「いってぇ」 緊張のせいか、洗面台の角に足をぶつけた。 ――――まったく、らしくない。こんなに注意力が散漫になるなんて初めてだ。 柊吾は深々とため息をついた。 早くベッドルームに行かなければ、由眞が待っている。 (どんな気持ちで待っているのかな……) 怖がっているだろうか? (……やばい、それ以外思いつかない) シャワーを浴びて少し冷静になったら、急に由眞が不憫に思えてきた。 なんだかんだ言っても、彼女は三千万のことは気にしているだろうし、出資者の希望に沿うようにするのは、皆、そうだろう。 彼女がいいと言っても、それは本心からのいいではない。 (僕は……駄目だな) 由眞を両親に逢わせて、いよいよ結婚が近いと思った途端、歯止めが効かなくなる。 彼女のすべてが欲しいだなんて、再会したときから思ってはいたけれど、それは由眞からしたら、何もかもが突然すぎる話だろうと、柊吾は考えた。 (彼女に三千万のための犠牲とか……思って欲しくない) 三千万、イコール弘貴《おとうと》。 (弟のために、犠牲になったなんて思われたくない) 求めるのは性急過ぎたと、柊吾は思った。 冷蔵庫からオレンジジュースを一本とミネラルウォーターを一本持って、由眞が待つベッドルームに柊吾は向かった。 ベッドルームは電気が消され、真っ暗だった。 カーテンも閉まっている。 テーブルに置いてあったであろうランプの明かりも消えていて、柊吾は目が慣れるのに時間がかかった。 「……由眞ちゃん?」 「は、はい」 目が慣れてくると、彼女がベッドにちょこんと腰掛けているのが見えた。 柊吾は小さく笑って、部屋の明かりをつける。 「オレンジジュースでも飲まない?」 由眞は驚いた顔をしていた。 「あ、あの……」 早く終わらせてしまいましょうよ。と彼女の顔に書いてある気がして仕方ない。 (やっぱり、今夜は止めておこう) 自分に抱かれることを、不幸な思い出になんてして欲しくなかったから、柊吾はそう決めた。 「……さっきの、ごめんね。嘘だから」 柊吾が言うと彼女は、キョトンとした顔をする。 「え……あの、嘘って?」 「あー……、その、抱きたいって話。だから」 「興ざめしましたか? 私が、何を着ればいいかとか聞いてしまったから? 部屋を暗くしてしまったから?」 「いや、そういうのではないよ」 「じゃあ、急に、どうしてです?」 由眞は困ったような表情で、柊吾を見上げた。 「……まだ、そういうタイミングじゃないと思った」 「……じゃあ、いつがそういうタイミングなんですか? もしかして、私、ずっとこんなふうに、気持ちを弄ばれるんですか?」 「え? あ、いや、弄んでいるつもりはないよ。もしそう思ってしまっているなら誤解だよ」 「大事なことなので、意見……ころころ変えないで欲しいです」 「……大事なことだから、意見を変えたんだよ。三千万を盾に無理やりみたいだなって思ったから」 由眞はしばらく柊吾を見つめてから、頬を赤く染めた。 「……や、やっぱり、柊吾さんって不思議な人です。タイミングがどうとかって、理由を探しているなら、さ、三千万を盾にしたっていいじゃないですか」 「僕が、それ、嫌なんだよね」 「……なんですか、それ」 「三千万を出したから、由眞ちゃんに抱かせろって、言っているみたいじゃない?」 「そ、それは……」 「逆に聞きたいんだけど」 「何でしょうか?」 「三千万の件がなかったとして。それでも、由眞ちゃんは僕に抱かれたい?」 「なっ……」 由眞は顔を真っ赤にさせた。 この人は、人をバスローブ姿にまでさせておいて、何を言い出しているのだろうかと彼女は思う。やっぱり不思議な人だ。 「さ、さっき、柊吾さんが私を抱きたいって……」 「それは僕の意見だよね? 由眞ちゃんはどうなのかなって、思うよね」 「い、今更ですか!」 