☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 挙式後――――本来、新婚旅行のためのブライダル休暇がとれる筈だったが、大規模なスポーツのイベントが東京で行われるため、ブルーインパルスの隊員はそのイベントを盛り上げるため、飛行することになっていた。 弘貴たちは予定通り渡米した。 「柊吾くんが戻ってきたら、新婚旅行に行くんでしょう?」 皆子が由眞にお茶を出しながら言う。 ブルーインパルスの飛行がテレビで放映されるため、皆子の家に親族(といっても祖母と由眞だが)一同集まっている。 「新婚旅行は遠慮したんです。行きたいところもないし……柊吾さんの休暇中は家でのんびり過ごしてもらおうかと思って」 「のんびりするといい。ひ孫の顔が見られるのも近いかのぉ」 ほほほと祖母が笑う。 検査の結果異常がなかったため、祖母は退院してきていた。 「お、お婆ちゃん!」 (そんな期待されても困る!) 何と言っても、契約結婚なのだから、妊娠なんてもってのほかだ。 「弘貴たちも、無事渡米したし、あとはドナーが見つかれば安泰だね」 「そうね、弘貴くんのことが落ち着けば、礼子も少しは大人しくなると思うし」 と皆子が言う。 大人しく、と言うのは金銭面のことだ。 「渡米の際、柊吾くんが餞別で随分な金額を振り込んでくれたって、礼子《あのこ》が喜んでたけど……なんだか、申し訳ないねぇ」 「……柊吾さんの厚意だから……お婆ちゃんは気にしないで」 「ほらほら、話はそのくらいにして、飛び立ったわよ」 皆子の言葉にテレビを見ると、画面には六機のブルーインパルスが飛んでいる姿が映し出されていた。 スモークを出して飛んでいる姿は圧巻だ。 興奮して見ている皆子や継彦をよそに、由眞は心配で堪らなかった。 (五番機……柊吾さんの機体よね……) 見ていて、派手なアクロバット飛行をすればするほど、由眞の心臓は破裂しそうだった。 (落ちたりしないわよね……大丈夫よね? でも) 呼吸が早くなり、息苦しくなってくる。 息を吸っているのに、吸えてない感じがして苦しい。 (あのブライダルスタッフの人は……あの人自身の意思であんなことをしたんじゃない。誰かに言われて……だとしたら、飛行機にだって細工を……?) 「由眞、どうした? 大丈夫かい?」 祖母が声をかけてくるが、息苦しさが収まらない。 「息……できな……」 祖母の手が由眞の背を撫でる。 「ゆっくり、ゆーっくり息を吐くんだよ」 過呼吸を起こしていた由眞に、祖母は優しく声をかけ、呼吸を整えさせる。 「大丈夫、なんも心配することはないよ」 「お、ばあちゃ……」 「ほれ、息を吐いて、吸って……ゆーっくりだよ」 そうこうしているうちに、由眞の状態が落ち着いてくる。 「由眞ちゃん、お水飲む?」 皆子がコップを差し出してくる。 「……ありがとう、皆子伯母ちゃん」 「大丈夫かい? 由眞」 祖母が話しかけてくる。 「……うん……ごめんねお婆ちゃん、ブルーインパルスの展示飛行殆ど見られなかったね」 「録画してあるから大丈夫だよ。由眞姉ちゃん、あとで柊吾さんと一緒に見なよ。カッコよかったよ」 継彦が言う。 イベントの展示飛行は、無事終わったようで由眞はホッとした。 (無事で良かった……) ――――一年が長い。由眞はそんなふうに思ってしまっていた。 契約結婚が終わるまで、心配は絶えない。 離れたいのに離れられない人。契約があるから、もう彼とは距離を置けない、逃げられない。 (一年後の私、どうなっているのかな) 最近そんなことばかりを、考えていた。 ――――その翌日。 松島基地内にある祖母のレストランカフェ・ミラノに出勤する日だった。 基地内には、自衛官用の食堂もあったが、レストランを利用する隊員も多かった。 「由眞ちゃーん。こっちコーヒー二つね」 「はぁい、今行きます」 接客業、とくに飲食業は居酒屋でバイトをしていたこともあり、得意だった。 