「……すみません、ホテルに泊まる予定なんかなかったですよね……私がうまくやれなかったから……」 「え? 一泊するって言ってなかったっけ?」 柊吾がサラリと言う。 「え? 聞いてませんけど」 「そうだったかな。だって君の両親にも挨拶に行くだろ?」 「……うちはいいです、電話で連絡しておきますから」 母が値踏みするように柊吾を見るだろうということを考えると、由眞は到底その場の空気に耐えられる気がしなかった。 「それでいいのかい?」 「……はい。逆にそのほうがいいです」 「じゃあ、結婚の報告は由眞ちゃんにお任せしようかな」 ベルボーイが部屋に荷物を置いて、部屋を出ていく。 由眞が今まで見たことのない広さの部屋だった。 いわゆるスイートルームという部屋だ。 「あ、あの……赤坂さん……」 「休みの日はゆっくりしたいじゃない? なんだかんだ理由をつけて、泊まって行けって言うと思っていたんだよね。母は」 「だったら、お部屋をもうひとつとってもらってもいいですか? 私と一緒じゃ、ゆっくりできないでしょう?」 「またつれないことを言うね」 「な、なんでだと思っているんですか」 「なんで?」 柊吾が身をかがめて、視線を由眞に合わせてくる。 「……あ、の……っ」 シロツメクサの栞の話を、自分から言い出すのは嫌だと思えた。 助けてもらったのは、自分のほう。 大事な思い出になっているのは、自分のほうだけだ。 (きっと、シロツメクサの冠を持って帰って困っているところに、あのお母様が栞にしてくださっただけで) 由眞は、ふいっと視線を外した。 「じ、自衛官の人は、私……苦手ってご存知ですよね」 「別に、いかがわしいことなんかしないよ?」 「そっそういうことを、言っているんじゃなくて−−−−」 「由眞ちゃん」 「なんですかっ」 「十秒以内に視線を戻さないと、酷い目に遭うよ」 彼は、そんな物騒なことを言った。 「酷いってなんですか」 由眞が顔をあげると、柊吾が口付けてきた。 「!!?」 驚いている由眞をよそに、彼は魅惑的な笑みを浮かべる。 「逃げないんだ?」 「……ほんっとに、赤坂さんって、酷い人ですよねっ」 「そろそろ柊吾でいいと思う」 彼は由眞を、そっと抱きしめてくる。 彼女の首筋にかかる髪の毛をかき上げ、例のホクロにも口付けた。 「ち、ちょっ、いかがわしいことしないって、さっき言いました!!」 「ん……そんなこと、僕は言ったかな」 「言いましたぁ!」 彼の唇が、首筋を這い回っていてむずむずする。由眞が逃れようと後ろに下がると、ソファにぶつかり、そこに押し倒される形になってしまった。 (ひぃいいいいいっ) 「柊吾って呼んだら、止めてあげてもいいよ」 「ま、またそのパターンですか!」 「こうでもしないと、由眞って僕のことを、名前で呼ばないじゃないか」 などと、彼は耳元でボソボソと呟く。 「よ、呼び捨てって……ずるい」 何故だか、胸がきゅっと切なく痛む感じがする。 ただ、呼び捨てにされただけなのに。 「由眞」 彼は嬉しそうに名前を呼んで、耳たぶを噛んでくる。 以前は噛んでみたいとか言っただけなのに、今度は実行してきた。 「ひゃあっ! や、めっ、止めてくださいってば」 「止めてほしいときは、どうするんだっけ?」 「柊吾さん!!」 「よろしい」 彼は身体を起こし、腕を上にあげて伸びをした。 その後、由眞の身体を柊吾が起こす。 「これ、もしかしてずっと続くんですか?」 「これって何?」 「私が、赤坂さんのことを」 「おっと?」 彼は舌なめずりをする。綺麗な顔なので、そんな物騒な表情も美しく見えてしまう。 「しゅ、柊吾さんっ」 「はいはい」 「え、あ、あの……ちょっと、しゅ、柊吾さん?」 彼はいつの間にかソファに寝転び、座っている由眞の膝の上に、頭を乗せていた。 「今夜は夕飯何を食べる? 疲れちゃったから、ルームサービスで済まそうか」 「そういうこと、のほほんと言ってる場合ですか。なんですか? この状況は」 「由眞ちゃんに、膝枕してもらっている」 ――――呼び方が、戻ってる。 残念に思っているわけではないけれど、この使い分けはなんだろうかと彼女は思う。 「……勝手に?」 由眞が恨みがましく言うと、柊吾が艶のある笑顔を向けてくる。 「承諾が必要だったかな?」 「……い、いると思います」 「じゃあ、膝枕して欲しいな」 断る理由がないので、結局承諾してしまう。 