第五章 その日由眞は、柊吾の母舞子と共に、入間の航空祭に来ていた。 よく晴れていて、雲ひとつない天気だった。 「いい天気だわ! この分だと、第一区分の展示飛行が見られそうね! 柊吾のソロもきっと見られるわよ」 もう既に心臓が壊れそうになっている由眞に対して、舞子は少女の様にはしゃいでいる。 十一月の肌寒い時期だったので、舞子の吐く息が白い。 「お母様、寒くないですか? よかったらカイロ、使いますか?」 由眞が声をかけると、舞子はにっこり微笑んだ。 「その辺も準備万端よ。私もカイロをお腹に貼ってるから」 舞子の隣には、お世話役の美樹《みき》がちゃんとついているので、由眞が気にするまでもなかったが、今日は少し寒いので、彼女が風邪をひいたりしないか心配だった。 (……もうすぐね) オープニングセレモニーの後、いよいよブルーインパルスの展示飛行が始まった。 テレビで見るよりも、エンジン音が大きく迫力がある。 (小さい頃、お爺ちゃんたちと何度も一緒に見たはずなのに) 心臓がドキドキして、今にも倒れてしまいそうだと由眞は思った。 だけど、舞子の手前、恥ずかしいところを見られるわけにはいかない。 祖母が教えてくれた呼吸方法を思い出しながら、息を整えて落ち着かせた。 「きゃー、あれよあれよ! 由眞ちゃん、見て! 柊吾の機体! 今日もカッコいいわぁ」 「お、落ちませんように、落ちませんように……」 由眞が唇の前で指を組んでブツブツと祈っていると、舞子が笑う。 「やぁだ、由眞ちゃんったら、大丈夫よ! 柊吾、今まで墜落したことないから」 (お母様、墜落したらおしまいなんですが……) 「祈るよりも、見てやって! あの子本当に今まで頑張ってきたんだから」 舞子が指差す先には、五番機がいた。 「パイロットになるときも、ブルーインパルスのパイロットになるための訓練を受けているときも、いつもあの子の傍には、シロツメクサの栞があったのよ」 「えっ?」 「あの子の心の支えになっていた人って、誰なのかしらねぇ」 (心の支え?) ニコニコっと舞子は笑って、空を見上げた。 由眞も空を見上げる、丁度五番機のソロ飛行中だった。周りからは歓声が上がり、舞子も拍手して喜んでいた。 (皆……とても喜んでる。笑顔もいっぱい……そうだ……私も、小さい頃は、ああだった) 大はしゃぎして、お爺ちゃんを困らせた日もあった。 (いつだって、ブルーインパルスは私を心の底から楽しませてくれる。寂しい思いなんて吹き飛んじゃうくらいに) その機体に今、柊吾が乗っている。 ブルーインパルスを操縦しているのは、この世で一番好きな人だ。 由眞はこの日、久しぶりに最後までブルーインパルスの展示飛行を見ることが出来た。 展示飛行後――――。 「さぁ、行くわよ」 と、言って舞子が由眞を引っ張って足早に歩いて行く。 「お母様、ど、どちらに」 「五番機の列に決まっているじゃない。ファンサービスでね、ブルーインパルスのパイロットにサインや握手をしてもらえるの」 「え? サインや握手って……五番機のパイロットは柊吾さん……ですよね?」 舞子は息子にサインしてもらうために、並ぼうと言っていた。 「それ、家でもよくないですか?」 「やぁだ、由眞ちゃんてば、その場で書いてもらうから興奮するんじゃない」 「あ、あのぉ」 ぐいぐい引っ張られて、五番機(柊吾)のところの長蛇の列に、由眞も並ぶことになってしまった。 (え? え、恥ずかしくない? 柊吾さんの前でどんな顔すればいいの、私!) いよいよ舞子たちの番になって、由眞は困ったように顔を赤くさせた。 ブルーインパルスのパイロットスーツ姿の柊吾に、思わずときめく心を抑えつけるのも大変だった。 「また並んだんですね、お母様。