☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 『今までありがとう。おかげで助かったよ』 目の前には柊吾がいる。 病院にいるはずなのに、何故か柊吾のマンションに由眞はいた。 (え? 何?) 『これは謝礼金だよ。君のお母さんには渡さないようにね。君の生活のために使って』 封筒を由眞の前に差し出した。 ……なんの話をしているのだろうか? 視線をテーブルの上にやると、封筒の横には離婚届が置いてあった。 『……っ』 既に柊吾のサインはしてあった。 『あ、あの……』 『うん?』 『シロツメクサの栞って、どうしてずっと持っていたんですか?』 『あぁ、あれか……子供の頃、小さな女の子にシロツメクサを貰ってね。花言葉が"幸運"で、縁起が良いって母が言うから、栞にしてもらったんだよ』 『……それだけ、ですか?』 『それだけだけど? 明日からは新田原の基地に転属になって僕はそっちに行くから、ここの引っ越しはゆっくりしてくれていいよ』 転属。しかも新田原の基地だなんて遠すぎる。 松島の基地にいてくれれば、すれ違うこともあったかもしれないのに。 『……あの、私……私、柊吾さんのことが……』 『やめようよ。君の気持ちには応えられないから』 由眞の言葉を彼が遮った。 『――――離れたくないです』 『契約結婚だったはずだよね? 君も了承した。第一、自衛官は嫌いなんだろう? 僕は自衛官を辞めるつもりなんてない』 『本当に、お別れなんですね』 『……元気でね。どうしてもお金に困ったら、連絡してきてもいいよ。野木さん』 彼は腕を組み、長い脚をうっとおしげに組みかえた。 ――――野木さん。 初めてそう呼ばれた。 彼は最初から自分のことを「由眞ちゃん」と呼んでいたのに、あれは一体なんだったのだろう。 星を見に連れて行ってくれたのは、ブルーインパルスのキーホルダーを好んでつけてくれたのは、ずっと身に着けていてとプレゼントしてくれたネックレスは――――なんだった? 由眞は震える指先で、胸元にある二連になっているネックレスに触れた。 『このネックレスは……お返ししたほうが……』 『あげたものを返せなんて野暮なことは言わないよ。ブランドのジュエリーだから、いざとなったら売ればいいよ』 彼は左手の薬指にはめていた結婚指輪を外し、テーブルの上にコトンと置いた。 『じゃあ、僕は行くよ』 『しゅ、柊吾さん、待って……』 彼は振り返ることなく、リビングから出ていった。 静寂が広がる。 わかっていたことだ。この別れはわかっていて、自分は彼に惹かれ、彼を好きになってしまった。 馬鹿だ。けして通じ合わない思いだと、わかっていたのに――――。 それでも諦めきれずに、由眞は立ち上がり柊吾を追いかけた。 『柊吾さん、待って、お願い!』 玄関で彼は靴を履いているところだった。 由眞は走って玄関に行き、柊吾の腕を掴んだ。 『行かないで、私は柊吾さんがどう思っていても、あなたが好き! 愛しているの、あなたなしの生活なんて考えられないっ』 ポロポロと涙が溢れた。 嘘偽りない思いだった。柊吾がいない生活は考えられない。 愛しい、世界を分けては暮らせないと思った。 柊吾の指先が、クイッと由眞の顎を持ち上げる。 『君は一生僕を愛せる? いついかなるときも、愛していられる? パイロットの僕のことを愛せると言うのか?』 『……っ』 『さようなら』 彼は玄関の扉を開けて出ていった。 「柊吾……さん、行かないで……」 眦から涙が溢れた。 「由眞ちゃん? 由眞ちゃん? 大丈夫? 僕はここにいるよ」 ふと目を開けると、そこには柊吾がいて、手を握っていてくれた。 「柊吾さん」 由眞は彼に抱きついた。 そうすると、彼も強く抱き締め返してくれる。 「怖かったね。もう大丈夫だよ」 背中を擦ってくれる。優しい手、けして失いたくないもの。 「……あなたを失うこと以上に、怖いことなんて、ない、の」 「――――由眞ちゃん」 「嫌だ、嫌……いや……っ」 ポロポロと涙が零れた。 あのときだって本当は泣きたかった。公園でもう会えないと言われたとき、二度と会えないんだと思った、だから行かないでと泣きたかった。 たった数時間、遊んでもらっただけだったのに、あんなに優しくしてくれた人は他にいなかった。自分を気遣ってくれる人はいなかった。 きっともう一生、こんなふうに自分に優しくしてくれる人は現れないと、本能的に感じたのに、自分から笑顔で手を振って別れた。 二度と会えない辛さを忘れるため、もうあの男の子のことは思い出さないようにしていたのに、再び出会ってしまった。 どうして突き放さなかったんだろう。 同じ別れがやってくることがわかっていながら、どうして受け入れてしまった? 身体を繋げて、刹那的に満ち足りてみても、いっそ辛くなるのに――――。 小さな子供のように泣きわめく由眞を、錯乱したのかと心配した美樹が医者を呼ぶ。 「赤坂さん、奥様に鎮静剤を打ちましょう」 「いい、このままにしておいてくれ。それよりも二人きりにして欲しい」 「……わかりました。必要でしたら、お呼びください」 医者と美樹が扉の外へ出ていく。 「……由眞ちゃん、そんなに怖かった? 僕の展示飛行は」 彼女の頭を撫でながら、柊吾が言う。 「ち、がう」 「じゃあ、どうしたの?」 