「ど、どうぞ……」 「由眞ちゃんの膝枕って、柔らかくて気持ちいいね」 柊吾がうとうとしているように見えたので、由眞は彼に寝るよう促した。 「お疲れでしょう? 少しベッドで寝てはいかがですか?」 「……由眞ちゃんも一緒なら、ベッドで寝てもいいよ」 「な、何を言ってるんですか」 「だよね」 彼は、ふふっと笑った。 「何か食べよう。お腹すいただろう?」 ムクリと身体を起こしながら、柊吾が言う。 (赤坂さんって、やっぱり何を考えているのか、わからないところがあるのよね……) 初対面のときからずっとそうだ。 距離の取り方が、ちょっと人とずれていて、こんな自分を契約結婚の相手に選ぶし、三千万の寄付金もポンと出してしまう。 いや、彼の行動の中で、理解できたことなど今まであっただろうか? と由眞はこれまでのことを振り返って考えてみた。 (……ない、わよね。本当、不思議な人) だけど、自分を助けてくれる人。 これ以上ないというほどのピンチから、救ってくれた人。 「料理が来るまで、ワインでも呑む?」 彼はワインが八本入っている、ワインセラーを覗き込みながら言ってくる。 「いえ、私はアルコールを呑むのは止めておきます。また醜態を晒したくないので」 そんな風に由眞が言うと、柊吾は微笑んだ。 「いいんじゃない? 呑みたくないなら別だけど、酔っ払った由眞ちゃんも可愛いよ」 「可愛いとか、可愛くないとか、そういう問題じゃないです」 「僕は、由眞ちゃんを酔わせたいなぁ」 こちらに投げかけてくる視線が、いちいち艶っぽくて困る、と由眞は思う。 「……一杯だけなら……お付き合いします」 「そうこなくちゃ」 柊吾は嬉しそうに微笑んだ。 ワインの栓を抜き、ワイングラスに注ぐ。 琥珀色の液体が綺麗だ。 「ちょっと変わった母で、ごめんね。うち、子供が三人いる割には娘がいないから」 「でも、義理の娘さんなら、もうおふたりいますよね?」 「いかにも医者の奥さんって感じで、つまらないんじゃない?」 「――――つまらないって……」 「喜怒哀楽がはっきりした人間が好きなんだよ。あいにく息子たちはそういうようには、育たなかったし」 「……まぁ、そうですよね。あかさ……柊吾さんも、わかりにくい感じしますし」 「そう? 君に対してはわかりやすく接しているつもりなんだけどな。はい、乾杯。今日はお疲れ様」 ワイングラスがチンっと音を立てる。 「いただきます」 一口呑むと、ふわっと果物のいい香りが口いっぱいに広がる。 そしてジュースのように口当たりが良くて、呑みやすい。 「あ、美味しい」 「そう、よかった。由眞ちゃんの好みにあって」 (呑みすぎないように、気をつけなくちゃ) ――――と、思っていたのに、本質が酒好きなのか、由眞は注がれるままに呑んでしまう。 「……柊吾さんってぇ、本当は、どんな女性が好みなんですか?」 サーモンのマリネをひとくち食べてから、由眞は聞いた。 若干舌足らずな口調になっているのは、お酒のせいだ。 「本当はって何? 僕の好みは由眞ちゃんだよ」 「ご冗談を」 「本当だって。触れたいのも、触れられたいのも、由眞ちゃんだけだよ」 柊吾が由眞の手を握ってくる。 ソファに横並びで座っているから、距離が近くて体温を感じる。 (彼は上手に嘘をつくなぁ) 一年後のことなど、まるでないような錯覚を起こさせる。 由眞がそっと彼の肩に頭を寄せると、柊吾が口付けてきた。 「……今日、キスの回数、多くないですか?」 「制限、あった方がいい?」 「そういうこと、聞くのは……ずるい……です」 また口付けされる。 (この人の唇って、本当……気持ちいいなぁ) ぼんやりしていると、彼が何か言った。ボーっとしていたので聞き取れなかったので首を傾げると、柊吾は咳払いをひとつしてもう一度言った。 「シャワー浴びてくる?」 「……シャワーですか?」 「一緒に浴びるのでもいいけど……」 「何を言ってるんですか、一緒にシャワーとか……えっちですね」 「……うん、まぁ、そうなんだけど」 ぼんやりした頭でも、由眞はひとつの答えに辿り着いた。 ――――これは、もしかして。 「こ……婚前交渉はオッケーなんですか?」 「由眞ちゃんが嫌ならしないよ」 彼の言葉で完全に理解した。これは"誘われている"のだと。 由眞は少し考えてから返事をする。 「……柊吾さんが、どうしても……って言うなら、し、してもいいです」 そんなこと、言える立場ではないのに、と由眞は言ってから思った。 