☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 「桃谷先生、次の患者様お呼びしますよ」 「ちょっと待て、入力が終わってない」 「……お急ぎくださいね」 今までサボっていた分、桃谷は電子カルテの入力に不慣れだった。 それを白けた目で看護師から見られているのも、彼には伝わっていて余計に苛ついていた。 (くそ、なんで急にお父さんが帰ってくるんだよ。一年は本院にいるって話だったのに) 本院――――赤坂家が牛耳っている帝王大学病院から、桃谷の父が分院の松島大学病院に戻されていた。 おかげで、今までのように自由気ままに病院内を無駄にうろつくことも出来なくなっていた。 (僕の由眞に逢えなくなったじゃないかっ) うろつく時間がないということはつまり、院内調剤課にも行けないということだった。彼は暇さえあれば(むしろ仕事を放り出して)院内調剤課に行って、由眞を眺めるのが日課になっていたが、父親が戻ってきてから、内科の診察担当に就かされて、身動きが取れなくなった。 (なんで僕のモノに僕が逢えないんだ。おかしいだろ) 理不尽な怒りを、桃谷は由眞に向けつつあった。 一方由眞のほうは、結婚してから日も経っていて、まさか桃谷が自分に対して邪な感情を抱いているとは思いもしていなかった。 結婚式のベールのことも、原因は「綺麗なベールで、欲しかったから盗みました」とブライダルスタッフが自供したことから、由眞はもう思い出さないようにしていた。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 「それじゃあ、お疲れ様でした〜」 由眞と佐野は一緒にロッカールームから出た。 桃谷への警戒はまだ続いている。由眞は、申し訳ないから、と一度佐野にもういいですと断ったのだが、佐野が引き下がらなかった。 「あんな、歓迎会で結婚宣言するような気持ち悪いやつが、そうそう諦めるわけがないからね!」 「でも、あれきり、特に何も起きてないですよ」 「あいつだったらロッカールームにだって忍び込んで、由眞ちゃんの髪の毛とか拾ってそうだから……」 「ひっ、き、気持ち悪いですね」 「そういう可能性もあるから、まだまだ安心はできないわよ。今、大人しくしているように見えているのも、桃谷院長が本院から帰ってきているせいでもあるかもしれないし」 一年は本院の帝王大学病院から戻らないと言われていた院長が、突然戻ってきて皆を驚かせていた。 「さて……と」 佐野が先に裏口から出て、あたりを見渡し、怪しい人物がいないのを確認してから、由眞を呼んだ。 「おっけー、大丈夫」 由眞も裏口から出て、佐野の車のほうに向かおうとした時、プップッと短いクラクションが鳴った。そちらの方を見ると、柊吾の青い車が停まっている。 「あら、今日は旦那様のお迎えがあったのね」 「朝は何も言ってなかったけど……」 スマホを取り出しLineメッセージを確認する。 柊吾からメッセージが来ていて、迎えに行きますと書いてあった。 「あ、気が付かなかった……迎えに来るってメッセ来てた」 「良かったじゃない。じゃあ、私はここでまた明日ね」 「はい、また、明日」 佐野と手を振って別れた後、柊吾の車に走って行く。 はぁはぁ言いながら助手席のドアを開ける。 「そんなに急がなくても良かったのに」 「すみません、Lineのメッセージ気が付かなくて」 普段からあまりLineメッセージをチェックするということを、由眞はして来なかったから、気が付けなかった。 今までは、メッセージが来るのは、いつも母からの嫌味かお金の要求のメッセージばかりだったので、見たくないのが本音だった。 さっきチェックしたとき、柊吾からのメッセージと祖母から「お誕生日おめでとう」というメッセージが入っていた。 佐野にも言わなかったが、今日は由眞の二十九歳の誕生日だった。 「夜のフライト訓練がないときは、僕が迎えに来てもいいんだけどね」 「だっ、駄目です! 柊吾さんは身体が資本なんですから、早く終わったときは家でゆっくりしていてください」 「そう言うと思ったんだよなぁ」 ふふっと彼は笑って車を走らせた。 「最近、桃谷の様子はどう?」 