第三章 消息不明だった陸上自衛隊のヘリコプターは、海上に墜落したものの、搭乗員全員無事救出された。 墜落の原因については、これから究明していくと、報道していた。 由眞はこういうとき、やはり思い出してしまうのだ、志半ばで退官していった、岩谷や山口のことを――――。 ――――そして、柊吾の上官。品川団長との食事会の日。 「いや〜驚いたね、穂村さんところのお孫さんが、こんなに素敵なお嬢さんになって、しかも、赤坂くんと付き合っていただなんて、全然、気が付かなかったよ」 約束通り、食事会には品川団長の娘も来ていた。赤いノースリーブのワンピースがよく似合う美人だった。 当然、彼女――――品川華織《しながわかおり》は、面白くなさそうな表情はしていた。 お見合いの席ならともかく、柊吾に本当に結婚を約束している相手がいるかどうかの確認のために、自分が招かれているのだから、不愉快ではあっても、面白いはずがない。 「……本当に素敵なお嬢さんですこと。ブランドのジュエリーもよくお似合いだわ」 褒め言葉なのか、皮肉なのかよくわからない言葉を、華織はその形の良い唇から吐き出した。 真っ赤なルージュが印象的だ。 「ブルーインパルスのパイロットとはいえ、一等空尉のお給料で買えるものではないと思うのですけど、まさか婚約指輪はレンタル?」 ふふっと彼女は笑った。 「華織、失礼だぞ」 「あら、だってそうでしょう? お父様」 「私は、ジュエリーのことはわからん」 「まぁまぁ、それでよく品定めをしようなどと言い出しましたわね」 「私は品定めだなんて、言っていないぞ」 「"本物"か、どうか――――だったかしら?」 そう華織が言うと、すかさず柊吾が口を挟む。 「本物はひどいですね。彼女と僕は正真正銘、結婚の約束をしたもの同士ですよ。来週にはうちの両親に、由眞ちゃんを紹介しようと思っているんです」 華織は露骨に、面白くなさそうな表情をした。 「私とのお見合い話が出た途端、バタバタ動くんですね」 「タイミングって、感じでしょうかね。たまたまですよ」 柊吾はにっこりと笑んだ。 これは、嫌味の応酬なのだろうか? と由眞は考えていた。 由眞は、レースのデザインが美しい、膝丈の真っ白いワンピースを着ている。 柊吾に貰ったネックレスも、勿論つけている。 このブランドのネックレスもそうだが、婚約指輪のダイヤの大きさなどが、どうも華織の癇に触っているらしい。 「そうそう、由眞ちゃんが身につけているジュエリーに関しては、全部僕のお金で購入したものですよ。学生時代、デイトレをしていたので、お金は持っているんですよ。婚約指輪を、見せびらかし用にレンタルするだなんて、とんでもない話です」 「あら、お金自体、ご実家の援助ではなかったんですね。確か――――お父様は大学病院の院長だったような」 華織は柊吾の家庭事情を、よく知っている様子だった。 (赤坂さんのお父様って、だ、大学病院の院長だったの?) 由眞は華織の言葉ひとつひとつに、ドキドキさせられていた。 何と言っても、来週は柊吾のご両親に挨拶に行かなければならないのだから。 「ええ、父は院長で、ふたりの兄も同じ病院で働いています」 「――――まぁ、そうでしたの。では、何故赤坂さんはお医者様を目指さずに、航空自衛官になられたんですの?」 華織がネチネチと聞いてくる。 「僕も最初は医者を目指していたんですが、どうしてもブルーインパルスのパイロットになりたくて、航空自衛官になりました。今期がラストイヤーなので、寂しい限りです」 「……そう。医者の道よりも、ブルーインパルスを選んだのですね。ほんの一握りの人間しかなれない道を――――」 「華織、人の人生をあれこれ言うのは失礼だぞ」 華織は品川団長にたしなめられて、ふっと小さく笑った。 「失礼いたしました。ただ、ブルーインパルスのパイロットよりも、医者の妻のほうがいいと思ってしまったので」 彼女の言葉に、柊吾も笑った。 「そうですね、大多数の方がそう思うのかもしれませんね。由眞ちゃんもそうだったりするのかな?」 彼がちらりと由眞を見る。 「お医者様がいいとは思いませんけど、でも……自衛官の……しかもパイロットとなると私は……彼の身を案じてしまいます」 由眞が心の底から心配してそう言うと、品川団長が大きく頷いた。 「そうだな、つい最近、陸自のヘリコプターが墜落したばかりだからな。由眞ちゃんの気持ちはわかるよ。うちの妻もそうだからな。心臓がいくつあっても足りないと、若い頃はよく言われたものだ」 「あの……品川団長がご存知かはわかりませんが、岩谷さんという航空自衛官がいらして、子供の頃、松島に来たときはよく遊んでくれたんです。