****** 無言で歩き続け、映画館から少し離れたぐらいの場所でみなみは絢樹を見上 げた。 「さっきの女性は誰?」 「……言ってもいいんですか?」 「聞いているのは私よ」 「前のヒトです」 「直近の?」 「いえ、少し前の……」 「あなたにやけどを負わせた人?」 「いいえ、その人ではないです」 「そう」 「すみません、不愉快な思いをさせてしまいました」 「うん、そうね。不愉快だわ」 「ごめんなさい」 「何を話していたの? また、元の関係に戻りましょうとでも?」 「いいえ、そんな話は」 「……久しぶりに前の主人に会った気分はどう? 向こうが言わなくても、あ なたは戻りたいと思ったんじゃないの?」 絢樹が戻りたいと言い出しても、手放したくないと思っているのにみなみは 淡々とした口調でそう言った。 「やめて下さい、あなたが……そんなふうに言わないで下さい」 「どうして? 本心を言ってあげただけじゃない」 「戻りたいだなんて思わないですよ」 「向こうが戻れと言ってくれないから?」 「違います」 みなみは小さく息を吐いた。 何を言っているのだろうかと呆れる気持ちと情けない気持ちでどっと疲れた。 「疲れた……もう帰るわ」 「俺は……まだ、一緒にいたいです」 彼の声に、心が甘くくすぐられるような感じと、痛みが同時に押し寄せてき て彼女はまた息を吐いた。 「今日は雨ではない筈よ」 「……」 「もう、いいでしょ?」 一緒にいたいと思う気持ちと、どろどろな感情が混ざり合い、みなみの唇か らは冷たい言葉しか出てこなかった。 彼を支配していた昔の主は、何故彼を捨てたのだろうか。 捨てたくせに、また声をかけるのは何故? まだ自分のものだとでも言いたかったのだろうか。 余計な考えしか頭に浮かばない。 絢樹を縛れるのなら、自分の全てを利用しても構わないと思うのに、その全 部を使っても縛りきれないもどかしさに息が詰まる。 雨の日以外だって彼が欲しいのに。 「……家まで、送ります」 「ひとりで帰れるわ。ここで別れよう」 「判りました」 すんなりと言うことを聞く絢樹にも苛立ちを覚えた。 結局は形ばかりの主従関係なのだと言われているような気がして痛くて堪ら なかった。 絢樹を振り返りもせずにみなみは駅まで歩いた。 ――――わざと振り返らなかったのではなく彼女は振り返ることが出来なか った。 振り返ったとき、彼がもうそこにはいないような気がしたから。 離れたくない、離したくない。 だけど……。 想うほどに報われることのない恋ならばいっそ手放してしまえればいいのに。 近い将来、自ら進んで彼を手放してしまうような気がして、みなみの胸がま た痛みで苦しくなっていった。 ****** 「いつもので」 ランチの時間を少し過ぎてからやってくる馴染みの客は、オーダーを取りに 来たみなみにそう言った。 「コーヒーですよね」 彼女が笑うと、スーツを着た若い男性も笑った。 「この辺では、ここのコーヒーが一番美味い」 「そうなんですか?」 「君が淹れてくれるなら尚更だと思うけど」 そんなふうに言って笑う彼に、みなみは少しだけ首を傾げた。 「私が淹れたら美味しくないと思いますよ。紅茶も適当にしか淹れられないで すし、笑われるぐらいに」 「ああ、そうなの?」 「ティーバッグをカップにぽちゃんとするぐらいのことしか」 「十分だよ、今度俺に、紅茶を淹れてよ」 「ええっと……私はキッチンの仕事は」 言いかけるみなみの目の前に、スーツの彼は名刺を差し出してきた。 「裏に、プライベートの番号も書いてある」 「え??」 「結構前から、君のことをいいなって思っていたんだよ」 こうやって、少しずつ色んなことが変わっていってしまうのだろうか。 みなみは渡された名刺を眺めながらぼんやりとそんなことを考えていた。
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