ちらっと彼を見ると、柊吾は微笑んでからキスをしてきて、そっと耳元で囁いた。 「どうしても、抱きたい」 あぁ、駄目だと由眞は思った。お酒と彼の誘惑でクラクラする。 腰が砕けたようになってしまって、シャワーを浴びるために立ち上がれそうにない。 (で、でも、する前って……シャワーを浴びるのよね。汗の匂いとかしたら、嫌だし) 頑張って立ち上がろうとして、結局足がもつれ、柊吾に倒れ込んだ。 「洗ってあげようか?」 「ぜ、絶対、嫌です……恥ずかしい……」 「僕は、このままでもいいけど」 「私は嫌です」 「わかった、じゃあ、バスルームまでは運ぶよ」 そう言って柊吾は軽々と由眞を抱き上げ、バスルームに運んだ。 「……さっと汗を流しておいで、倒れそうじゃない? 大丈夫」 「だ、大丈夫、です……」 「そう、扉の外で待ってるから、何かあったら壁を叩くなりして呼んで」 いつの間に持っていたのか、ミネラルウォーターのペットボトルを洗面台に置いて、彼は扉の向こうへと消えていった。 (そういえば、喉、乾いてたな……) 柊吾が用意したミネラルウォーターを口にして、由眞は服を脱ぎ始めた。 (……本当にいいのかな……) 契約結婚の中に性交渉が含まれているとは、考えてなかった。 多分、自分が嫌だと言えば、彼はしないのだろうけど、柊吾は相手が自分でいいのだろうか? と考えてしまう。 いい、とは言ってしまったものの、由眞は不安に襲われる。 (ど、どうしよう……私……二十八歳だけど……初めてだし……きっとうまくできない) そもそも、なんでいいなんて言ってしまったんだろう。 いや、彼はどちらでもいいように言ってくれたが、拒否権など由眞にはない。 彼にそのつもりがなくても、三千万は由眞を自由にしてあまりある金額だ。 (か、覚悟しなくちゃ) ふらふらとバスルームから出て、身体を拭く。 洋服はもう一度着るべき? それともこのふかふかなバスローブを着るべき? と由眞は悩む。 そういえば、外で待っていると柊吾が言っていたのを思い出す。 コンコンと扉を叩くと「どうしましたか?」と返事がくる。 「あ、あの……つまらない質問なんですけど、お風呂上がりに服を着たらいいのか、バスローブを着たらいいのかわからなくて」 やや沈黙があった後「バスローブがいいと思うよ」と彼からの返事があった。 「ありがとうございます」 由眞は肌触りの良いバスローブを羽織り、脱いだ洋服を手に持って、バスルームを出た。 「まだ、ふらふらする?」 「さっきほどじゃないです」 「――――ふらふらするってことだね」 また彼は由眞を抱き上げ、今度はベッドルームに運んだ。 「僕もシャワー浴びてくるから、ここで待っていて」 「……はい」 チュッと短いキスをして、柊吾はベッドルームから出ていった。 すっかり日が落ちていて、窓からの夜景が綺麗だった。どのくらいの時間、呑んでいたんだろう。他愛もない話をしてワインを呑んで、ご飯を食べたりして−−−−。 (……よくわからないけど、普通の恋人同士っぽくない?) キスもたくさんした。 柊吾から契約結婚の話を聞いたとき、もうちょっと距離があるものだと思っていた。プライベートでは偽物は偽物らしく、振る舞うものだと思っていた。 それなのに、プライベートのときのほうが、彼はべったりで――――嘘と本当の境目がわからなくなる。 今夜も、そうだ。 抱きたいなんて、言い出したりして。 由眞は持っていた洋服をソファに置いて、ベッドの上に腰掛けた。 今夜ここで彼に抱かれる――――? ソワソワと、落ち着かない気持ちにさせられた。 (あぁ……どうしよう……私ばかりが、彼を好きになってしまいそう) 別れることが前提の契約結婚なのに、何故彼は距離を縮めてこようとするのだろうか? シロツメクサの思い出は――――。 (もしかして、私って、わかっていないのかな) 栞が飾られていておかしな反応を彼がしたのは、単にお花の栞が飾られているのが恥ずかしかっただけで、意味などなかったのかもしれない。 自分は彼の小学校の写真を見たからわかったけれど、彼がわかる要素はない。 (……そうよね、たった一日の出来事だもの……忘れて当然だわ) 自分だって、最近まで忘れていたのだから。
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