囚われそうになる闇。 それとも、俺はもう囚われてしまっているのか。 あの男とは同じになりたくないと思っているのに、似たような道を歩き始め ているような気がして、ただ恐ろしかった。 「絢樹」 聞き覚えのある声に顔を上げるとロビーの端に立っていた俺の傍まで女性が 歩み寄ってきた。 その人は昔、俺に仕事をするよう勧めてきた女性だった。 「久しぶりね。元気にしていた?」 「……取り敢えずは、元気ですよ」 「そう、なら良かったわ。どうしているか気になっていたから」 「今は、カフェで働いてます」 「あの頃に比べると、いくらか健康そうね」 「身体はいつでも健康ですよ」 「……状況は、あのときとあまり変わっていないのかしら?」 彼女の指が俺の頬に触れそうになり、その指先を避けるようにして俺は身体 をひいた。 「すみません、触られたくないです」 「ごめん。勝手に懐かしがっちゃいけないわね」 聡明な輝きを持つ双眸で彼女は俺を見ていた。 年齢は近いのに、俺と彼女は親子のような関係だった。 静かな声で少しずつ俺の歩むべき道を切り開いてくれた女性。 尊敬はしていて、そして母親よりも母のような人だった。 彼女の特異な性癖がなければ、俺は今でも彼女と続いていたかもしれない。 セックスの面以外では居心地の良い女性だったから。 彼女は俺を傷つけたりはしなかったが、逆に触れもしない。 俺に他の女性を抱かせ、それを観賞して楽しむタイプの人だった。性欲が旺 盛な俺を楽しんでくれていたようだったが────。 「絢樹」 みなみさんが呼ぶ声。 黒い雲で覆われた空に光が差すような、そんなイメージ。 俺はすぐさま彼女に駆け寄った。 「帰るわよ」 「はい」 みなみさんは俺にとって光のような存在だった。 どんな場面でも温かく柔らかで、だから笑っていて欲しいと願うのに、微笑 んだ俺に対して彼女は素っ気なく顔を背けてしまった。 それから無言のままで歩き続け、映画館から少し離れたぐらいの場所でみな みさんは俺を見上げてきた。 「さっきの女性は誰?」 「……言ってもいいんですか?」 「聞いているのは私よ」 「前のヒトです」 「直近の?」 「いえ、少し前の……」 「あなたにやけどを負わせた人?」 「いいえ、その人ではないです」 「そう」 唇を結んで俯く彼女を見て、みなみさんが快く思っていないことに気がつか される。 「すみません、不愉快な思いをさせてしまいました」 「うん、そうね。不愉快だわ」 「ごめんなさい」 「何を話していたの? また、元の関係に戻りましょうとでも?」 「いいえ、そんな話は」 「……久しぶりに前の主人に会った気分はどう? 向こうが言わなくても、あ なたは戻りたいと思ったんじゃないの?」 微塵も思っていないことを彼女に言われ、俺は動揺した。 みなみさんを一番に思っているのに、別の誰かの所に行きたいなんて思う筈 がないのに、戻りたがっていると言われてしまうとまるで彼女に“戻れ”と言 われているような気持ちにさせられる。 「やめて下さい、あなたが……そんなふうに言わないで下さい」 「どうして? 本心を言ってあげただけじゃない」 「戻りたいだなんて思わないですよ」 「向こうが戻れと言ってくれないから?」 「違います」 みなみさんは溜息にも似た息を吐く。 「疲れた……もう帰るわ」 「俺は……まだ、一緒にいたいです」 こんなふうに気まずくなってしまったままで離れたくなかった。 だけどみなみさんは小さな声でぽつりと言う。 「今日は雨ではない筈よ」 「……」 「もう、いいでしょ?」 初めて聞くような冷たいみなみさんの声に身体が思わず強ばった。 身体のどこも傷つけられてはいないのに、ナイフで皮膚を抉られるよりも痛 いと感じる。 「……家まで、送ります」 「ひとりで帰れるわ。ここで別れよう」 「判りました」 追いすがるほどに言葉尻が厳しくなっていく彼女に、俺はそれ以上何か言う ことが出来なくなってしまった。 駅まで続くまっすぐの道をみなみさんは振り返らないまま歩いて行く。 置いていかれてしまうような錯覚に陥り、彼女の名を大声で呼びたくなった。 置いていかないでと叫びたかった。 一度でいいから振り返ってこちらを見て欲しいと願っても、みなみさんは一 度も俺を顧《かえり》みることなく改札をくぐっていった。 「……みなみさん、みなみ、さ……」 呟くように彼女の名を呼ぶと涙が溢れてきた。 痛い、苦しい。 彼女の存在そのものは柔らかくて優しいのに、彼女のことを想うと心が壊れ そうになるぐらい痛くて堪らなかった。
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