「佐野さんの話では、うちの部署を覗きに来ることが無くなったって言ってました」 「そうか、よかった」 「……お父様経由で柊吾さんが、桃谷院長をこちらに戻したんですか?」 「んー、前から桃谷のことは苦情が上がっていたみたいだし、院内からも院長を戻して欲しいって話はあったみたいだよ」 (結局……柊吾さんが口利きしたってことよね) 由眞は微笑んだ。しばらく彼の横顔を眺めていると声がかかる。 「何か話がある感じ?」 「え、どうしてですか?」 「さっきから、じっと僕を見ているから」 「きっ、気が付いてたんですか!」 「気が付かれないと思っていたの? そんだけまっすぐ見ておいて」 彼は、ふふっと笑う。 「は、恥ずかしい……」 「見てるのは構わないよ、用事があるのかなって思っただけだから」 「意地悪です!」 「そうかな?」 などと他愛もない話をしているうちに、車は家に着いた。 「お風呂沸かしてあるから、あがったらリビングにおいで」 「わざわざお風呂の準備までありがとうございます」 「いつも由眞ちゃんがしてくれているから、たまには僕だってやらないと」 いい匂いのする由眞お気に入りの入浴剤の小袋が置いてあって、彼女はそれを湯船に溶かして堪能した。 「お風呂いただきました〜」 部屋着に着替えてリビングに入ると、パァンとクラッカーを鳴らす音がした。 「ひゃっ、な、な……」 「お誕生日おめでとう、由眞ちゃん」 テーブルにはバースデーケーキや、オードブルが盛られた皿が置いてあった。ローストビーフやシュリンプサラダもある。 「わぁ……」 「さ、座って」 柊吾が椅子を引いてくれる。 「すごいごちそう……」 部屋の電気が消され、2と9のろうそくに火が灯された。柊吾がハッピーバースデートゥーユーを歌ってくれる。 (恥ずかしいけど、凄く嬉しい) 「さ、ろうそくの火を吹き消して」 「は、はい」 ふぅっと息を吹きかけるとろうそくの火が消えた。 なんだか感動的だった。 柊吾が再び部屋の明かりを着ける。 バースデーケーキにはマジパンで作られた猫が乗っている。 大きなチョコレートの板には、由眞ちゃんお誕生日おめでとうと書かれていて、恥ずかしかったが、やっぱり嬉しかった。 「あぁ、嬉しいです……ありがとうございます。柊吾さん」 「いえいえ。はい、誕生日プレゼント」 小さな箱を彼が渡してくる。 リボンを解いて箱を開ければ、中には小さなお花の形をした宝石がついたネックレスが入っていた。 「可愛い」 「喜んでもらえて良かった」 柊吾が由眞の背後に回り、そのネックレスを彼女の首に着けた。 「こっちも、なるべく外さないでね」 「二連になっちゃいましたね……」 「これからどんどん増えていくよ」 「え! そ、それはジャラジャラして困ります」 柊吾がくくっと笑った。 「ジャラジャラって言い方が面白いね」 「そ、そうですか?」 「まぁ、冗談だよ。あまりたくさんつけていても綺麗じゃないし、二個が限界かな」 由眞の首元を見つめて、柊吾は満足そうに笑む。 「食べようか。由眞ちゃんってエビが好きだったよね」 「その話、柊吾さんにしましたか? エビは大好物です」 「うん、何気ない会話のときにそんな話をしていたよ」 「よく覚えてますね?」 「そりゃあ、好きな人のことだから」 さらりと彼は言った。 (うぅ……あんまり、そういう形だけの言葉を言わないで欲しい) 本気じゃないと自分に言い聞かせても、胸のドキドキが止まらなくなるからだ。 「う、うん! このシュリンプサラダ、最高に美味しいです」 「良かった」 食事の後は、由眞がポロッと見たいなぁと以前言ったアクション映画を二人で見た。 「さて、明日も早いから、そろそろ寝ようか」 「あ、そうですね」 由眞がソファからあくびをしながら立ち上がると、柊吾が手を握ってくる。 「今夜は僕の部屋で寝ない?」 「……」 彼が自分の部屋に誘ってくるときは、大抵"そういう"ときだ。また由眞の胸がドキドキしてくる。 「あ、あの……はい……」 柊吾の部屋は、当たり前だが柊吾の匂いで溢れている。 この部屋に入ると胸が切なくなったりドキドキしたり、身体の変化が忙しかった。 「由眞」 ベッドにそっと押し倒されて、少しの間見つめ合った後、唇が重なり合う。 「……由眞、可愛い」 赤くなった由眞の頬にキスをして、柊吾は彼女の身体に触れる。 