「いやぁ、由眞ちゃん、可愛いし、テキパキしてるしお嫁さんにしたら最高だろうなぁ」 と、ある自衛官が言うと「あの子、人妻なんで、手出し無用ですよ」という声が頭の上から振ってきた。 「え、あ、平野隊長、本当ですか?」 自衛官が振り返ると、背がスラリと高い、柔和な人物が立っていた。 「ウチのレッドの奥さんだから。手ぇ出したら怖いよ、あいつ嫉妬深いからねぇ」 レッドというのは柊吾のことだ。 通常ブルーインパルス飛行中に呼ぶTAC(タック)ネームであるが、平野はその呼び名を気に入っていて、普段も柊吾をレッドと呼んでいた。 平野はブルーインパルスの隊長だ。 「そうなんですか? そんな風には見えないですけど」 ちょうどそこに由眞がコーヒーを二つ、持ってくる。 「コーヒー二つ、お待たせしました。あ、平野隊長、昨日はお疲れ様でした」 平野は朗らかに笑う。 「うんうん、ありがとう。うちの展示飛行どうだった?」 「……迫力ありすぎて、ドキドキしましたサクラとサンライズの飛行、格好良かったです。素敵でした」 (ん?) 平野は首を傾げた。 「キューピッドも良かったでしょう? 前にそれが好きだって、由眞ちゃんが言ってたって、レッドから聞いてるけど」 「あ、えっと……はい! キューピッドも良かったです。平野隊長は何をご注文されますか?」 「ピラフのサラダセットで」 「食後の飲み物は、いつものコーヒーで良かったですか?」 「うん。後からレッドも来るから同じものを」 「…………は、はい。わかりました」 由眞の笑顔が引きつったのを、平野は見過ごさなかった。 後からやってきた柊吾に「君たち、もう夫婦喧嘩しているの?」と平野が囁いた。 「え? していませんけど。東京から帰還してからまだ会ってもいないですし」 由眞は皆子の家から出勤していた。 「……お水、どうぞ」 由眞が恐る恐るやってきて、水を柊吾の前にそっと置いた。 「ちゅ、注文は平野隊長から聞いています。しょ、食後の、飲み物は……何にしますか?」 「コーヒーで、お願い」 「かしこまりました」 由眞はそう言うと、スススと厨房に消えていった。 (久しぶりに見たな。あの忍者のような動き) 自分は彼女に何かしただろうか? と考えてみるが、出発前の由眞は普通だったし、Lineも普通の受け答えだったように思えた。 「展示飛行のこと、褒められたけど、飛行課目がサクラとサンライズなんだよな」 平野が言う。 「……はぁ」 「そのふたつって、五番機入ってなくないか?」 由眞が持ってきた水を飲んでいた柊吾が、固まった。 「五番機が入っているキューピッドのことも聞いたけど、なんかはぐらかされたように感じたし……」 「あぁ……そうでしたか……じゃあ、彼女、五番機が入っている飛行課目は見てないのかもしれませんね」 「ん? なんでそう思う? 俺は夫婦喧嘩しているから、おまえを褒めたくないのかとばかり……」 「由眞ちゃんは、そういう子じゃないですよ」 柊吾はスマートフォンを出して、継彦にLineを送る。 『展示飛行中に由眞ちゃんに変わったことはなかった?』 端的に送ると、すぐに返事が返ってくる。 『展示飛行が始まってすぐくらいに、過呼吸になってました。あんな由眞姉ちゃん見たの初めてだったから、びっくりしました』 『教えてくれて、ありがとう』 一連の流れを見ていた平野が聞いてくる。 「誰にLine?」 「展示飛行をテレビで一緒に見ていた、由眞ちゃんの従兄弟です」 「ふーん? なんだって?」 「それが……なんていうか……昼休み中には話し終わりそうもないことで」 「それは、聞くなって意味かな?」 「いえ、聞いていただきたいんですが」 「じゃあ、仕事が終わったら話に付き合うよ」 平野はニッコリと笑った。 「ピラフのサラダセットおふたつ、お待たせしました」 由眞が手際よく、それぞれの前に料理を置いた。 一瞬柊吾と目が合ったが、彼女は少し困ったような笑顔を見せて、さがっていった。 (……多分、怖がらせてしまったんだろうな) ブルーインパルスの展示飛行は何度も見ているはずの彼女が、今回、過呼吸をおこしたというのは自分のせいだと思えた。 知り合いが事故に遭うかもしれないと思えば、直視出来なかっただろう。 (由眞ちゃんに、僕が操縦するブルーインパルスを見てもらいたいのに……) ブルーインパルスが一番好きだと、笑っていた彼女に−−−−。 その夜。柊吾は平野に事情を説明するため、基地近くのカフェにいた。 何故彼女が五番機の飛行が見られなかったか、について、柊吾は由眞の自衛官がらみでこれまで経験してきた話をして、心配で見られなかったんだろうと告げた。 「ライブ映像は過呼吸を起こして見られなかったそうなので、だいぶ心配をかけたと思います」 「……で、録画でもレッドの飛行は見られない……ってことか」 「僕自身、彼女に一番見て欲しいんですが」 平野が頷く。彼も妻帯者だ。 「そりゃあ、そうだろうな。次の航空祭に、由眞ちゃんは来られそうか?」 「本人と話をしてみます」 「そうだな、時間取らせて悪かった。早く帰ってやれ」 平野が伝票を持って、立ち上がった。 (……航空祭、どうだろうか。見てほしいとは思うけれど) 車のキーを取り出すと、ちりん。と、ブルーインパルスのキーホルダーの鈴が音を立てた。 家――――以前から柊吾が基地外で住んでいたマンションに、由眞の荷物を運び込んで引っ越しを済ませていた。 部屋も余っていたし、わざわざ新居に引っ越さなくてもいいという由眞の意見を取り入れた。 鍵を開けると見慣れた玄関に、由眞の靴がある。 それだけでも、柊吾は思わず微笑んでしまう。 (笑っている場合じゃないんだよな) 柊吾の帰宅に気付いた由眞が、リビングからやってくる。 「おかえりなさい」 彼女はぎこちなく微笑んだ。 「うん、ただいま。すぐに帰ってこられなくてごめんね」 「平野隊長とお話があったんですよね? それに――――私は大丈夫ですから」 大丈夫と言われると、やはり寂しい気持ちにさせられる。 「由眞ちゃんは、夕飯は済んだのかな?」 「あの……まだです……」 そういう彼女の顔色が、少しだけ悪いように思えた。 「体調でも悪いの? やっぱり、レストランと病院の勤務は辛いんじゃないか?」 「いいえ、それは大丈夫ですよ」 「病院の勤務は辞めてもいいよ? 君の弟にかかるお金は僕が出すし、君の生活の面倒だって勿論僕が−−−−」 「一年だけですよね? 私、無職になるのは……その、困ります」 『ずっとだよ』 言いかけて飲み込んだ。 もし、自分が一年だけと申し出た契約結婚を、ずっと続けたいと今言ってしまったら、彼女はどうするだろうか? (出ていってしまう気がする) 一年だからと言ったから、彼女は了承した。 一年の約束だから、彼女はここにいてくれている。 心配してしまうから、自衛官は嫌だと言っていた彼女をここに縛っていられるのは"一年"という期限があるからだ。 (まだ彼女は……僕を愛してはいない) 永遠を約束するには、早すぎると思えた。 「そう……だね。後先考えずに……ごめん」 「いいえ……話は変わりますが、柊吾さんは、お食事は済ましてこられたんですか? もしまだだったら、オムライスを作ってみたんですけど」 「え?」 「お婆ちゃんに作り方を教わったんです。私――――一人暮らしが長かったんですけど、自炊ってしてこなくって。お口に合うかわからないんですけど」 「え、そうだったんだ。食べたい」 「美味しいかどうか、保証はできませんよ」 そこで初めてニッコリと彼女が笑った。 「お昼がピラフで、夜がオムライスってどうかなって思ったんですけど……」 「問題ないよ」 「準備しておきますので、お風呂どうぞ」 由眞はバスルームの前で立ち止まって、柊吾にお風呂に入るよう促した。 「う、うん。ありがとう」 彼女はパタパタと足音を立てて、キッチンに向かった。 そんな由眞の後ろ姿を見ながら、柊吾は呆然としていた。 (僕は……どう思えばいいんだ? い、いや……彼女は僕の妻を演じてくれているだけで……) 一呼吸おいたら、嬉しさがこみ上げてきた。 由眞が自分のために、料理を作ってくれたことが嬉しい。 お風呂もお湯がはられていた。 そして、この家にはなかった入浴剤が一袋置いてあって、付箋が貼られていた。 『疲れに効くらしいです。よかったら使ってみてください』 「……っ」 由眞の例の「ひぃっ」という類の変な声が思わず出そうになって、寸前で堪えた。 勿論、彼女とは違って喜びの声だ。 (凄く……嬉しい) 彼女はいつだって、自分に喜びを与えてくれる。 自分は彼女に何ができるだろうか−−−−。 悩んでいたら長湯になってしまった。 「ごめん、待たせちゃって」 「全然、大丈夫ですよ。疲れは取れましたか?」 由眞はニッコリと微笑んでくれる。 「うん、入浴剤、ありがとう。使わせてもらった」 「ふふっ、良かったです。座っていてくださいね」 彼女はソファから立ち上がって、オムライスを温めにキッチンに向かった。 テーブルにはすでにサラダが置いてある。ポテトサラダだ。 柊吾は椅子をひいて座る。 「ポテトサラダは、レストランの残り物なんですけど」 「そうなんだ。僕はカフェ・ミラノのポテトサラダ好きだよ」 チンという音の後に、由眞がキッチンから出てくる。 「良かったです。お婆ちゃんが持って行けって言うから、多分柊吾さんの好物なのかなとは思ったんですけど」 卵に綺麗に包まれたオムライスが、柊吾の目の前に置かれる。 由眞のオムライスの温めが終わると、彼女は小さな旗を取り出してきた。 「立てますか?」 「え? オムライスに?」 「はい」 「……ふふ、そうだね」 由眞が旗を立てると、遠い昔に食べたお子様ランチを思い出して、柊吾は思わず笑ってしまった。 「懐かしいな……」 「オムライスがですか?」 「いや、家族皆でレストランに行ったときに食べた、お子様ランチを思い出してしまって」 「柊吾さんでもお子様ランチを食べるんですね」 「子供の頃の話だよ?」 「今が凄く立派なので……なんだか、恐縮もしちゃいます」 「恐縮だなんて、それに僕は立派な人間なんかじゃないよ」 由眞を騙しているわけなのだから。 「……ごめんなさい、展示飛行……私はちゃんと見られてないんですけど、お婆ちゃんたちは喜んでました」 「うん、いいよ。無理はしないで……継彦くんから話は聞いた。過呼吸をおこしたって」 「もう、継彦くんったら、黙っててくれればいいのに」 「僕が聞いたんだよ」 由眞が苦笑する。 「駄目ですね……私って。見て欲しいって言われてたのに……ビデオで見ても……やっぱり五番機の飛行が怖くって、見られなくって」 「見て欲しいとは思っているけど、無理はしなくていいよ。心配するのはみんなそうだって……平野隊長も言っていたよ。彼の奥さんも心臓がいくつあっても足りないって」 「本当ですか?」 「ああ」 「……次の航空祭のときは……ちゃんと見られるようにします。お母様もいらっしゃいますし」 「来てくれるのは嬉しいけど、無理はしないで」 「はい。じゃあ、食べましょうか」 「うん、いただきます」 銀のスプーンを手にとって、オムライスを一口運ぶ。彼女がハラハラした目で見ているからおかしかった。 「そんな顔しないでも、十分美味しいよ」 「お世辞じゃないですか?」 「本当に美味しいよ。毎日食べられる」 「……大げさですね。でも嬉しい。あっ、ケチャップ持ってきてないですね! 今持ってきます」 彼女の後ろ姿を見て、あぁ、幸せだなとじんわり心の底から湧いてくる感情を柊吾は感じていた。 今自分が感じているような幸福感を、彼女にも感じて欲しい。 (どうすれば、いいんだろうな……) 答えの出ない問題を前に、柊吾は小さくため息をついた。
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