☆ ☆ ☆ ☆ ☆ チュンチュンと鳥の鳴き声が、遠くで聞こえている。 ふかふかのお布団からは、嗅ぎ慣れない洗剤の香りがした。 (ん? んんん?) グリーンの遮光カーテンの隙間から、光が薄っすらと差し込んできている。 (……グリーンのカーテン?) 自分の家のカーテンは、オレンジ色だ。 「え……ここ、どこ?」 頭の中がぼんやりして、状況が把握できない。 コンコンコン、とドアが三回ノックされる。 「は、はい」 由眞が返事をすると扉が開き、柊吾が入ってきた。 「起きていたんだね? 具合はどう?」 「ぐ、具合とは……」 「昨日は盛大に、吐いてたから」 「う、そ……すみません、ご、ご迷惑をおかけしてしまって」 由眞はガバッと布団から飛び出て、正座をすると深々と頭をさげた。 「いや、全然、大丈夫だよ。由眞ちゃんの洋服以外は」 「ひぃっ」 そういえば、今自分が着ているのはダブダブのシャツだった。 おそらく、柊吾のシャツだ。 「あぁ、その表情のときはそういう声を、心の中で出していたんだね」 柊吾はにーっこりと笑った。 笑顔が怖い、なんか怖い! 「お、怒ってますよね……」 「どうして?」 「馬鹿みたいに呑んで、粗相して……ご迷惑おかけして」 「由眞ちゃんが呑むのを止めなかったのは僕だし、僕の責任でもあるよね」 「そ、そういうものでしょうか?」 「そうだよ」 柊吾は頷いた。 「ところで」 「はい」 「昨日のことは覚えている?」 「も、もちろんです。弘貴のために三千万円のご寄付、本当にありがとうございました」 由眞は、再び深々と頭を下げる。 「うーん。ソコじゃないんだよね」 「け、契約結婚のことも、ちゃんと覚えています。一年だけ、結婚生活をするんですよね? 上官の娘さんとの結婚回避のために」 「そうそう。良かった、覚えておいてくれて」 柊吾の綺麗な顔が、目の前に迫ってくる。 「一年だけの契約結婚について、細かい条件とか、全然話す暇がなかったけど……」 「す、すみません」 そんなに謝らなくてもいいって、と彼は言って笑う。 「生活費なんかの金銭面は、全額僕が出すから安心して"あの弟"にも渡米費以外にお金がかかるようなら、言ってくれればすぐに用意するから」 事もなげに彼は言った。 "あの弟"の言い方に、刺々しさを感じたのは――――多分気のせいだ。と由眞は思うようにした。 「……す、すみません……」 「気にしないで、少なくてもあの病院のバカ息子よりは、お金を持っている自信はあるから。だから何かあったら遠慮したり、悩まないで、すぐ僕に言って。ああいうのにつけいれられるの、本当に腹立つから」 「は、はい」 「うん」 ふわりと彼は包み込むように、由眞を抱きしめてきた。 「……君は、僕のものだ」 小さな声で柊吾は呟いた。 由眞はひぃっと心の中で叫んで、身体を硬くする。 ボクノモノ。 ――――どういう意味で?? 聞かされた由眞は、身体をこわばらせたまま、どう返事して良いのかわからなかった。 (この一年の間だけは……って、ことよね?) ふっと彼の腕の力が抜ける。 「そうだ、卵雑炊でも食べる? 昨日は呑んでばかりだったから、お腹空いているんじゃない?」 確かに、昨夜はビールばかり呑んでいて、食べ物はシラスと大葉のピザを一切れと、きゅうりの味噌和えを一口食べた程度だった。 ぐぅ、とお腹が鳴る。 「……お腹、空きました。でも自分でやります――――ところで、ここはどこなんですか?」 「僕のマンションだよ」 「えっ! 赤坂さんって、基地内の宿舎に住んでいるんじゃなかったんですか?」 「普段はそうなんだけど。昨日は特別だったから、予め外泊届けも出しといたし」 「トクベツ?」 「うん。運が良ければ、由眞ちゃんをここに連れて来られるかなぁとか、思っていたから」 「運って……どういう意味ですか?」 柊吾は魅惑的な笑みを、浮かべる。 「誰にも邪魔されず、ふたりきりの夜を過ごしたいじゃない?」 「ふたりきりって、わ、わ、私と、ですか?」 「そう。あの状況で他に誰がいるのさ」 「なんの――――ためにですか?」 柊吾は首を傾げる。 「それを聞くの?」 彼の言葉と視線の熱っぽさにあてられて、なんだかお腹の奥のほうが痛くなった。 (何? この痛み) 「色々話したいこともあったんだけど、それはまた今度かな……」 「……話したいことっていうのは、今後のことですか?」 「そっちはご飯食べながらでも、話そうか?」 彼はにっこりと笑った。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 結局、卵雑炊は柊吾が作り、由眞に食べさせる。 食べさせると言っても今の彼女は平常運転なので、昨日のように口に運んであげたりはしない。 「んん……すっごい美味しいです」 「呑んだあくる日だからね」 「そういうんじゃなくて……もうっ」 由眞が少しむくれた表情をすると、彼は嬉しそうな顔をする。 「そういう顔も可愛いねぇ」 「……そーいう冗談、やめてください。恥ずかしいので」 「え? 冗談じゃないよ」 「赤坂さんから見て、私みたいなのが、可愛いわけがないじゃないですか」 「なんで決めつけ?」 「顔の偏差値が、違いすぎるからです」 「……顔の偏差値って……でも、あの病院のクソ息子に気に入られて、危うく結婚させられるところだったじゃないか」 「……不思議な人ですよね。たいして逢ったこともなければ、話したこともないくせに、いきなり結婚しろだなんて」 それは柊吾も同じなのだが。 