (よし、オッケー) すっぴんパウダーをパタパタと顔にはたいて、色付きのリップを塗ると、由眞はショルダーバッグを斜めがけして一階に降りた。 「あら、由眞ちゃん。こんな時間におでかけ?」 皆子が声をかけてくる。 「はい、あの……赤坂さんに、星を見ないかって誘われて……」 と、由眞が言うと、皆子はにんまりと笑った。 「まぁまぁ。そうなの? 柊吾くんもお目が高いわねぇ」 「そ、そんなんじゃないです。ただ、私が都会育ちだから、星が……」 「いってらっしゃい」 にこっと皆子は笑って、由眞にそれ以上何か言わせないようにした。
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