「……もう、急にえっちなスイッチ入るの、やめてくださいね」 終わった後、由眞はブラウスのボタンをとめながら言う。 「冷めてても美味しいよ。由眞ちゃんのハンバーグ」 柊吾は何事もなかったかのように、ハンバーグを食べている。 「タンシチューは温め直しましょう」 「このままでいいよ、冷めた原因は僕なんだし」 「……せっかくだったら、美味しく食べてもらいたいです」 由眞は彼の前にあったタンシチューの皿を、ひょいっと奪い去った。 (一皿だったら、レンチンでいいかな) 由眞がキッチンに入って、タンシチューのお皿を温めていると、また柊吾が着いてくる。 「はい、由眞ちゃん、あーん」 口を開けると、彼がイチゴを食べさせてくれる。 「美味しい?」 「美味しいです」 こういった小さな喜びが、由眞には幸せに感じられた。 だからこそ、契約結婚の重みに、彼女の胃がキリキリと痛む。彼を失いたくない――――。 (無理、かな……怖くて聞けない。なんて切り出したらいいのかもわからない) 契約結婚の終了は、最初の約束どおりなのかと聞いて、そうだと言われたら、自分のお腹にいる子供はどうなるだろうか? その日は、柊吾に何も言えないまま、夜は更けていった。 翌日、土曜日で、レストランは休業日だったが、柊吾も休日だった。 病院に行きたかった由眞は、佐野と食事に行くと嘘をついて家を出た。 このところまともに食事ができていなかったのに、食事に行くと言ったものだから柊吾はとても心配した様子だった。 女医のいる婦人科を選び、由眞は検査を受ける。 「妊娠四ヶ月ですね」 想像通りの言葉を聞いて、由眞は複雑な感情を抱く。 柊吾との赤ちゃんがお腹にいる。それは凄く嬉しい。 だけど、赤ちゃんのことを言う前に、契約結婚のことをはっきりしなければいけなかった。 もし、当初の予定通りと柊吾が考えているなら、きっと赤ちゃんは邪魔になる。 (堕ろせって言われるかも……) そんなのは嫌だ。柊吾との子供は産みたい。そしてたくさん愛してあげたかった。愛されることを知らない自分が、どこまで愛してやれるか不安だったが、この子を失えないと思った。 (はっきりさせなきゃ) 由眞は柊吾が待つ家の扉を開けた。 「おかえり、体調は大丈夫?」 「大丈夫です。あの……ちょっと聞いておきたいことがあるんですが」 「何?」 彼はキッチンに入って、由眞のマグカップに温かいカフェオレをいれてくれている。 猫柄のマグカップを手渡されて、由眞は取り敢えずソファに座った。 「……私達の、契約結婚の話なんですが」 「契約結婚?」 「最初の予定通りで……その……いい……んでしょうか」 「どうして?」 想定外の返事が来て、由眞は困ってしまう。 この場合、イエスかノーだけのはずだと彼女は思っていた。 「どうしてそんなことを、今更言うの?」 「ど、どうしてって、大事なことだから……」 「……大事、かな? 僕には理解できないけれど」 彼の声は淡々として静かだった。いつもとは明らかに違う口調。 (私が、改めて契約結婚の話を持ち出したから……怒ったのかしら……) 由眞はごくりと息をのんでから、言葉を続けた。 「そう……ですよね。今更する話じゃないですよね。すみません、変なこと聞いてしまって」 「……うん、わかってくれればいいんだけど」 「……すみません、カフェオレ、いただきます」 ごくごくと熱いカフェオレを呑み干し、由眞はマグカップをキッチンのシンクに置いた。水を出し、スポンジでマグカップを洗い、洗いかごに置く。 対面キッチンの向こう側から、柊吾が声をかけてきた。 「……ねぇ、由眞ちゃん、本当にわかっている?」 「はい、大丈夫です。わかっていますよ」 にっこりと彼女が笑うから、柊吾は安堵した表情を見せた。 ――――つまりは。 契約期間も残り僅かな今になって、契約結婚の話で今更することなんて何もないっていうことだ。 (そうですよね) さんざん口うるさく、弟のことを言ってきた母親にでさえも、お金の価値がないとわかれば一切の連絡がなくなるような、自分はそういう扱いをされる人間なのだ。 由眞はふらふらと自室に戻る。ぺたんと床に座り込んで、しばらくの間ぼーっとした。 