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織川にキスをされた後、どんなふうに自宅まで帰ったのか優月は記憶してい ない。 単なる頬へのキスとはいえ、そっと触れた織川の唇の優しい温度が忘れられ ず、思い出す度に恥ずかしさや色んなものがこみあげてきて暴れ回りたくなっ てしまう。 おかげで優月は夢どころか、起きていても織川のことが頭から離れられなく なってしまった。 あれがいたずらなキスだと判っていても。 優月はベッドの上に寝転がり自分の手を見つめた。 絡め合った指と指。 その温度を思い出すと胸が痛くなる。 触れ合っている間は彼の温度が優しくて心地良いのに、離れてしまうと切な さで胸が痛んだ。 心の大部分は単純に彼のほうへと向かってしまっているのだろう。 だけど残っている部分がそうはさせまいと必死に引き留めている。 溝口を思って泣いた日は無いけれど、それでも振られて心に傷がついたこと には変わりない。 臆病に、縮こまってしまっている心をどうすればいい? 織川を信じてもいい? 判らない。 そんなことを考えているうちに、優月は深い眠りへと落ちていった。☆★☆★
翌朝。 いつもより少し早く目が覚めた優月は一本早い電車に乗って会社へと向かっ た。 ワークスペースに入るためにセキュリティカードを使おうとしたとき、すぐ 脇にある喫煙所から声がした。 女性の声と、織川の声。 会話の内容までは聞き取れなかったが、楽しげに話しているというのは雰囲 気で判った。 優月はなんとも言えない気持ちにさせられた。 仕事以外では喋らない印象だと勝手に思っていたけれど、煙草を吸わない優 月には喫煙所の中でのことは知るよしもなく……。 (ああ、やっぱり、駄目だな……私って) うぬぼれる気持ちがあった。 織川が自分だけに微笑み、自分だけと話をする。 彼が自分だけには特別にしてくれるのだと心のどこかで思っていた。 こんなうぬぼれが強い自分だから、溝口は面倒になってしまったのだろうか と優月は泣きたい気持ちになった。 「おー、織川のヨメ、どした? 暗証番号判らなくなったか?」 ふいに背後から、からかうような声がして慌てて振り返ると昨日エレベータ ーホールで一緒になった箕輪がそこにいた。 「よ、嫁とか……じゃ」 それ以上口を開くと泣きそうで、優月は唇を結んだ。 「……あれ……なんか……泣きそうになってる? 大丈夫か」 優月が頷くと、箕輪が扉のセキュリティを解除した。 「昨日、仲が良さそうだったのに喧嘩でもしたか」 「……喧嘩とかしないです」 「喧嘩しないぐらい仲がいいってか、ごちそうさま」 「……私は、嫁じゃないですから」 優月の言葉に箕輪は首を少しだけ傾けた。 「ああ、そっか織川が“嫁にしたい”って話だったな」 「そんなの……織川君、本当は思ってないですよ、気が合えば、きっと誰だっ て」 言いかけてまた涙が出てきそうになり、優月はロッカーのある部屋には向か わず、リフレッシュルームに入った。 リフレッシュルームにある自動販売機でペットボトルのお茶を購入する。 ついてきたのか箕輪も同じようにしてお茶を買った。 「誰でもいいっていうキャラかね? あいつ」 「……判らないですけど」 「判らないなら、なんでそんなふうに言う? 誰でもいいなんて織川に失礼な んじゃねぇの?」 「だ、だって」 今度は溢れる涙を止めることはできなかった。 「誰でもいいだなんて、思いたくない……けど、でも、そうなんじゃないかっ て……思うから」 「ふぅん?」 「誰かの特別になんて、そう簡単になれるものじゃ、ないんです」 「そうかね?」 「そうです」 「なんでそう思うわけ?」 「……私が、取るに足りない人間だからです」 「ほー、今時珍しく奥ゆかしい子なんだねぇ、高桑さんって」 「奥ゆかしいとかじゃないです」 「じゃあ、単に夢見がちなだけ?」 「え?」 「トクベツって、君が考えているような、そーんなに難しいものでもないんじ ゃねぇのかなぁ。簡単にはなれないなんて思うほどには、まぁ、知らないけど」 優月が俯くと、箕輪は笑った。 「でも、俺だったら、気持ち疑われる方が痛いけどね」 「……気持ちなんて、すぐに変わります」 「そう?」 「……あっさり変わってしまうのは、私が悪いんだと……判ってますし」 「え? あ、うー……ん」 「私が、いくら……好きって思っても、簡単に、切られちゃうんです」 「え? ちょ、昨日の今日で、もう振られたとかそういう話?」 「振ってもいなければ、振られてもいない」 声がして、箕輪がその主のほうを見ると織川がそこに立っていた。 「箕輪さん、何泣かせてるの? 優月は俺の嫁って言ってありましたよね」 「ばーか、俺が声かける前から彼女は泣いてたっつーの」 箕輪はそう言ってから織川をしげしげと眺めた。 「……おまえ、眼鏡止めたのか?」 「もう、今日そのこと何回聞かれたか……会う人みんなに言われて正直うんざ り」 優月がおそるおそる顔を上げると、確かに織川はいつもかけている黒縁の眼 鏡をしていなかった。 「耳のちょうど眼鏡があたる部分が切れちゃって痛いから、今日はコンタクト なんですよ、さっき喫煙所で佐々木さんにも同じ説明したんですけど」 「ああ、フーン、佐々木とねぇ」 箕輪の視線が優月に落ちてきた。 そして納得するように頷いてから、にやりと笑う。 「佐々木は、誰とでも仲が良さそうに話す女だから、まぁ、気にするなよ、高 桑さん」 「……っ」 自分の心を透かして見られたような気がして、優月は真っ赤になった。 「どういうこと?」 箕輪は織川の問いには答えず「末永くお幸せに」とだけ言ってリフレッシュ ルームを出て行ってしまった。
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