その方が訓練中の事故で退官されてしまったショックを……未だに引きずっていて、だから、心配で仕方ないんです」 「あぁ岩谷くんか、覚えているよ。良いパイロットだった。後輩からも慕われていて、ブルーインパルスのパイロットの候補にあがった矢先の事故で……惜しいことをした。彼には広報としてでも残っていて欲しかったんだが、それは彼にとっては辛いことだったのだろう」 品川団長の言葉に、由眞は驚いた。 「……岩谷さんが……ブルーインパルスのパイロットに……? そんな話が出ていたなんて」 「由眞ちゃんはブルーインパルスのパイロットに、縁があるようだな」 品川団長は朗らかに微笑んだ。 「お似合いのふたりだ、末永く仲良くすると良い。祝福するよ」 品川団長の言葉に、由眞は苦笑いをした。 (ごめんなさい……) 華織との結婚回避のための契約結婚だったから、由眞の胸が痛んだ。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 「今日はお疲れ様。ありがとうね」 帰宅途中の車の中で、柊吾が由眞にそう言った。 「あ、いいえ……ただ、なんだか申し訳なくて」 「申し訳ない?」 「品川団長が、祝福してくださったので」 「あぁ」 柊吾はふふっと笑った。 「もっとガツガツ責められるかと思っていたけど、すんなりひいたなって僕は思ったけどね。やっぱり相手が由眞ちゃんだとほだされてしまうのかな。君は可愛くて魅力的だし」 「そんなことないです。全部お婆ちゃんのおかげです」 由眞の祖母が一生懸命、カフェレストランの経営をしていたから、品川団長も悪く言いようがなかっただけだ。 自分がどうこうというのではない−−−−と由眞は思っていた。 「来月から、土曜日もお仕事入るようになったんです。その代わり平日休めるので、平日はレストランのお手伝いをしようと思ってます」 「そうなのか。まぁ、もともと、穂村さんの手伝いがしたいって言っていたからね。止めようがないけど、身体は大丈夫そう?」 「大丈夫です。アルバイトのかけもちとかもしたことありますし、体力はあるほうなんですよ」 「バイトのかけもち? あの弟のため?」 「あ、それも、なくはないんですが大学の奨学金を返さなきゃいけなかったんで」 「……奨学金か……大変だったんだな」 「私なんて全然。お婆ちゃんや伯母さんたちのほうが……」 由眞は苦笑する。 「急にお爺ちゃんが亡くなって、レストランを継がなきゃいけなくなって……大変だったと思うんです。それは今のほうが……大変だと思うんですが。お婆ちゃんが入院しちゃっているから」 「……そうだね……」 「……私は大丈夫なんですけど、やっぱりお婆ちゃんが心配で……退院してきても、高齢にはかわりないですし」 「でも、高齢だからって、何もしてないよりはいいって言うしね……難しいところだね」 「それもそうなんですよね……」 由眞はため息をついた。 「穂村さんたちにも、きちんと挨拶しなくちゃいけないな」 「……あ……それはそうかも、しれないんですけど……」 「知らんぷりってわけにはいかないだろ、由眞ちゃんに一番近い人たちなんだし」 「相手が赤坂さんなんで……喜んでくれると思うんですけど、喜ばせた分、後でがっかりさせちゃうなって思うと……悪くて」 由眞には色んな心労をかけてしまっているな、と柊吾は思っていた。 一年だけ、などと言って騙しているが、柊吾は一年後に契約結婚を解消する気など、さらさらなかった。 ふたりで過ごす時間があれば――――由眞がこちらを見てくれるかもしれないという期待をしている。 いや、期待ではない。必ず、彼女を手に入れたい。そんなふうに柊吾は思っていた。 (僕は、愛することも愛されることもよくわからないけれど、彼女がいなければ駄目だっていう気持ちは、あの頃から変わらない) シロツメクサの花畑。 人生の中で言えばほんの一瞬の出来事だ。だけど、あの瞬間の彼女の笑顔に、心が囚われてしまっている。 ずっとずっと――――好きだった。 再会したらそう言おうと決めていたのに、どうしてこうなってしまったのか。 (あのときから、今までで……好きになったのは彼女だけだ……) 思い出が美化しているだけか、と思う時期もあった。だが実際に逢ってしまえば、心の奥でくすぶっていた小さな火が、一気に炎へと変化し燃え上がった。 執着心。自分がそんなものを持ち合わせているなんて、思ってもいなかった。 ブルーインパルスのことだって、彼女が憧れていると言ったからこそ、死にものぐるいで訓練をこなし、成績を残して選抜されるに至った。 