では、柊吾にとって自分から搾取できるものといえばなんだろうと由眞は考える。 (……カラダ……かな) 最近、やたらと回数が増えてきていた。 彼に抱かれるのは嫌ではなく、こちらからお願いしたいくらいではあるものの、考え方を変えてしまえば、搾取するだけ搾取されている、とも感じられる。 (ええと……) 動かなければいけない。 彼に子供が出来たことが知られてしまえば、子供は堕ろされてしまう。それは"赤坂家"にとって、不要な子だからだ。 柊吾のお金ではあるが、柊吾に何かあったときのために預けてくれている通帳と判子があった。 それとお財布、由眞の給料で貯めた少しの現金。 そして引き出しの奥にしまっておいた実家の鍵。本当は触れたくもないものだったけれど、仕方がない。 由眞はゆっくりと立ち上がり、一筆書いてテーブルに置くと、そっと自室の扉を開けた。 柊吾はまだリビングにいるようだった。 (約束の日までいられなくて、ごめんなさい) 由眞はショルダーバッグ一つだけ持って、家を出た。 マンション前を通りがかったタクシーを停めて、彼女は宮城空港に向かった。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ (どうしてあんなこと言い出したんだろう) 契約結婚の話なんて、柊吾がシロツメクサの告白をした日にとうに白紙になったものだと思っていた。 『最初の予定通りで……その……いい……んでしょうか』 最初の予定通りということは、契約結婚のままだという意味になる。 そんなはずはない。 なんでそんなことを彼女が聞いてくるのかが、理解できなかった。 由眞は自分を好きでいてくれている。あの日、確かにそう感じた。 だから、今更どうして? と聞くしかなかった。 (そういえば、僕が自衛官であることについて、触れなくなった……何か不安があるのかもしれない) 柊吾は由眞の話を聞こうと彼女の部屋に向かった。 扉をノックして由眞を呼ぶが返事がない。 「……入るよ?」 そこに由眞はいなかった。その代わりに、テーブルには手紙が置かれている。 『少し早いですが、契約結婚を終了させてください。のちほど離婚届をお送りします。勝手ばかりですみません 由眞』 「え……嘘だろ」 急いで玄関に向かうと彼女の靴がない。 (本当に出ていった?) リビングに戻り、車のキーを掴んだが、うっかり落としてしまう。 ちりんと音がして、ブルーインパルスに乗っている猫の部分が、鍵から外れて転がった。 鍵だけを拾い上げ、柊吾は自分の車に急いで乗った。 (彼女が行きそうなところは、皆子さんのところか、穂村さんのところ――――) スマートフォンから由眞に電話をかけたが、彼女は出なかった。 (……皆子さんのところに行くのは、考えにくい……穂村さんのところか) 由眞の祖母の家に行くが、由眞は来ていなかった。 「どうしたんじゃ? 夫婦喧嘩なら、あの子が来ても追い返すよ?」 「いえ、もし来たら、引き止めてください、迎えに来ます」 皆子のところにも由眞は行っていなかった。 手当たり次第に彼女が行きそうなところを探し回ってみても、そもそも彼女が行くようなところなんてほとんどない。 (どうして僕は、彼女の話をちゃんと聞かなかったんだ) 契約結婚のことを再び持ち出されて、頭に血がのぼったせいもある。 パイロットの訓練で常に冷静であるよう、してきたはずなのに、どうしても由眞のことになると融通がきかなくなる。 (クソ弟のことでもショックを受けていたみたいだった、僕がもっとしっかり彼女を支えなければいけなかったのに) もうこのまま一生彼女に会えないのかと考えたら、ゾッとした。 −−−−と、そのとき。皆子からLineで電話がかかってきた。 『あ、柊吾くん? 由眞ちゃんの行き先なんだけど……ちょっと考えにくいんだけど、もしかしたら、実家に行ったかもって』 「由眞ちゃんの実家ってどこなんですか?」 『Lineで住所送るわ。東京よ、確か、帝王大学病院の近くだったはず』 「ありがとうございます」 柊吾は車を再び走らせた。 (確かに、彼女の家族は渡米中で留守だ。生活するには丁度いい) 宮城空港に柊吾は到着するが、どこにも由眞はいなかった。 