「うん。由眞ちゃんが嫌なことはしたくない」 「だから、柊吾さんが――――」 「僕の気持ちじゃなくて、今度は由眞ちゃんの気持ちを聞いているよ?」 「……意地悪……」 由眞は耳まで赤くして呟いた。本当にこの人は不思議な人で、難解で――――優しい人だ。 今まで、自分の意見なんて気にしてくれた人なんかいなかった。 いつも弘貴《おとうと》が最優先で、自分の気持ちを考えてくれる人なんていなかった。今だって、本当は彼の自由にしても、由眞は文句など言いやしないのに。 「……由眞ちゃん」 彼の唇が額に触れる。 ――――偽りでも何でもいい。それでも、私はこの人に抱かれたい。 由眞は勇気を振り絞って、今の思いを口にした。 「わ……わ、私は、柊吾さんに……抱かれたい、です」 「……良かった」 彼は心の底から安堵したようにそう言って、由眞を大事そうに抱きしめた。 由眞も柊吾を抱きしめ返す。 温かい人の体温と、逞しい身体。優しい声や、その指先は、溺れるには十分だった。 (好きだとか、愛しいとか、思っちゃいけないのに) 偽りであっても彼の唇から溢れる「愛している」の言葉は、切なくもあり、嬉しかった。 「……今夜はここまでで、止めておく?」 「……ダメです、ちゃんと……してください」 「だって、由眞ちゃん、泣いているから」 「これは、放っといてください。勝手に出てるものなんで」 由眞は眦に溜まった涙を拭う。 「……これ以上は、止められなくなるよ?」 「……いいです」 薄暗い部屋のベッドの上で、柊吾は由眞の全身を大事そうに愛撫する。 (柊吾さんの……唇が……) 由眞の下腹部に触れる。腰が砕けてしまいそうな甘い快感が広がっていく。 「ん……ふ」 舌先が触れれば、身体がひくりと跳ねた。 (頭、ぼーっとする……なんだか、柊吾さんが触れてくれるとこ、全部気持ちよくて) 身体がとろとろに溶けていって、内側の熱であの部分が濡れているのが由眞にもわかった。 彼の指がそこに触れ、差し込まれても意外とすんなり受け入れられた。 ちゅぷっと妙な音がする。 (……最初は痛いって聞いてたけど……そうでも、ないのかな……すごい、ぬるぬるしてて変な感じ……) 「……大丈夫そう?」 「……はい、多分」 彼が身体を起こし、がさごそと何か動く気配がした。 「……ふー……全然、余裕ない感じ、由眞を抱けるのかと思ったら」 「……あの……私、何かしたほうがいいですか?」 「ふふ、今夜は何もしないで、僕に余裕がないから」 チュっと短いキス。 彼は由眞の顔の横に腕をついて、ゆっくりと身体を動かした。 由眞の身体の中に、柊吾の身体が挿入されてくる。 「んっ……」 「由眞、好き……凄く、好きだよ……」 「わ、たし……も、好き……」 「うん」 指よりも硬くて大きなものが、入ってきている。彼がゆっくり動くから、尚更、意識してしまう。 「……変な感じ……なんだか変な、感じ……」 「痛い?」 「少し……で、でも……」 「うー……ん?」 「……っ」 柊吾がじっと由眞の顔を見つめていることに気が付いて、身体が熱くなった。 「か、顔、見ないでください……」 隠そうとすると腕を掴まれる。 「由眞がどんな顔をするのか、見ていたいんだよ……僕に抱かれて」 「恥ずかしい……」 「うん、そうだね、そういうコト、しているからね……僕たち」 由眞の心臓が大きく跳ねる。 艶のある声で、なんだかやらしい台詞を吐かれると、頭の中がおかしくなってしまいそうだと由眞は思った。 ましてや彼は、その綺麗な瞳でじっとこちらを見ているから、いつも以上に艷やかな色っぽい瞳で見てくるから、心拍数がどんどん上がっている気がしていた。 「う、う……っ」 「泣きそうな顔……どうして? やっぱり……痛い?」 「柊吾さんが……見つめてくるから……」 「そんなに……見られるの、嫌?」 