☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 「新入社員の野木さんを歓迎して、かんぱーい」 病院近くにある居酒屋の個室で、由眞の歓迎会が催されていた。 課長の藤島洋一《ふじしまよういち》も感じの良さそうな上司だった。双子の子供がいて、夢美《ゆめみ》ちゃんと友美《ともみ》ちゃんと言って、来年小学生になるそうだ。 写真を見せてもらったが、とても可愛くて仲の良さそうな姉妹だった。 「可愛いですね」 「そうだろう?」 自慢の娘らしい。 こういうのもなんだか新鮮だ。 子供を誇らしげにしている様子の親を見るのは、初めてかもしれない。 (弘貴に対する母の感情は、そういうのではないもの……) 可哀想なあの子のため(母の口癖だ)に尽くすことが、由眞の母親の生き甲斐だった。 (可哀想だと思われている弘貴は、どう思っているのだろう) やたらと世話をさせたりするわりに、由眞が弘貴と仲良く話そうとすると、母の邪魔が入る。 だから、由眞は弘貴が何を考えているのか、どんな性格なのか、姉弟でありながら知らないのだ。 「やぁやぁ諸君、飲んでいるかね」 小太りの男性が、突然ドスドスと個室の中に入り込んできた。 「うわ、でた……バカ息子」 佐野がポツリと小さい声で言う。 「え? どなたです?」 由眞が聞くと佐野は小声で「この病院の院長のバカ息子よ。内科の課長だけど相手にしちゃ駄目よ、不愉快になるだけだから」と言った。 (バカ息子……) とはいえ、医者になれるくらいなのだから、地頭は悪くないのだろう。まぁ、自分に関わりはないだろうと思っていたらズカズカと入ってきて、佐野と由眞の間に割り込んできた。 「うわ、ちょっ、な、なんなんですか、桃谷課長《ももだにかちょう》!」 佐野の抗議を、桃谷は聞いていないふりをする。 「困りますよ、桃谷課長勝手なことをされたら。今日は院内調剤課での野木さんの歓迎会をしているんですから」 藤島課長が言うと、桃谷は胸を張った。 「だーかーら。この僕も、彼女を歓迎してあげようと、わざわざ来てやったんじゃないか」 「……誰も、呼んでませんけど」 「あぁ? 佐野、なんか言ったか?」 「いいえ」 暑苦しそうな二重顎の顔が、鼻息荒く由眞を見る。 「やぁ、野木さん、よくこの病院に来てくれたね。顔も可愛いしスタイルもいい。いやぁ、実に僕の好みだよ」 「は……はぁ」 「桃谷課長、イマドキはそういう発言はセクハラっていうんですよ」 小出が長めの前髪をかきあげながらいうと、桃谷は憎々しげな表情をした。 「セクハラだからなんだ? 誰かが僕を訴えられるとでも? 松島大学病院の院長の息子であるこの僕を!」 ツバを飛ばしながら、桃谷が言う。 せっかく始まったばかりの歓迎会だったが、もうお葬式のように他の子達は静かになってしまっていた。 「野木ちゃん、こっちおいで、そこにいると暑いだろ?」 小出がウィンクする。 ありがたい申し出だったが、ここで移動したら小出の立場が悪くなったりはしないだろうか。 「俺はヘーキだからさ」 由眞の前にあったドリンクを持ち上げると、小出の隣の席の男子に席を譲ってもらって、そこに由眞のウーロン茶を置いた。 「じゃあ、あの」 立ち上がろうとした瞬間、桃谷に腕を掴まれた。 じっとりとした掌の感触が気持ち悪くて、思わず悲鳴が出そうになった。 「いいのかな、そういう態度。君、お金が必要なんだろ?」 「え?」 「渡米代、あと三千万ほど足りないんだってねぇ?」 渡米代って何? とその場がざわつく。 「桃谷課長、プライベートなことを話題にするのは、いかがなものかと思いますよ」 藤島課長が割って入ってくれるが、桃谷は続けた。 「僕がその三千万、用意してもいいんだけどなぁ〜」 ――――この感覚的に嫌悪感があるのは、彼の一挙手一投足がまるで爬虫類のような、獲物を狙うような感じがあるからだろう。 とにかく気持ちが悪いと、由眞は思った。 だけど、三千万の話は無視できないと感じる。 