ついさきほど羽田に向かう便が出たところだから、彼女はそれに乗っていったのかもしれない。 確信はなかったが、柊吾は次発の便のチケットを取り、羽田に向かった。 羽田に到着してから、皆子から送られてきた住所を見る。 (確かに、この住所は帝王大学病院の近くだ……こんな病院の近くのマンションに引っ越すほど、弘貴を大事にしていたのか……) シロツメクサの公園からはだいぶ遠い。 (由眞は学校のこととか、色々大変だったろうに……) 彼女の高校からも、大学からも、このマンションは遠いように思えた。 とりあえず柊吾は車をレンタルして、都内の彼女の実家へと向かう。 (……だよな) 由眞の実家の電気やガスは止められている。 渡米したのだから当然だろう。 (ここに……由眞は来るだろうか?) 呼び鈴を鳴らしてみるが、やはり応答はない。 (彼女に通帳を渡してある……) わざわざ、こんな嫌な思い出しかないであろう実家に、彼女が戻ってくるとは考えにくかった。 通帳にいれてある金額は、ホテル暮らしができるくらいの金額は入っている。 自分にもしものことがあったときに、彼女が生活に困らないよう渡した通帳だった。それが仇になったなと柊吾は苦笑した。 (ちゃんと言葉にしなきゃ、いけないと、母に散々言われていたのに) 悔やんでも悔やみきれない。 夕陽が沈み始めた頃、隣の住人が顔を出した。 「隣の野木さんは、アメリカに行ってるから、誰もいませんし、当分戻られませんよ」 「……ご親切にありがとうございます。気味が悪いでしょうが、あと数時間だけ、ここにいさせてください」 柊吾が言うと「こちらは全然、問題ないですよ」と言って扉を閉めた。 (お手上げだ……) 一人ではどうにもならない。 柊吾は母、舞子に電話をした。 『それってどういうこと? 由眞ちゃんが行方不明になるぐらいの夫婦喧嘩って何? ちゃんと話さないと力は貸さないわよ』 ――――言われるとは思っていた。 契約結婚のことを話すと、長い説教が始まった。 舞子の説教の勢いが落ち着いた頃、柊吾は懇願した。 「……由眞ちゃんを失いたくないんだ。お願いだ、力を貸して欲しい」 『……困った息子ね。お母様のいうことを最初から聞いていればこんなことにはならなかったし……契約結婚ってあまりに酷いわ』 お説教がエンドレスで続きそうだなと、柊吾が覚悟を決めた時、舞子が言う。 『由眞ちゃんのことは何が何でも見つけてみせるわ! だからしっかり連れ戻しなさい。ちゃんと愛しなさい。わかった?』 「はい、わかりました」 『とりあえず、あなたは一旦松島に戻りなさい。ブルーインパルスの訓練に穴を開けることは許されないわよ。あと、お祖母様たちにもきちんと謝罪をするのよ』 (……一旦松島に……か) 柊吾は車に乗り、カーナビを操作する。到着地点は、シロツメクサの公園に設定した。 (高速使えば三十分で着けるかな……) 舞子はちゃんと愛せと言ったが、由眞は自分を許してくれるだろうか。 (長い間、耐えてくれていたのに) 彼女の限界を、自分はわかってやれなかったと柊吾は思った。 (それに僕は自分だけがそのつもりでいたけれど、言葉にして契約結婚は白紙にしようとは、一度も言わなかった) 愛しいと本当の言葉を言ってみても、最初についた嘘のせいで、由眞にとってはすべてが嘘に聞こえていたのだろう。 シロツメクサの公園に近付いてくると、周りの家にはクリスマスのイルミネーションが飾られていて、やたらきらびやかだった。 (あの頃って、こんな感じだったかな) 公園近くのパーキングに車を停めて、歩いていく。 シロツメクサの花が咲く時期ではなかったから、由眞と出会った頃の景色とはすっかり様子が変わっていた。 公園の中に歩みを進めると、少し離れた場所にある滑り台のてっぺんに人がいる。子供ではなく大人のようだった。こんな時間に滑るわけでもなく座り込んで、何をしているんだろうと思った。 その人は、空を眺めているようだった。 肩まで伸びたサラサラの綺麗な髪の毛が、風に揺らされている。後ろ姿でよくわからなかったがどうやら女性のようだ。 近づくべきか悩んだが、こんな時間に女性一人で公園にいるのは危ないと思い、柊吾は滑り台に近付いていく。 