「……柊吾さん……その、電気、を」 「まだ、恥ずかしい? そんなところも可愛いけど」 柊吾がリモコンに手を伸ばし、部屋の明かりが消された−−−−。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 「あら、可愛いネックレスね」 昼休み。佐野が由眞のつけているネックレスを褒めた。 以前貰ったのもつけているので、二連で首につけていた。 「今までのと、組み合わせがいいネックレスね。買ってもらったの?」 「はい。誕生日プレゼントだって……彼がくれたんです。物はいらないって言ったんですけど」 「あら、お誕生日だったのね。おめでとう。じゃあ、私からは愛のこもったプチトマトをどうぞ」 佐野のお弁当箱から、トマトがひとつ、由眞のお弁当箱に入れられる。 「ふふっ、ありがとうございます。お祝いされたことなかったんで、こういうふうにおめでとうって言われるの、照れくさいですね」 「……プチトマトひとつで喜ばれるの、胸が痛むわぁ」 お祝いされたことがなかった、という話に、佐野もさすがに何か感じるものはあったものの、本人がそれ以上の話をしてこないので、敢えて茶化してみせた。 「いえいえ、本当に嬉しいです。さっき小出さんにもチョコレート貰ったんですよ」 「あら、あいつに先越されちゃったわ」 「小出さんにもネックレスのことを言われて……目立ちますかね? 赤坂さんに一本でいいか交渉してみます」 「いやいや、いいんじゃないの? 目立つのは似合っているからだし、他の子達だってネックレスはつけてるんだから、気にしなくていいわよ」 「アクセサリーに慣れてないんで……最近、やっと一本で慣れてきたのに……」 「愛じゃないの? 男の独占欲強い人って、自分のプレゼントしたものをつけさせたがるところあるし。いいなぁ由眞ちゃん」 「ど、独占欲……ですかね」 頬を赤らめる由眞を、可愛いなぁと思って佐野は見ていた。 「入間の航空祭には行くんでしょう?」 「はい、お母様もいらっしゃるので、一緒に見る予定です」 「姑とも仲良しなんて羨ましいわぁ」 と、佐野は言ってから、本当の母とは仲良くないんだったと思い出して、しまったと思ったが、由眞はニッコリと笑う。 「本当に、良くしてくださるんですよ」 「そう。良かったね」 「でも、展示飛行を見るのは怖いんです」 「え? どうして」 「落ちたらどうしようって」 「ブルーインパルスがそうそう墜落しないでしょ」 「でも飛行機ですし」 「心配性ねぇ。彼、今期ラストフライトなんでしょう? 見られるときに見ておかないと勿体ないよ」 勿体ない。という佐野の言葉に、由眞はハッとした。 「……そうですね。確かに、こんな機会はもうあまりないですもんね。今回はしっかり見るようにします!」 グッと拳を握る由眞がおかしくて、佐野は笑った。 「由眞ちゃんって、可愛いわねぇ」 楽しそうにカフェテラスで会話している二人を、桃谷が見ていた。 (くそ、佐野のやついつも由眞と一緒にいやがって、邪魔だな) イライラしていると、彼の前に桃谷の父が現れる。 「明《あきら》ここのコーヒーは美味しいか?」 「……お父さん、なんでここに?」 「おまえがいつもここのカフェにいると聞いてな」 桃谷の父は、ちらりと由眞の方を見る。 「まさかとは思うが、赤坂家の方に邪な思いを抱いたりしていないだろうね? 彼女は柊吾くんの妻だ」 「邪な思いなんてありませんよ」 「だったらいいが……あまり、評判を落としてくれるなよ。本院から戻ってきてから、おまえの悪い話しか聞かない」 「まわりの人間が妬んでるだけですよ。出自や実力を妬むようなやつらばかりですからね」 「妬む……か。信じたいところだが、本院の方で思うところがあったから、私が分院に戻されたのだろうと思っているがね」 「貴重な昼休みに説教ですか、気分悪いですね。しかも本院から戻されたのを僕のせいにするなんて、お父さんらしくない」 桃谷は立ち上がった。 「あーあ、面白くない」 ポイッとゴミ箱に紙コップを捨てて、彼は病院内に戻っていった。 彼の父は額に手を置き、大きなため息をついた。
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