「……それは、どういう意味ですか」 ようやく声を絞り出して由眞が聞くと、桃谷はニヤリと笑った。 「君が我が松島大学病院の院長の子息と"結婚"すれば、三千万なんてはした金、いくらでも用意できるってことだよ」 両手を大きく広げてまるで勝ち誇ったかのように、桃谷が言った。 (結婚……? わ、私がこの人と?) 周りがざわつく。 佐野が何か言いかけた口を、藤島課長が塞いで告げた。 「桃谷課長、今夜のところはそれぐらいにして、お帰りください」 藤島課長が桃谷の背中を押して、個室を出ていく。 「野木さん……今の話って……」 佐野が心配そうに見上げてくる。 「うん……弟が、心臓の病気で……まだ渡米代が集まってないの……それがあと、三千万……で、お金が必要なのは……本当なの」 「うわっ、あいつサイテー、キモっ! 前から嫌なやつだと思ってたけど、本気で嫌な奴だったわ」 佐野が自分の体を抱きしめて、ブルブルッと震えた。 「……でも、あいつって負ける勝負はしないタイプだから……大丈夫? 野木ちゃん」 小出が聞いてくる。 ――――負ける勝負はしない。 本当にそうだ。 母の耳にでも入りでもすれば、すぐにでも結婚させられるだろう。 (……どんな、冗談よ) 自分は結婚相手すら、選べないのか。 由眞は必死に涙を堪えた。そんな彼女を、佐野と小出が心配そうに見つめていた。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 桃谷が野木家の事情を妙に詳しく知っていたのは、由眞の祖母が、主治医の宮前《みやまえ》医師と家庭事情を話しているのを、度々盗み聞きしていたからだった。 由眞のことを知っていたのも、病院に勤める前に、何度か祖母のお見舞いに来ていたのを見て、勝手に気に入ったようだった。 桃谷は医者の資格は持っているものの、普段は院内をうろうろするだけで、仕事は殆どしていなかった。 ――――そんなことが許されるのか? といったところであるが、肝心の父親はあまり松島の病院にいることが少なく、本院である東京の帝王大学病院にいることのほうが多かったため、こういう事態が起きていた。 無論、苦言を呈する者もいたが、自分の可愛い息子がそんな馬鹿なことをしているとは信じることが出来ず、苦言を呈したほうを罰するという親バカぶりであった。 ――――いつしか、誰も何も言わなくなった。 だから、今回の暴挙ともいえることでも、どのように対処していいのか、院内調剤課の人々は頭を悩ませていた。 皆それぞれに生活があり、ここをクビになるわけにもいかず、クビにならないまでも、バカ息子に目をつけられて嫌がらせを受けたくない、というのが正直なところだった。 「まったく、あのバカ息子! ろくなことを考えないんだから。なーにが結婚よ! 鏡見てからものを言えっての!」 佐野がバンっと机を叩いた。 「……他の手で三千万、なんとかなりそうなのか?」 小出が言うと、由眞は首を振った。 「母は何とかなるって思っているみたいですが、私はそうは思っていなくて。だから余計に今回の話が母に伝われば、結婚は確定かと思います」 「なんで野木さんが、あのバカ息子と結婚しなきゃいけないのよ! しかもあいつ節操なしだからちょっと気に入った女の子がいたらお金に物を言わせて、自分の愛人にするのよ! 許せん!!! いつか訴えられるぞあいつ」 「……さらに気持ち悪い情報ですね」 由眞はお弁当を食べていた箸を置いた。 「バチがあたったんですかね。就職や、引っ越しやら……他人に頼り切りにしてしまったから。自分のことだったのに」 「自分のことって言ったってそれは、野木さんのお婆ちゃんのためのことでしょ? そんなふうに自分を追い込んじゃ駄目よ」 佐野が慰めてくれる。 「……そう……ですね」 だが、どのみち、逃げ場はないような気がしていた。
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