柊吾の部屋は、綺麗に整理されていた。 何年も主が不在だったとは思えない。埃っぽさもなく掃除が行き届いていた。 壁にはブルーインパルスのポスターが銀色のフレームの額縁に入って飾られている。 大きいのやら、小さいのやらがたくさんあって、彼が本当にブルーインパルスが好きだったのだなということがわかる。 「ブルーインパルスのぬいぐるみなんて、あるんですね」 透明のケースに入った小さなぬいぐるみが、飾られていた。 「あぁ、航空祭のときに売っていてね。その年の限定ものだったような気がする」 「航空祭にも、行っていたんですね」 「うん、行った方がいいって言った子が――――昔、いたから」 由眞は「へーえ」と言う。 「その人もブルーインパルスのパイロットを、目指している人だったんですか?」 「あー……いや、好きだっただけみたいだったけど……」 「そうなんですか」 「ぅわっ」 「え!」 急に柊吾が大きな声を出すものだから、由眞は驚いた。 「ど、どうしたんですか?」 「あぁ、いや……」 苦笑いをしている柊吾の視線の先には、小さな額縁に飾られているシロツメクサの栞があった。 「可愛い栞ですね。お母様が作られたんですか?」 「あ、あぁ。母に作ってもらった……んだけど……飾ってなかったはずなんだけどね」 「……そうですね、栞は使うものですよね」 「……そうだね」 柊吾は小さくため息をついた。 (……これは……戻ったらネチネチ聞かれるやつだ) 「……どうかしましたか?」 「なんでもないよ。降りようか」 「え? もうですか?」 「他になにか、見たいものでもあった?」 「そうですね、柊吾さんの子供の頃のアルバムとか」 「え? そんなもの見たい?」 単純に柊吾は思った。 好きな男のものならともかく、無理やり契約結婚を申し出た男の幼少期の写真なんてみたいものだろうか。 ……という柊吾の意図とは別に、純粋に見てみたいと思っていた由眞は、がっかりした。 「……すみません……そうですよね……私達って、アレですものね」 (アレ?) あぁ、契約結婚か、と柊吾は思った。 「んーっと、アルバムとかって母が管理しているんだよね。しかもデジタルで保存してるから、言えば喜々として見せてくれるとは思うけど、日が暮れる」 「そうですか、残念です」 (……残念? 見たいものなのかな……) 少し考えてから、柊吾は口を開く。 「小学校の卒業アルバムなら、この部屋にあったかも……」 「あ、見たいです」 (見たいんだ) 柊吾が机の引き出しを開けると、小学校の卒業アルバムがそこにあった。 「……写真ってあんまり好きじゃなかったから、クラス写真くらいしか写っているのがないけど」 ぱらりとめくり、自分のクラスのページを出して由眞に差し出した。 「小学校なのに、制服なんですね」 「私立だったから」 「ふふっ、可愛いですね」 「……そうかな」 「……なんだか、見たことがあるような……」 「えっ?」 柊吾は由眞があのときのことを思い出したのかと思い、ドキリとした。 「この制服見たことあります……近所だったのかな」 「あ、あぁ……制服か……確かに近所だったのかもね」 少し、がっかりしたが、思い出したと言われたら、自分はどう言い返せばいいだろうかとも柊吾は考えていた。 ――――ずっと大事に想っていたくせに、好きだと言わずに契約結婚を持ち出す男を、彼女はどう思うだろうかと考えた。 今、何か言われたら――――どう返事をすればいいだろう? 初めの頃は、彼女が覚えていないことを失望し、再会を喜び合えないことを残念に思ったりもしていたのに。 パタンと彼女は卒業アルバムを閉じた。 「みなさんお待ちですよね、戻りましょうか」 由眞はそう言って、卒業アルバムを返してきた。 