第二章 「来たばかりなのに、もう帰っちゃうんだねぇ」 由眞の祖母の病室で、祖母は残念そうに言った。 ここ何年かは、忙しい祖母に遠慮して松島《こっち》には来ていなかったから余計に別れが辛い。 「来月にはまた来るよ。お婆ちゃん」 「来月かい?」 「私ね、こっちに引っ越してこようかと思って」 由眞がそういうと、祖母は心底驚いたような表情を見せる。 「そんなこと、昨日礼子は一言も言ってなかったけど」 「うん、昨日の夜に決めたの。ずーっと考えていたことだったんだけど。私、どうも都会の水が合わないみたいで」 と、いうか、野木の家だ。あの家族から離れたい、と由眞は思っていた。 「……そうかい? また、礼子に色々言われるんじゃないのかい?」 「いいのよ、今だって何をしたって文句は言われてきたし……自分で決めた道なら、何を言われても平気。私はお母さんたちとは、身体的にも距離があいたほうが、心が楽になると思うんだ」 由眞が微笑むと、祖母は複雑そうな表情を浮かべている。 「由眞……本当にすまないね、あの子を……礼子を自由にさせすぎた、私らの責任だよ」 「誰のせいでもないよ。お母さんはお母さん、私は私――――だから、決めたのよ。松島に来て薬剤師の仕事をしながら、お休みのときは、お婆ちゃんの手伝いをしようって。誰かの顔色を伺いながら行動して、後悔したくないから」 柊吾は込み入った話もあるだろうからと、病室の外にいた。 病室の外にいても、由眞の声は聞こえる。 由眞の話は、柊吾にも刺さるものがあった。 ――――誰かの顔色を伺いながら行動して後悔したくないから それは彼も過去に、思ったことだった。 父の顔色を見ながら、ただひたすらに勉強をしていたあの頃。 だから、母は自分に言ったのだろうか? 好きなことをしてもいいと。 今なら、あれが劣等生の烙印を押されたのではないと思える。 母は心の底から、柊吾には好きな職業に就いて欲しかったのだと。 そして意識を由眞に戻す。 ("私は強い"って、強がっていた子が、今じゃその仮面を外すことも出来なくなってしまったのか) 祖母を前にしてもピンと伸びた背中、そんな由眞の少しやせ我慢をしているように見える後ろ姿を見ていると、無性に抱きしめたくなる。 唯一信頼している祖母の前でも、仮面を被らずにはいられなくなってしまったのか。 (君だって、弱音を吐いたっていいんだ) そう言ってやりたかった。 願わくは、由眞が弱音を吐ける相手が自分であればいいと思ってしまう。 どうして由眞が、常に誰かに遠慮をし続けなければいけない? 由眞の人生は由眞のものなのに。彼女の母や弟のものではない。 (僕は、由眞のおかげで、自分の歩むべき道を見つけられたのに――――) 柊吾はぎゅっと強く拳を握りしめた。 (僕は君のために、何もしてやれないのか?) 両親を説得して医者ではなく、パイロットの道を進むことができたのは、由眞のおかげだ。 彼女にとってはシロツメクサの公園のことは些細な出来事でも、進路に迷いが生じていた柊吾にとっては、彼女がパイロットの話をしてくれたのは、とても大きな出来事だった。 ――――航空自衛官になったとしても、ほんの一握りの人間しか乗ることのできない、ブルーインパルスのパイロットへの挑戦。 母の舞子は、自らの道を柊吾が選んだことをとても喜んでいた。 強い気持ちがあったから、父を説得できた。 ――――だから、由眞がいなければ、今の自分はいない。 (僕が……由眞を、幸せにしてやれないのか) ため息が漏れた。
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