由眞ちゃんを巻き込んで」 「だって、一般人がそうそうブルーインパルスを見られないでしょ?」 「まぁ、そうですけど、以前から言っているように、家族は特別枠で見られ」 「あ、美樹ちゃん、写真撮って頂戴」 柊吾の話をまったく聞いていない様子で、舞子は美樹に自分のスマホを渡した。 遠くに見えるブルーインパルスをバックに、三人で写真を撮る。 「柊吾、今日のお守りは何?」 ふいに舞子が聞く。 お守りってなんだろうと思っていると、彼は無表情で胸ポケットから由眞のウエディングドレス姿の写真を取り出した。 (ひぃいいいいっ) 由眞は真っ赤になった。 「良い選択ね。さすがは私の息子だわ。その写真よく撮れてるものねぇ」 ふふっと舞子が笑う。由眞は周りがざわつき始めたので、恥ずかしくて堪らなくなる。 「お、お母様、私はもうこれで……」 列から逃げるようにダッシュした。 「あらあら、恥ずかしがり屋さんねぇ」 「お母様、由眞ちゃんのこと、空港まで送ってあげてくださいね。宜しくお願いします」 「勿論よ、心配しないで。挙式のときのこともあるから、ぬかりないわ」 舞子はポンポンと柊吾の肩を叩くと、美樹に由眞を追わせた。 由眞はふっと我に返り、こんな広いところではぐれたら、それはそれで恥ずかしいどころの話ではないと思い、立ち止まった。 振り返るとブルーインパルスが遠いところに停まっている。 (ブルーインパルス……) 「こんにちは、赤坂さんの奥様、どなたかと追いかけっこかしら?」 声のする方を見ると、そこには柊吾の上官の娘、品川華織が黒のコート姿で立っていた。 「……あ、品川さん……その、ご無沙汰しております」 「私は会いたくなかったけれど。来ないのかと思っていたけど、来たのね、航空祭に」 「……何故、私が航空祭に来ないと思ったんですか?」 「来ているところをこの二年、見たことがなかったからよ。あぁ、柊吾さんのお母様のお供かしら? 大変ね。結婚した途端、相手させられて」 棘のある言い方をされるのは、仕方がないと由眞は思った。 食事会ではあっさり引いたように見えたが、彼女も柊吾を想っていたのだろうと感じていた。 それをいきなり他の人と結婚すると聞いたら、彼女は一体、どう思っただろうか。 ――――もし、逆の立場だったら……と考えると胸が痛む。 「……ごめんなさい……私なんかが、柊吾さんと……結婚してしまって」 由眞の言葉を聞いて、華織はいっそう面白くなさそうな顔をした。 「……あなたって……」 大きく彼女はため息をついた。 「自分を卑下するのは結構だけど、それって柊吾さんのことも卑下しているってわかっているの? 柊吾さんはあなたを選んだから、結婚したんでしょう?」 (……選んだ……というのかしら……) 由眞の感覚からすると、都合よく転がっていた石ころが、さほど悪いものでもなかったから、今回の契約結婚に選んだと思えていた。 石ころだから、一年後に捨てても惜しくはない――――。 「柊吾さんが、私を選んだのはほんの気まぐれで……いつか彼も失敗したと思う日が来ると思うんです」 「何を言っているの? あの人に限って、気まぐれで結婚なんて有り得ないわ。女性との噂がまったくなかった人よ! 柊吾さんを貶めるようなことを言うのは止めてくださる? 仮にも、あなた彼の奥さんでしょう?」 (……本当に、仮だけど……) 由眞は俯く。 「……私は気まぐれでもなんでもなく、本当に彼が好きだったの。でも、彼に気がないこともわかっていたわ。だから私との結婚が嫌で、付き合っている人がいるって言うとは思っていたけど……まさか、本当に……」 そこまで言って華織は唇を噛んだ。 「ちゃんとしなさいよ。でないと、私……いつまでも諦められないから!」 踵を返し、華織は立ち去る。 (……罪悪感で、胸が潰れそうだわ) 柊吾を好きだとはっきり言えて、彼女の心の中には柊吾がいる――――。 自分も柊吾を好きだけれど、あんなにはっきりと他人には言えない。 (秘密の恋をしているみたいだわ) 契約結婚であるがために、由眞にそう思わした。 好きだけれど、心の底からの好きを、誰にも言えない気がする。 やや遅れて、美樹が走ってきた。 「パンプス履いて、あんな猛ダッシュされる方、は、初めて、出会いました」 息を切らしながら美樹が言う。 「すっ、すみません……あまりにも恥ずかしかったので」 いたたまれない気持ちもあった。 それと同時に、隠しておかなければならない想いが溢れそうで、あの場から逃げ出した。 柊吾が隣にいると、触れたくなってしまうから。 舞子のところまで美樹に案内されると、彼女は既に車の後部座席に座っていた。 「由眞様も、お乗りください」 「……はい」 後部座席に乗ると、舞子が微笑みかけてくる。 「もう、照れ屋さんなのねぇ、由眞ちゃんったら」 恥ずかしい思いをさせた張本人は、優雅に笑っている。 「明日が由眞ちゃんのお仕事がなければ、うちに泊まってもらうのに、残念ね」 羽田空港まで、舞子が送ってくれることになっている。 「……お母様もお忙しいでしょう? お疲れのところすみません、送って頂いて」 「柊吾にちゃんと送るよう言われているから、遠慮はなしよ」 運転手が車を走らせる。 先程美樹が撮った三人の写真は、舞子が由眞に送信してくれる。 「よく撮れているわ。ふふ、こういう写真も良いわね」 舞子はご満悦のようだった。 由眞は、思い出になる写真が出来てよかったな……と思っていた。 ――――写真といえば。 「……あの、柊吾さんはいつも……その、写真をお守りに持っているんですか?」 「あぁ、そうなのよ。フライトのときにはね、お守り代わりのものをパイロットはみんな持っているみたい。柊吾の場合は、由眞ちゃんの写真。その前は……ふふっ、シロツメクサの栞ね」 「そ、そうですか……」 何故彼は、自分の写真や、シロツメクサの栞を、お守り代わりにするのだろうか。 よくわからない。 運が良い方だと言っても、せいぜい、自動販売機のジュースが当たる程度なのに。 「私が宮城まで送ってあげられればいいんだけどね」 「羽田でも十分です」 ややあってから、舞子が話し始めた。 「ところで……柊吾はまだ、シロツメクサの栞の話を由眞ちゃんにしてないのかしら?」 「え? はい」 舞子は眉間に指を置いて、ふーっとため息をついた。 「本当に……あの子ったら。言わなきゃ伝わらないことのほうが多いっていうのに……」 由眞は聞くべきか悩んだ。 自分だって、シロツメクサの話は、聞きたいのに本人に聞かずにいる。だから、やはり本人のいないところで聞くのはどうなんだろうか? と由眞は思った。 度々シロツメクサの話を出してくるので、聞けば舞子は答えてくれるとは思ったが、由眞は聞かないことにした。 柊吾が言わないのには、何か理由があるからだと由眞は思った。 羽田空港に到着し、宮城行きの飛行機の搭乗時間になるまで舞子は付き添ってくれた。美樹は車で待機している。追いかけっこのお詫びをしなかったなと由眞は思った。 「それじゃあ、またね、由眞ちゃん。お正月にでも遊びに来て頂戴」 「はい、是非」 そう言って、手を振って別れた。 またしばらく会えないんだなと思うと、急に寂しくなる。 これも依存の一部なんだろうか。 自分は色んな人に、依存してしまっているなと感じていた。 (……依存しても……お別れもすぐにやってくるのに) いっそう寂しくなった。
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