「ごめんなさい、余計なこと言いましたね」 由眞が弱々しい声でそう言った。 「え?」 今、なんの話をしていただろうか? 由眞のことばかり考えていたから、すぐに思い出せない。 「ごめん、ちょっと車停めてもいいかな」 運転していることもあって、考えがまとまらなかった。 ――――こんなこと、訓練しているはずなのに。 同時に複数の行動をするという訓練も、勿論していた。慣れているはずだった。だけど、相手が由眞だと、どうも思い通りに自分を動かせない。 路肩に車を停めて、ハザードランプを点滅させた。 「すまない、由眞ちゃんのことを考えてしまっていて……それまでって何の話をしていたかな?」 「えぇ?」 由眞は目を丸くさせていた。 「いや、ですから……結婚の挨拶をお婆ちゃんにしても、一年後には別れちゃうから、なんだか……ぬか喜びさせちゃうなってことを話していて、なんで突然私のことを考え始めるんですか?」 「うん、そうだよね……変だよね」 「……変かどうかは、わからないですけど……私は、赤坂さんが気を悪くしたから、黙り込んでしまったのかと思いましたよ」 「ごめん、それは全然ないよ。気を悪く? 僕が由眞ちゃん相手にそういう感情を持つことはないよ」 「え? でも実際……」 「黙ったのは、本当、君のことを考えていたからで」 「本当……ですか?」 疑わしげな視線を彼女が向けてくるから、柊吾はハンドルに顔を突っ伏した。 「恥ずかしいな……まいった」 「え????」 本人が横にいるのに、昔の彼女のことを延々考えて、しかも彼女への想いに浸ってしまうなんておかしすぎる。 (脳みそバグってるぞ、僕) 「……大丈夫ですか? お疲れなんですね」 「疲れては……」 彼女の手が、柊吾の頭にふわりとのった。 よしよし。というように撫でてくる。 なんて心地良い感触なんだろう。ずっとそうしていて欲しいと、思うほどだった。 「ありがとう、由眞ちゃん」 「いいえ」 彼女は天使のような笑顔を、彼に向けた。 (あぁ、僕は本当に……彼女が好きなんだな) 改めて感じてしまった。 由眞はためらったけれども、柊吾の頭を撫でた。思った以上に髪の毛は柔らかくてさらさらだった。 すると彼は嬉しそうに笑う。 まるで幼い子供のようだ。普段の彼とは全く違う。 一体彼は、今、この瞬間、何を考えているのだろうかと由眞は思った。 頬をそっと撫でると、彼は掌に口付けてくる。 車内に甘い空気が流れていて、これではなんだかまるで――――本当の恋人同士みたいではないか、と思ったりもした。 (赤坂さんが何を考えているのか、わかれば楽なのに) どちらかといえば彼は喜怒哀楽が、はっきりしていない。 無表情に見えることのほうが多くて、何を考えているのかさっぱりわからない。 そして、突然おかしなことを言い出したりもする。 『黙ったのは、本当、君のことを考えていたからで』 謎すぎる。話の途中で、何を考えていたのだろうか。 勿論、彼が由眞の祖母たちを蔑ろにしているとは思っていない。 本当に彼の頭の中で、突然何かが切り替わってしまったのだろう。 ――――と、いうようにしか考えられない。 あいにく由眞はそういう芸当を持ち合わせていなかったから、理解出来ないのだけれども。 (私のこと……良いように考えてくれていたのかな) 面倒くさいとか思われていたら嫌だな、と思った。 岩谷のことはともかく、いつまでも小学校六年生のときの初恋を引きずっている女なんて、面倒この上ないだろうな、と思える。 ――――でも。 『わかんないの? 妬いてるんだよ。見たこともないその山口って男が、君の心に居場所を作っているっていうのが、許せないくらい嫉妬してるって』 ドキドキする。 彼はときどき由眞を混乱させる。誘惑する。胸がぎゅうぎゅう痛くなるような思いをさせる。 「――――キスする?」 彼はまた、突然変なことを言い出す。 「は、はい。し、します」 そして自分も、おかしいのだ。 一年しかない結婚生活だと、わかっているのに、本物の相手みたいに求めてしまう。 唇が軽く触れるだけの、短いキス。 あぁ、いけない。物足りなく感じてしまって、ちらっと彼を見上げてしまった。 柊吾は微笑んで、再び唇を触れさせてきた。 なんだってこの人の唇は、こんなに気持ちが良いんだろう−−−−。 キスをしたのは柊吾が初めてだったので、他と比べようがなかったのだけれど、いつまでも触れ合っていたいと、思ってしまっていた。
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