ぼそぼそと彼が耳元で囁いてくる。そんな声もいつもとは違うから、胸がきゅうっと切ない痛みに襲われる。それが触れ合っている部分への快感に繋がる。 「あ、や……もぉ……」 「ふふ……可愛い……由眞」 ぐぐっと腰を押し付けられる。 「んんっ」 「……っ、は」 裂けると思った次の瞬間には、彼の腰が由眞の腰にぴったりと重なっていた。 「あ……ぁ……柊吾さん……」 「大丈夫?」 「う、ん……うん」 「ふ……由眞」 背中に腕が回ってきて、由眞は柊吾にぎゅうっと抱き締められた。 繋がっている部分が熱い。 (私……柊吾さんに……抱かれてる) もう二度と会えないと思っていた、シロツメクサの男の子。ひたすら優しい思い出――――その人が今ここにいて、自分を抱き締めている。 (嬉しい……こんなに傍に……いる) 由眞も彼をぎゅうっと抱き締めた。 「……由眞」 「どうにか……なっちゃいそう……です」 「いいよ……」 彼の穏やかな律動に、由眞は身体を反らせた。 「んー……ぅ……は、ぁ」 快楽の波に、ふるふると彼女の身体が震える。 その快楽は痛いような、くすぐったいような不思議な感覚だった。 ゆったりと動く彼に身を任せて、由眞は知らなかった感覚を身体に刻む。 柊吾の甘い吐息も、逞しい肉体も、由眞を溺れさせるには十分だった。 「く、ふっ」 「……由眞、愛してる」 甘ったるい彼の囁きに、知らなかった快感が、ぱちんと大きく弾けた。 「…………柊吾、さん……す、き」 「――――うん」 偽物の結婚なのに。 違うのに、そんなんじゃないのに。彼が優しすぎるから……。 困ってしまう−−−−。 「身体、大丈夫?」 柊吾の手が由眞の頭を撫でる。 「……は、い、多分……」 「喉、乾かない?」 「……お水、欲しいです」 「ん」 彼はベッドの傍にあるミニテーブルに手を伸ばし、ミネラルウォーターを取った。 ぺき、と軽い音がする。柊吾がキャップを外した音だ。 「身体起こせる?」 「は、はい」 ミネラルウォーターのペットボトルを渡されて、由眞は喉の渇きを癒した。 「ふは、お水……美味しいです」 「そう」 薄暗かった部屋が、ミニテーブルのランプがつけられたことでぼんやりと光りが行き渡り、お互いの顔がはっきりと見えるぐらいの明るさになっていた。 (ん……は、恥ずかしいな……) 由眞は掛け布団を胸の上まであげて、可能な限り自分の肌を隠した。 柊吾は黙って由眞を見つめ続けている。 (そ、その視線も……恥ずかしい……) 「寒くない?」 彼はそんなことを言いながら、彼女の肩にバスローブをかけた。 空調がきいているので寒くはない。 「……ありがとうございます、寒くはないです……柊吾さんは?」 「僕は暑いぐらいかな」 「あ、お、お水、どうぞ」 由眞は自分が手にしていたペットボトルを彼に渡す。 「うん、もらおうかな」 彼女の手からミネラルウォーターのペットボトルを受け取り、柊吾は水を飲んだ。 (ひゃあ、間接キスだ) なんて、今更照れるところかと思いながらも、由眞は頬を赤く染める。 「ん? どうかした?」 彼の長い指先が、由眞の頬に触れる。 「熱いね」 「な、何も……大丈夫ですから」 「そう?」 柊吾が口付けてくる。短いキスの後、彼は微笑んだ。 (あぁ……私、この人に……抱かれたんだなぁ……) さきほどまでの快楽がまだ身体に残っているようで、その甘ったるい感覚に頭がぼうっとしていた。 身体が熱っぽく、心の中もじんわり温かい感じがする。 (なんだろ、凄く、今……幸せ、かも) ただの契約結婚で、これはその延長線上のことなのに−−−−と考えながらも、由眞はこの瞬間の幸せを、くすぐったい思いで味わっていた。
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