「離れたくなかったの、また会えるなんて、嘘ってわかってたから」 「……なんの話?」 「柊吾さんは、あのお兄ちゃんよね? シロツメクサの公園で、私を守ってくれて、傍にいてくれた」 「うん、そうだよ」 「どうして言ってくれなかったの? どうして、どうして? また会えたねって、言ってくれなかったのはなんで?」 医者が言うように、由眞は普段の由眞ではなく、錯乱しているように見えた。 大丈夫だと彼女が言ったと美樹は言うが、襲われて大丈夫な人間などいない。 ただ、どうしてシロツメクサの公園のことに、今この瞬間、強いこだわりを持っているのか、柊吾にはわからなかった。 「私のことは、必要ないから? 言わなくてもいいって思った?」 「違うよ」 「違う、違う、そうよね……忘れていたのは私のほうだ……何? 私……何を言っているの……」 「何を言ってもいいよ。言いたいことがあるなら、どんなことを言ったって構わない」 由眞は柊吾を見上げた。 頭がぼんやりする。 怖い夢を見た気がする。いや、現実だったのかもしれない。 今なんで自分がここにいるのか、わからない。 「……」 昨日は航空祭を舞子と見に行ったはずだ。 その後、宮城空港に着いて――――どうなった? どうして自分は家に帰っていないのか。 少しずつ、記憶がよみがえってくる。 「由眞ちゃん?」 急に黙り込んだ由眞を、案じるように柊吾が声をかける。 由眞はハッとした。 「……す、すみません……わ、私……なんか、色々、混乱して」 「大丈夫だよ。僕には何を言っても、何をしても」 優しくされれば離れがたくなるのに。 あぁ、アレは夢だったんだ、というところに考えが落ち着くまでに時間がかかった。 由眞はベッドに手をついている、柊吾の左手を見た。 彼の薬指には結婚指輪が"まだ"はめられている。そっと由眞が手を伸ばすと、柊吾の方から手を握ってきた。 「……すみません、凄く、怖い夢を見ました」 ぽつりと由眞が言うと、柊吾が頭を撫でてくる。 「もう大丈夫だよ。僕がいるから」 ふっと視線を上げると、彼の唇が由眞の唇に重なった。 (この人に、私のことを好きになって欲しい……) 誰かに好かれたいと思うのは、初めてだった。 親に愛されることすら諦めたのに、柊吾のことは諦められそうにない。 好かれるには、いったいどうしたらいいのだろう。 抱き締めてくる彼の身体を、抱き締め返しながら由眞は考えていた。 『すぐ行くよ』 昨夜の柊吾のLineメッセージはその一言だけだった。 ブルーインパルスの五号機の松島への帰還は、サブパイロットに任せて、柊吾は羽田から飛行機に乗った。 そして、由眞の入院している病院に辿り着いた。 「すみません、そんなことして……あとで怒られませんか?」 由眞は柊吾が剥いたうさぎの形のりんごを食べながら、聞いた。 「奥さんのピンチに、何か言うような人たちじゃないよ。それに、色んな事態のときのためにサブパイロットがいるんだし」 「……そうですか、だったらいいんですけど……」 「由眞ちゃんの代わりは、いないんだし、何かあれば飛んで帰るよ」 「でも、そうじゃないときだって」 任務があれば帰りたくても、帰れないときがある――――。 そんな言葉を由眞は、言いかけてやめる。 こんなことが言いたいわけじゃない。好かれたいと思っているのに素直な気持ちが言えない。これじゃあ、夢のとおりになってしまう。 「あ、あの、その……でも、すぐに柊吾さんが来てくれたこと……う、嬉しい、です」 「うん」 彼の指が右の首筋に触れる。 「ごめんね、言わなくて」 「く、首、くすぐったいです……何を、ですか?」 「僕が、シロツメクサの公園で遊んだ男の子だってことを言わなかったの、凄いご立腹だったから」 「ご、ご立腹って……でも、公園の話は、私も忘れていたことですし……」 「あんなに泣いたのに?」 「う……うぅん……首、やめてください」 「ここにハート型の小さなホクロがあるの、知ってた?」 「え? し、知らないです」 「だから、僕にはすぐに君があのときの女の子だってわかったけど……由眞ちゃんはわからなくても仕方ないよね」 首筋から柊吾の指が離れて、由眞はふぅっと息を吐く。 「私……わざと忘れようとして、公園のことは思い出さないようにしていたんです……だって、楽しいことの後って寂しさしか残らないから」 「そんなに由眞ちゃんにとって、楽しい思い出だったの?」 「……はい」 「へぇ、そうだったんだ」 なんだか彼の声色が蠱惑的に変化したように感じて、由眞が顔をあげると、艶っぽい瞳で、彼女を見ていた。 「午後には退院できるって、先生が言ってたよ」 「あ、そ、そうなんですか?」 「家に帰ったら、たっぷり由眞ちゃんのこと、可愛がってあげるからね」 「え? 可愛がるって?」 柊吾の手が由眞の腰を抱く。 「僕が欲しいでしょう?」 耳元でそっと柊吾が由眞に囁く。 「あ……ぅ……」 由眞の顔はリンゴの様に真っ赤になっている。いつもは照れてそんなことはないと言うところだったが。 (素直に、ならなきゃ……) 由眞は小さく頷いて「はい」と言った。 柊吾がそのとき、どんな表情をしていたかなんて由眞には恥ずかしくて見られなかったけれども、彼は満足そうに微笑んでいた。
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