☆ ☆ ☆ ☆ ☆ それからの由眞は忙しかった。 祖母が危惧した通り、母の礼子が松島行きを黙っていなかった。 『松島に行くってどういうこと? お給料だって今の薬局はたくさん稼げているのに、あなたって子は、弟のことはどうでもいいの? いつもいつも勝手なことばかりして』 (いつ私が、勝手なことをしたのかな……) 感情的になっている母とは逆に、由眞は静かに話した。 「どうでもいいってことはないよ。ただ、お婆ちゃんのことも心配なだけ。向こうでも薬剤師の仕事はするから、今までどおり、お金は送るよ」 『都会の給料と、田舎の給料は違うのよ? わかっているの?』 「……わかってる。それに、もう仕事は決まっているから」 柊吾に相談をしてから二週間後、彼から紹介状が送られてきた。 祖母が入院している松島大学病院の院内調剤課に、就職できるよう手配してくれたのだった。 『……そう、もう決まっているの。全部事後報告なのね』 不満そうに母が言う。一体何が不満なのだろうか? 相談でも、して欲しかったのだろうか?? 『――――そうそう。弘貴の渡米が決まったの』 「え?」 『だから、このところ、ばたばたしていたんだけど……渡米して手術するには後少しお金が足りなくてね』 「――――少しって? いくら?」 『三千万よ』 (少しって額じゃない……) 由眞はため息が漏れそうになった。 「あと三千万、どうするの?」 『パパや、パパの親戚が、お金を集めてくれているわ。――――順調とは言えないけど、後少しなのよ……クラウドファンディングのほうでも、お金は集まっているわ』 「……そう、じゃあ、また何かあったら連絡頂戴」 もうこれ以上は話しても仕方がないと思い、由眞は通話を終わらせた。 (三千万なんて、軽く言うけど……) 母は少し金銭感覚もおかしかった。祖母が祖父の山や田畑を売ってお金にしたときから、もっと自分の実家にはお金があると、勘違いをしているフシがある。 祖母がお金を出し惜しみをしていると、以前言っていたことがあった。 そんなことはない。 祖母は売れる土地は全部売り、皆子に相続させるつもりだった土地すらも、話し合いの結果、売ることにした。 何もなければ祖母も、皆子も悠々自適な生活が送れた筈なのに、弘貴一人のためにみんなの生活設計が崩れてしまった。 (お母さん……またお婆ちゃんのところに、お金の無心をしてなければいいけど) 由眞の父は今、薬局が休みの日は弘貴のための街頭募金活動を、ボランティアの人たちと共にしている。 母がさっき言っていたようにクラウドファンディングでも、渡米のための寄付金を集めていた。 (渡米してドナーが見つかっても、お金がなかったら……) Lineの通話の着信音が鳴る。 また母親か? とうんざり気味でスマートフォンに表示されている名前を見ると、柊吾からだった。 「あ、赤坂さんこんばんは、すみませんご連絡しなくて、あの、紹介状届きました。大病院を紹介してくださって助かります。お礼が遅れてしまって本当にすみません、こちらから連絡しなくちゃいけなかったのに」 由眞が恐縮していると、柊吾が明るい声で言う。 『ツテだから気にしないで、僕は大したことしてないよ』 「……そんなことないですよ。本当に助かりました」 『どうかした?』 「え?」 突然聞かれてどきりとする。 『なんだか、元気がなさそうな声だから』 柊吾に心配されるほど、そんなに今の自分は、弱った感じになっているのだろうか? 確かに、少し、母と話したせいで疲れてはいるけれども。 「いえいえ、何もないですよ、ただ、びっくりしているだけで」 『びっくり?』 「こんな私が、大学病院に就職だなんて……」 『こんな……って、履歴書僕も見せてもらったけど、T大学薬学部卒業しているじゃない。凄いことだよ。それに大学病院の調剤課って言っても、普通の調剤薬局とそんなに変わらないよ。逆に大学病院ならではの、ちょっとめんどくさいことも多いかもしれないけど、合わなそうだと思ったら、辞めちゃっていいからね』 「紹介していただいたのに、そんな無責任なことできないです。弘貴も−−−−」 言いかけて由眞は口を閉じた。 『弘貴くんに何かあった?』 「ええ、渡米することが決まったんですよ」 『へぇ、それは良かったね』 「はい。皆さんの募金のおかげで」 『そうか』 「――――あ、あと引越屋の件ですけど、安すぎじゃないですか?」 『だから、安いところを紹介するって言ったじゃないか』 実は実際の見積もりの4/5の代金は柊吾のところに回すよう、彼が引越屋に言ってあった。 「そうですけど……なんか、本当にお世話になりっぱなしで、すみません」 『構わないよ。これぐらい』 「……嬉しいんですけど……なんていうか……」 『遠慮している場合でもないでしょ? 穂村さんのこと、助けたいんでしょう? 僕だって、穂村さんには早く元気になってもらいたいし』 「はい。あの、その後、お婆ちゃんの具合、どうですか? 本人に聞いても大丈夫としか言わないから」 『そうだねぇ……僕もちらっとしか聞いてないんだけど、まだ検査入院は続きそう』 「皆子伯母さんも、どうですか? 自分の方の仕事を休んで、レストランの仕事をしてるって、継彦くんから聞きました」 『レストランのほうは、今はメニューを減らしたり、営業日を変えたりしてなんとかやっているみたいだけど……。大変は大変だろうね』 「……そうですか、なんだか……もどかしいです。私が行ったところで、結局、つきっきりでレストランの仕事ができるわけでもないので……」 『由眞ちゃんはやれることをやればいいんだよ。小さいことのつもりでも、積もり積もれば大きなものになっていくから。きっと』 今は由眞にとって、柊吾の言葉は大きな励みになった。 「……ありがとうございます」 『うん、楽しみに待っているから。由眞ちゃんが松島に来るのを』 (た、楽しみに???) 由眞の心臓がどきんと跳ねる。 他意などない、彼は少し……いやだいぶ、他人との距離が近い人なのだ。と由眞は思うようにした。 「は、はい……えっと……その、ありがとうございます」 『それじゃあ、またね』 「はい"また"」 そう言って着信を終えた。 柊吾の声や話し方は、ほっとするものがある。母と話してイライラしていたが、そのイライラ感もすっかりなくなった。 (こんなんじゃ、駄目なのに) 柊吾は頼ってはいけない相手だとわかっているのに、運命がそうしろと言わんばかりに、彼の方に感情が流されていく。 どうして神様は、自分にばかり試練を与えてくるのだろうか。 流されていく感情はどこまでも心地良い。だからその流れに溺れてしまいたくなる。 (そういえば、今期がラストフライトって言ってたから、私が松島に行っても、すぐにお別れね) 本来そのほうがいいはずだった。 自衛官の危険な訓練や任務のことを思えば、自分が近寄ってはいけない人物だ。 テーブルの上に置いてあった鍵を持ち上げる。 ちりんと鈴の音が鳴った。 ブルーインパルスに乗った赤いリボンの猫が、笑ったように見える。 お財布につけていたキーホルダーを、鍵に付け替えたのだ。 柊吾と同じ様に。 (はぁ……なんだかなぁ) 経験したことのない胸の痛みに襲われて、由眞は深々とため息をつくしかなかった。
>>>>>>cm: