(絶対にどこかでボロがでそう……) 今も、高級ジュエリーショップで、婚約指輪をあれやこれやと店員さんから勧められているが、普段古着屋でしか買い物をしない由眞からしたら、その値段が破格過ぎて、どれも手にとることすらできない。 「気に入ったもの、なかった?」 『気に入るも何も、こんな高いもの、いただけません』 ぼそぼそと由眞が言うと、柊吾がウーンと腕を組んだ。 「婚約指輪だもの、これぐらいが相場じゃないのかな? なんだったら他のブランドも見てみる?」 『いじわるです〜〜』 柊吾はふふっと笑った。 「僕はこれがいいな、ハートにカットされたダイヤの指輪。可愛くない?」 ちょっとまって、それ、並べられているものの中で一番高いやつ! と由眞が思っていても、柊吾はしれっとそれを手に取り、由眞の左手の薬指にはめる。 「よくお似合いですわ」 指輪に似合うとか似合わないとかあるのかと、由眞は軽く気を失いそうになったけれど、どうにも柊吾がそれを気に入ってしまったようで、桁のおかしい指輪を買ってもらう羽目になってしまった。 彼の散財ぶりは、ブティックに入ってからのほうが大変だった。 由眞に似合いそうと言っては、柊吾は彼女に洋服を試着させ、ほぼほぼお買い上げで、レジには服の山が出来ていた。 「これ全部配送してもらっていいかな」 さらりと彼はそう言った。 「ねぇねぇ、由眞ちゃん」 「……なんでしょうか、赤坂さん」 いい加減ショッピングに疲れてきた由眞が、ぞんざいな返事をするのも気にせず、彼はジュエリーショップのショーウィンドウの前に、由眞を引っ張っていった。 「このネックレス、由眞ちゃんに似合うんじゃないかな?」 「……もう十分、買っていただいたので……」 「……婚約指輪って仰々しくて、仕事のときなんかはつけておけないでしょう? ネックレスなら、いつでもつけておいてもらえるよね?」 彼はにっこりと微笑んだ。 「僕があげたもの、身につけておいて欲しいんだ」 「……私、何もお返しできないですよ?」 「そういうのはいらないって、最初から言ってるじゃない。お返しって意味では、僕が由眞ちゃんに返さないといけない立場なんだし」 「……私、赤坂さんに何もプレゼントしてないと思うんですけど」 「ブルーインパルスのキーホルダー」 「えええええ、あれのお返しって、ちょっと、赤坂さんおかしいですよ! 金銭感覚が」 「金額ってどうでもよくない?」 ショップ内に引きずり込まれ、結局由眞はネックレスをプレゼントされてしまうのであった。 「ほら、やっぱりよく似合う」 何故かまた柊吾のマンションに連れてこられて、由眞はリビングで彼にネックレスをつけてもらっていた。 ネックレスの細い鎖が首筋に触れると、くすぐったかった。 (ネックレスをするのなんて……初めてかも) 目の前のテーブルには鏡が置いてあって、自分の胸元で小さなダイヤのペンダントヘッドが揺れる。 「金属アレルギーが、あったりする?」 柊吾がそんなことを聞いてくる。 「え? うーん……アクセサリーってつけたことないから、どうかわかりません」 「そう、じゃあ、かぶれないようだったら、ネックレスは外さないでいて」 「あ、はい」 「うん」 不意に背後から抱きしめられる。 (ひゃぁっ) ふふっと柊吾が、いたずらっぽく笑っている。 驚きはしたが嫌な気持ちはしなかった。 (なんでなんだろ……) 柊吾に対しては、由眞の警戒心が薄れてしまう気がした。 形だけの結婚生活が、始まろうとしていても、不思議と一緒に住むことに不安はなかった。 ――――ただ、それは普段の生活に対してのことで、彼が自衛官だと思い出してしまえば、途端に不安感に襲われる。 (過去にブルーインパルスも、事故を起こしているし……) と、由眞が考えていると、柊吾が彼女の右側の首筋にキスをしてくる。 「ひゃぁああああっ! な、な、何をするんですか!」 「え? キスだけど」 「『え? キスだけど』じゃないですよ!」 「あれ? 駄目なの」 「え〜っと……」 駄目と言えば、彼は二度としなくなるのだろうか? ――――それはどうなのだろう。 (どうなのだろうって、どうなのよ、私!) 彼に何かされたがっているみたいで、恥ずかしくなる。 「顔が真っ赤だねぇ」 柊吾の顎が由眞の肩に乗ってくる。 触れそうで触れない距離の、彼の頬の体温が落ち着かない。 「由眞ちゃんの耳たぶって、可愛い形だよね。思わずかじりたくなるな」 「い、いや、それはちょっと、いかがなものかと」 「うーん、そうかぁ、残念」 由眞の肩に顎を乗せたまま、柊吾はしばらく無言になる。 静かな空間で、カチ、コチ、と時計の秒針の音が響き渡る。外の音が聞こえてこないから、防音設備がしっかりしたマンションなのだろう――――と、どこか冷静な自分と、心臓をバクバク言わせている自分がいて、由眞は戸惑っていた。 いつまでも離れそうにない柊吾の体温がくすぐったくて、由眞は彼に言う。 「テ、テレビでも見ませんか?」 「ん、そうだね」 あっさりと柊吾が承諾して、テーブルの上に置いてあったリモコンを手に取り、テレビの電源を入れる。 (映画を見たら、迫力がありそうなテレビだなぁ) というぐらい、リビングに置いてあるテレビは大型のものだった。 「なにか飲む? コーヒーか紅茶か……ミネラルウォーターもあるけど」 「あ、じゃあ、ミネラルウォーターをいただいてもいいですか?」 一番手間のかからなそうなものを、由眞はお願いして、柊吾と一緒に立ち上がった。 「座っていてくれて、いいよ?」 「……ええっと……なんか色々赤坂さんにやらせるのも、申し訳なくて」 「あのさ」 「はい」 「そろそろ、名前で呼んでくれてもいいよ。僕たち結婚するんだし」 にこっと柊吾は笑う。 「なっ、な、な、名前ですか」 「うん。君だって、赤坂になるわけなんだし、いつまでも赤坂さんは変じゃない?」 「そうかもしれませんが、まだ、心の準備が……」 「心の準備かぁ」 ふふっと彼は面白そうに笑いながら、冷蔵庫からミネラルウォーターをとりだした。 洗かごに入っている猫柄のマグカップと無地のマグカップをふたつ手に取り、それぞれにミネラルウォーターを入れる。 「はい、どーぞ」 猫柄のマグカップを渡されて、由眞は「ありがとうございます」と言って受け取った。 やけに可愛いマグカップだなと、思った。 食器棚をちらりと見ると、食器類は無地のものが多くて、このマグカップだけが浮いている。 (……もしかして、誰かが使っていたものなのかな) 途端にモヤッとする。このモヤモヤはなんだろう? 「ん? マグカップの中に、何か入ってた?」 柊吾が由眞の持っているマグカップの中を、覗き込んでくる。 「あ、いいえ、何も」 「そう? なんか変な感じだったから、どうしたかと思ったよ」 「いえ、ぜんっぜん、変じゃないです」 「そう?」 柊吾はミネラルウォーターを冷蔵庫に戻すと、さっきまで座っていた場所に戻っていった。 由眞も同じように戻り、彼の隣にちょこんと座る。 何も考えずに座ったクッションだったが、このクッションも、猫の足形の柄のものでモノトーンの家具で揃えてある彼の部屋には、不釣り合いに思えた。 ましてや、柊吾が使っているクッションがグレーだったから、余計に不自然さが際立った。 (ここって、普段……別の人が座ってたりする?) そんなふうに考えると、途端に居心地が悪くなる。 「どうかした?」 テレビのチャンネルを変えながら、柊吾が聞いてくる。 「え? あ、何にもないですよ」 「何にも、って顔、してないんだよなぁ……さっきから」 「いや、あの……」 「うん?」 彼はミネラルウォーターを一口飲んで、マグカップをテーブルの上に置いた。 「て、テレビ! 今、何か面白い番組、やっているのかなぁって……思ったりしていて」 苦し紛れに適当なことを言うと、柊吾はそうだねぇと返事をした。 「うち、サブスクで映画とか色々見られるようになっているから、退屈はしないんじゃない?」 「あ、そ、そうですか」 「どういう映画が好き? ドラマでもいいけど」 「え、ええっと……」 「アニメのチャンネルも、あるみたいだな」 初めて操作するような口ぶりで彼が言うので、由眞は尋ねた。 「最近加入したんですか?」 「いや、入居時からだけど、あまりこっちには来ないから」 「お休みの日は、いつもは宿舎にいるんですか?」 「そうだね」 「お休みの日は、宿舎では何をしているんですか?」 「んーそうだなぁ、体幹トレーニングとか……筋トレとか?」 「……それって、休んでないですよね」 「僕は無趣味だかならなぁ。いつも飛行機のことか……別のこと考えているし」 彼は変な言い方をした。 「別のことってなんですか?」 由眞が聞くと、柊吾は微笑んだ。 「由眞ちゃんのこと」 「え」 「由眞ちゃんは、今何してるのかなぁ……とか」 「いやいやいや、それは無いですよね、私あんまりそういう冗談慣れてないんで、返事に困ります」 「なんで冗談だって思っちゃうの?」 ホクロのあるほうの首筋に、触れられる。 彼のほうが少し体温が低いらしく、指先が触れた瞬間ヒヤリとするが、すぐにその体温が馴染んでくる。 「キスしていい?」 「えっ、い、ぁ、あの」 チュッと短いキスが、頬にされる。 柊吾の柔らかい唇が、頬に触れれば、どうとも言えない感情が湧いてくる。これはいったいなんなのだろう? 嬉しい? 恥ずかしい? 泣きたい? どれも違う気がした。 「由眞ちゃんって一日のうち、どのくらい僕のことを考えてくれている?」 唐突に彼が聞いてくる。 「え、か、かんが――――える、ですか?」 「予想はしていたけど。一秒も考えてないね?」 「一秒ぐらいは考えますよ。だって、赤坂さん、毎日Line送ってくるじゃないですか」 「じゃあ、送らなかったら、全然考えないってことかな?」 「だからといって、送ってくるの止めるとか、そういう意地悪はやめてくださいね」 「あ、それ、意地悪なんだ?」 「意地悪じゃないですか?」 くくっと彼は笑う。 「そうだね」 「何がおかしいんですか?」 「おかしいんじゃなくて、満足しているだけ」 「……何にですか?」 「いや、ホント、由眞ちゃんって可愛いよね」 「ごっごまかさないでくださいよ。そーんなこと言って、実は本命が別にいたりとかするんですよね?」 「え? 何? その決めつけ」 「だって、おかしいじゃないですか、このマグカップといい、クッションといい、赤坂さんの趣味じゃないですよね?」 「――――あぁ、だからフリーズしていたの?」 「な、何がです?」 「マグカップ渡したときとか、さっきもなんか様子おかしいのに、聞いても素直に答えないし。もしかして、本気で他に本命がいるとか思っちゃっているの? まさか」 「だ、だって、変じゃないですか」 「変じゃないよ」 ちりん。 彼は由眞の目の前に、ブルーインパルスのキーホルダーをぶら下げた。 「君が猫を好きなのかなっていうの、簡単にわかることだと思うんだけど?」 「わ、私のため……なんですか?」 「それは、そうでしょう?」 「どうして……」 由眞が聞きかけたとき、テレビからニュース速報の音が流れた。 反射的にテレビに目を向けると、ニュースの内容は、陸上自衛隊のヘリコプターが消息不明になった、というものだった。 「し……消息、不明って……」 思わず、柊吾のシャツの袖を掴んだ。 「……これだけの情報じゃ、何が起きたかわからないね」 彼の声は冷静だった。 「でも、何か起きたってことですよね」 さっきから柊吾のスマートフォンから、Lineの通知音が鳴り止まない。 「基地に戻らなくて、大丈夫なんですか?」 「必要なら召集がかかるさ」 「……」 消息不明というのは、ヘリコプターが墜落したということなのだろうか。由眞は不安に襲われる。 (あぁ、だから――――駄目なんだ) 陸上自衛隊に知り合いはいないけれども、これがもし、柊吾が乗っているヘリコプターだったとしたら? 昔可愛がってくれた、航空自衛隊の皆だったとしたら? 由眞は掴んでいた柊吾のシャツの袖から、指を離した。 「……由眞ちゃん」 柊吾が離れた手を引き戻すようにして、ぎゅっと手を繋いでくる。 伝わってくる体温が切なくて、涙が零れそうになるのを、かろうじて止めた。 「悲しいことばかりに囚われないで。航空祭でブルーインパルスを見たときの感動や、戦闘機のコックピットを見たときの感動を忘れないで。楽しかったことや、嬉しかったことを忘れないで」 「……私、航空祭の話やコックピットの話って……赤坂さんにしたことありましたか?」 「……あるよ。楽しそうに話してた」 「……覚えてない……昨日ですか?」 「……そうだね」 「……私……駄目なんです……岩谷おじちゃんや、山口くんのこと、考えてしまうから−−−−怖くて」 柊吾は一瞬黙ってから、再び話し始めた。 「ねぇ、山口くんのことはそんなに好きだったの?」 「え?」 「由眞ちゃんの初恋の子だったって継彦くんから聞いているよ。そんなにいつまでも思い続けるほど、君は山口くんのどこが好きだったの? 彼は君に何をしてくれた? 暗闇の中で光を見せてくれた? 一瞬でも幸せを与えてくれた? 辛いときの救いになった?」 思いがけず早口で柊吾が言った。 山口のことは――――運動神経が良くて、クラスの皆から好かれていて、いつも笑っていて。だから、好きだった。 「……や、山口くんのことを好きだったのは、小学校六年生のときの話で……卒業後もずっと好きだったってわけじゃ……ないんですけど、でも、彼は昔から自衛隊に憧れていて……それなのに、訓練中の事故で下半身不随になってしまって……あんなに憧れて入隊したのに、訓練生の段階で退官することになったのは、さぞかし、苦しかったろうと思って……」 「どうして由眞ちゃんが、そこまでそいつの気持ちに寄り添わなきゃいけないの?」 「え?」 「――――言いたくないけど、訓練中に事故るって言うことは、実践では死ぬってことだよね。憧れだけでは自衛官は務まらない」 「……そ、そうですけど……そんな言い方しなくても……」 「わかんないの? 妬いてるんだよ。見たこともないその山口って男が、君の心に居場所を作っているっていうのが、許せないくらい嫉妬してるって」 柊吾は切れ長の綺麗な瞳を由眞に向けてきた。 熱っぽさを孕んだ瞳で、まっすぐに見つめてくる。 「嫉妬って……ど、どうして」 柊吾はテーブルに置いてあった車のキーを取り上げた。 「送っていく。準備して」 「あ、赤坂さん……」 あれきり彼は何も喋らなくなった。 由眞も話しかけづらくて、無言でいた。 会話のない車の中では、アニメソングや、J-POP、K-POPなど、さまざまなジャンルの曲が流れていた。 (嫉妬ってどうして? なんで赤坂さんが嫉妬するの?) 今も山口を好きだと言っているわけではない。 ただ、初恋の男の子が、そういう境遇になったという話をしただけなのに。 車が止まり、柊吾がサイドブレーキをひいた。 「着きました」 「あ、は、はい……」 それ以上、彼は何も言わない。こんな別れ方は嫌だと、由眞は思う。 「あ、あの、赤坂さん」 「はい」 「……ごめんなさいっていうのは違うと思うんですけど、でも、なんか……こんな、喧嘩別れみたいにして別れるのは嫌です」 「奇遇だね、僕もそう思っているよ」 「……でも、怒ってますよね」 「嫉妬ね」 「……ど、どうしたら、気持ちがおさまりますか?」 「そうだね、キスしてくれたら」 ピク、と由眞が身体をはねさせると、柊吾は目を細めた。 「ひぃって、思ったでしょう?」 「……だ、だって。キスとか……」 しかも"してくれたら"と彼は言った。 ――――ということは、由眞が柊吾にしなければいけないということだ。 「由眞」 彼は誘うように声をかけてくれる。 これを逃せば、グズグズと時間だけが流れるだけだと由眞は感じて、思い切って彼に近付こうとしたが、シートベルトに阻止された。 「きゃふっ」 柊真はそんな彼女を見て、微笑んだ。 「まったく、君は」 彼はしゅるっと自分のシートベルトを外してから、由眞のシートベルトを外した。 唇が触れるまで五センチ、その場所で柊吾は身体を止めた。 由眞は思い切って身体を起こした。 柊吾の唇に由眞の唇が触れる。 (あ……柔らかくて、あったかい) 心臓はバクバクいっているのに、妙に冷静な自分もいて、由眞が離れるまでキスは続いた。 ふっと唇が離れると、柊吾の瞳はまっすぐに由眞を見ていた。 綺麗な瞳の中に自分が映っている。 (今、この人の心の中に、私はいるのかな) 由眞は短く息を吐いて言った。 「もう一度……しても、いいですか」 「……いいよ」 柊吾のシャツを握って、由眞は再び唇を重ねた。 ふたりは触れるだけの口付けを、長い間し続けた−−−−。
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