「そうだね」 柊吾は安堵したり残念に思ったり、複雑な思いで卒業アルバムをもとに戻して部屋を出た。 ――――どうして。 由眞は思っていた。 (赤坂さんは、あのときの"お兄ちゃん"だ。あんな綺麗な子供、見間違えるわけない。あの写真は絶対あのときのお兄ちゃんなのに、なんで赤坂さんは何も言ってくれないの? ましてや、あのシロツメクサの栞。赤坂さんは私に見られたくないものだった? なんだか、よくわからない――――) 大広間に戻ると、舞子が満面の笑みで由眞を迎える。 何かを期待してそうだったが……。 (何も、ないですよ。お母様) 由眞は仕掛けたのは舞子だと思った。飾ってあるはずのないシロツメクサの栞に、柊吾が動揺していたのだから。 (何故、お母様はシロツメクサの栞をわざわざ飾ったりしたのかしら……私にとってはあのときの"お兄ちゃん"は助けてくれた恩人だけど、赤坂さんにとっては、なんてことない思い出のはずなのに――――それに大事なことなら、言ってくれるはずだわ) では、何故、わざわざシロツメクサの花を栞にして持っているのか? (……わからないわ……) 色々考えすぎて頭痛がしてきた。 「あら、由眞ちゃん、なんだか顔色がよくないんじゃなくて?」 舞子がそう言ってきた。 「少し、頭痛がして……」 「まぁ、それはいけないわ。鎮痛剤を用意させるわね」 「あ、お水だけで大丈夫です。自分に効く頭痛薬はお医者様に処方していただいて、持っていますので」 由眞は椅子に座らせてもらうと、ポーチから薬を取り出した。 舞子が命じて使用人が持って越させたお水と共に、由眞は薬を飲み込む。 その様子を冬樹が見ていた。 「由眞さんは自分に効く薬を、把握しているのかね?」 「こうみえて、私、薬剤師なんです」 「ほぉ」 冬樹は驚いた様子を見せた。 「大変だったろう。薬剤師になるのは」 「……両親が薬剤師だったので、その道しかわからなかっただけです」 「それは……柊吾と似ているわね」 舞子が言うと、冬樹は首を振った。 「柊吾とは違う、彼女は何の援助もなく、薬剤師になったのかと思うと……そうかそうか……大変だったろう」 「……あ、その……」 たしかに冬樹の言うように、薬剤師になるのは簡単なことではなかった。 親の援助を得られず、奨学金で大学で学ぶには並々ならぬ苦労があった。 生活費や奨学金の返済のためのバイトと、勉強の日々。 キャンパスライフを謳歌する、という余裕などなかった。 「……ありがとうございます」 自分の親でさえ無関心だったことを、柊吾の父親が理解してくれたことに感動を覚えた。 そして、また、そんないい人を契約結婚と知らせず、普通の結婚をすると紹介され、騙しているのかと思えば気持ちが沈むばかりだった。 「柊吾、由眞さんが体調悪そうだから、今日は泊まっていったらどう? 明日もお休みなんでしょう?」 気落ちしている由眞を見て、体調が悪いのかと思った舞子がそんなことを言う。 「だ、大丈夫です」 「遠慮しなくていいのよ、由眞さんは私の娘になる人なのだから」 優しくされればされるほど、胸が痛む。 涙を堪えるのは得意だった筈なのに、堪えきれず涙が出る。 「……由眞ちゃん……」 「すみません……」 舞子が優しく言う。 「いいのよ、泣きたいときも、笑いたいときも、辛いことを乗り切るときも、家族ですもの、いつも一緒よ。そして何も恥じることはないわ」 「……お母様、お言葉に甘えたいところなんですが、ホテルをとってあるので、すみませんが、今日はそろそろこの辺で失礼させていただきます」 「あら、そうだったの。ちゃんと由眞ちゃんのこと、気遣ってあげてね」 そうして由眞は赤坂家とお別れをして、柊吾と共に今晩泊まるホテルへと向かった。
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