「……由眞ちゃんが知らないだけで、君は人の心を、掴んで離さない魅力を持っている、ってことだと思うけど?」 「そんなもの、ありませんよ。両親の心も射止められないのに、他人の心を射止められるわけがないじゃないですか」 自分で言っていて悲しくなる。 「子供は親を選べないから……大丈夫、その分、僕が大事にしてあげるから」 「……一年だけ、ですよね?」 「……とりあえずこのあと、服と指輪を買いに行って、来週は品川団長と食事会、再来週は早速だけど、うちの親に逢って欲しいんだ。由眞ちゃんを紹介したい」 由眞は食べていた卵雑炊を、吹き出しそうになった。 「え? も、もうご両親とお逢いするんですか?」 「こういうのは早いほうが良いと思って。式の予定もあるし」 「えぇ! 結婚式、するおつもりなんですか?」 「――――するおつもりだけど?」 「必要なくないですか? 一年間だけの契約結婚なんですし」 「結婚式も挙げられない甲斐性なしとか、同僚たちに思われたくないんだよねぇ」 「……そ、それは……そうなのかもしれないんですけど……一年だけの契約結婚なのに、結婚式だなんてちょっと大げさすぎじゃないですか?」 「……僕は、したいよ」 「でも……」 「さっきはあんな言い方したけど、本当は二人きりだっていい。君がダイヤのティアラの代わりに、シロツメクサの花冠を被って、ウエディングドレスを着て、僕の隣にいてくれれば、それ以上望むものなんて、何もないよ」 (シロツメクサの花冠……) 大好きだったあの公園。 少しでも弘貴が入院している病院の近いところに−−−−と、親が勝手に決めて引っ越してしまってから、一度も行っていない。 「シロツメクサの花冠、素敵ですね」 思わず滲んだ涙を、由眞は拭った。 あのお兄ちゃんとも、結局再会出来ていない。 一度しか逢っていないけれど、優しくしてくれたあの男の子。 約束なんて叶わないものなんだ――――結局のところ。 逢いたいと願い続ければ、逢えるほど日本は狭くない。 偶然の再会なんてありえない。 (……泣かないで。由眞) 彼女の涙を、違うように捉えた柊吾だった。 由眞は柊吾との結婚を良しとはしていない――――彼は今、そう感じていた。 だが由眞が柊吾をどう思っていようと、けして手放さないという強い気持ちが彼にはあった。 時間をかけて好きになってくれればいいと思っていても、涙を見てしまえば気が急いてしまう。 (一秒でも早く、君が僕を好きになってくれればいいのに) お酒に潰れた由眞は、ずっと泣いていた。寂しいと泣いていた。 あの日、強いから大丈夫と笑っていたあの子が、自分の腕の中で泣いていた。 細い腕が、柊吾の身体を抱いた。柔らかな彼女の肢体が、柊吾の劣情を煽ったが何もしなかった。 『君が好きだよ、由眞』 数え切れないくらい伝えた言葉のひとつも、君は覚えてくれてはいなかったけれども、それでもいつか由眞の心に届けばいいと思っている。 君がいるから、存在できている人間がいるってことを。 ――――君に愛されたい人間が、いるってことを――――。 由眞の手が完全に止まっていて、スプーンで卵雑炊をすくう様子が見られなくなった。 「由眞ちゃん、ご飯、冷めるよ? 美味しくなかった?」 「あ、いいえ……とても、美味しいんですけど。もうお腹がいっぱいで……」 「ごめんね、僕が浮かれたことを言ったから……由眞ちゃんが嫌なら、結婚式はやめよう」 柊吾が言うと、由眞は大きく首を横に降った。 「い、いいえ。結婚式は……しましょう。私が、わがまま言える立場じゃないんですから」 「立場とか、そういうのはやめよう。この契約結婚は、僕がお願いしていることだ。お金のこととは切り離して考えてほしい」 「ごめんなさい……」 「謝らないで、変なお願いをしてしまったけれど――――契約結婚自体だって、由眞ちゃんが嫌だと思っているなら、やめたっていいんだ」 「でも、そうしたら、赤坂さんは上官の娘さんと、結婚させられるんですよね?」 「うまく逃げてみせるよ。大丈夫」 「だ、大丈夫じゃないです」 「――――え?」 「私が、赤坂さんが誰かとお見合いとか、結婚とか、そういうの、なんかモヤモヤするので、最初のお話通り、契約結婚しましょう」 「モヤモヤ? そう?」 「すみません……なんか色々、変なことばかり言ってしまって。私自身、いっぺんに色々あって、考えがまとまってないんです」 「いいよ、由眞ちゃんは思っていることを言ってくれる方が、僕はいい。君の気持ちを知りたいと思っているし、君の気持ちを最優先にしたい」 「ありがとうございます……」 由眞は微笑んだ。 ことが大げさになっていくのはたった一年の"契約結婚"であるから、気が引けた。 だが、柊吾が誰かとお見合いするのも結婚するのも、凄く嫌だと思ってしまった。 この気持ちはなんなのだろう。 すっきりしない気持ちが、胸の中でくすぶっていた。 ――――柊吾は、初対面のときから、なんだが少し距離の取り方が他の人とは違うと、由眞は思っていた。 由眞が一歩二歩と下がれば下がるほど、追いかけてこようとする。 それがいったいなんなのだろうか? と考えているうちに"契約結婚"を申し出てきた。 三千万をポンと出せるくらいのお金持ちなら、他にもっと上手に立ち回れる女性を雇えばよかったのでは? と思ってしまう。 自分がやると言い切ってしまったものの、未だに自信はない。 彼の上官との食事会も、彼のご両親に会うのも−−−−。
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