「あの……」 よく見ると、彼女が斜めがけしているショルダーバッグには見覚えがあった。 (まさか) 滑り台の正面にまわって柊吾は彼女を見上げた。 「ゆ……由眞ちゃん?」 空を見上げていた由眞は、静かに視線を柊吾に向けた。 「東京の空は、やっぱり星が見えないね」 「由眞ちゃん、降りてきて」 「……うん」 彼女は、スーッと滑り台を滑り降りてきた。 「あのね……"コックピット"も見ようと思ったんだけど、林は伐採されちゃってもうなくって……この公園にあったジャングルジムも、無くなっちゃってた。林も、ジャングルジムも遊んでて怪我した子がいたんだって。それで、撤去したんだって」 由眞はまた空を見上げた。 「誰かが怪我をする度に、無くしていったら、何も残らないね……」 「由眞ちゃん、僕は……」 「ねぇ、カフェオレ飲まない?」 由眞はお尻に付いた砂を払いながら立ち上がった。 「僕は、君と話をしたいんだ」 「……」 自動販売機の前まで歩いていって、由眞は小銭を入れた。 「カフェオレでいいですよね?」 由眞はカフェオレのボタンを押す。 この自動販売機もスロットがついていて、あのときのように鳴る音は違ったが数字が揃った。 「ふふ、私って凄くないですか?」 由眞はカフェオレのボタンをもう一度押して、取り出し口から取り出した。 「はい、どうぞ」 彼女の行動の意味がわからず、柊吾は恐る恐るカフェオレを受け取った。 「……私、賭けてたんです。今日、もし、柊吾さんがこの場所に来てくれたら、言おうって。来なければどこか遠いところに行こうって」 「由眞ちゃん、僕は本当に君が好きだし、愛している。ここで君と出会ったときから、ずっと君だけを想い続けていたんだ。つまり、好きだったってことなんだ」 「………………う、うん」 由眞の瞳が涙で滲む。 「ちゃんと結婚しよう。僕は初めから、契約結婚なんてつもりはなかったんだ。どんな方法でも、君を僕の傍に縛り付けておきたかった。君が僕を好きになってくれるまで」 「……柊吾さんも、私を好きになってください」 「もう好きだよ、どうしようもないくらいに」 ふるふるっと由眞は首を振った。 「もっともっと、好きになって欲しいです。私が不安にならないくらいに」 「愛しているよ」 柊吾は腕を伸ばし、彼女を抱き締めた。 冷たくなっている髪に触れて、柊吾は「遅くなってごめん」と言った。 車に乗ってから柊吾がカフェオレの缶を開けようとすると、由眞が止めた。 「それ、私のためだったらいらないですよ」 「え? 飲まないの?」 「お昼に柊吾さんがいれてくれたのを飲んでいるし……カフェインは避けようと思っているんです。私、妊娠しているんで」 「……え」 柊吾がカフェオレの缶をゴトンと落とした。 「妊娠してるんです……それを言おうと思ってました」 「なっ、な、なんで、もっと早く言ってくれないんだ。イチゴばかり食べていたのって……つわりで?」 「多分……」 柊吾はハンドルに突っ伏した。 「僕は君が何か悪い病気なんじゃないかって、心配していたのに」 「……喜んでくれないんですね」 由眞の言葉を聞いて、柊吾は顔をあげた。 「もちろん、嬉しいよ、凄く嬉しいけど、君がいてこその子供だから」 「じゃあ……具合悪そうだから、堕ろせとか言いますか?」 「そんなことも言わないよ。僕はそんなに信じられてない?」 由眞はしばらくじっと柊吾を見つめてから、コクリと頷いた。 「他人の考えってわからないです。とくに柊吾さんはわかりにくいです。ちゃんと言ってくれないと……」 「ごめん」 「ん」 由眞は両手を広げた。 「え?」 柊吾が彼女の意図するところがわからずに、まばたきをすると、由眞は微笑んだ。 「抱っこ、ください」 「あ、うん」 柊吾が由眞をふんわりと、抱き締める。 「……これからは、えっち少なめでお願いしますね」 「嘘だよね?」 「だって、つわりが……」 「ん〜、う、ん」 ――――この後、柊吾は由眞が見つかってすぐに舞子に連絡を入れなかったことで、こっぴどく叱られることになった。
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