****** 「プレミアムワークの、高槻です。よろしくお願いします」 俯いて小さな声でその子は言った。 小さな声なのに不思議と耳に残る。 長めの前髪を上げてピンで留めている。 さらさらのロングヘアーが会釈の時に揺れて、ふわっと柔らかい香 りがした。 「営業企画部3課主任の瀬能です、これからよろしくね」 俺がそう言うと彼女は小さく会釈した。 一緒に派遣されてきた生田さんは顔を上げて真っ直ぐこちらを見て いるのに、この子は終始俯いている。 これでこの子は俺の事を認識出来たのかね?と思ったら案の定覚え られなかったらしく、たまにとは言えフロアでは何回か会っている のに会う度『初めて見た』という顔をした。 どんだけ覚えないわけ? と、言うかむしろ俺を覚える気がないのか? 彼女の事が気になったきっかけはそんな感じだったと思う。 とは言え、その時の「気になる」は決して恋愛感情が含まれるそれ ではなかった。 月日が経つにつれ、彼女の緊張がほぐれてきたのか徐々に笑顔を見 せる様になっていく。 笑顔を向けられる相手は勿論俺ではなく、生田さんではあったけど、 思う以上に彼女の笑顔は可愛いかった。 可愛いと思ってしまうと、それまでの「気になる」感情が別方向へ と進んでいく。 外出先から会社へ電話を掛けた時に、電話を取ったのが彼女だと判 ると少しだけ胸の奥が疼いた。 もう少しだけで良いから、声を聞いていたい。 そんな風に考える様になるのにそうは時間は掛からなかった。 何故、そう思う様になってしまったのかはもう覚えていない。 明確な「何か」はなかった。 一度気になってしまうと、歩き方すら愛おしくて堪らなくなるから 人の心とは謎だ。 もともと俺自身がそういう性質である男であるのなら謎とも思わな かったのだが、ここまでのめり込む様な恋愛感情は初めてだった。 まるで乙女だ。 何かのいたずらで、ふっと彼女と目が合っただけでも心が震えた。 俺を見ているのではないと判っていても、彼女の視線に一瞬でも晒 された喜びは大きかった。 尋常ではない思い入れが出来てしまい、逆にそれの所為で俺は動け なくなった。 想いが大きすぎた。 軽く声を掛ける事すら困難で、どんな勇気も彼女の前では砕かれた。 その時はまだ、自分が可愛くて傷つけられる事を良しとしていなか ったからだ。 親しみの無い瞳で見られる事が辛く、よそよそしく話される事が痛 かった。 「大人しい」のは初対面の時から判っている事で、俺にだけよそよ そしいのではない事は判っていた。 そうこうしている間に半年が経ってしまった。 ****** 「高槻ちゃんって、蝶が好きみたいなんですよね」 生田さんと雑談をしている時にふっと彼女がそう言った。 なんでもいつも会社に持ってきている鞄には蝶モチーフのチャーム がついていて、沙英がそれをとても気に入っているのだそうだ。 …気に入ってる…のは結構なのだが、まさかそれは男からのプレゼ ントじゃないだろうな? 思わず苦笑いをしてしまった。 指輪をしていないからと言って、彼氏がいない証明にはならない。 かと言って生田さんにそれを聞くのも直接的すぎる。 沙英の笑顔を独占し、あの小さな身体に触れる事を許されている男 が居るかも知れないと思うだけでいてもたってもいられない気持ち にさせられた。 ―――――抱きしめたい。 そんなの、もうとっくに思い始めていた。 ****** ある日。 外出先から帰社すると、エレベーターの中で珍しく彼女と鉢合わせ た。 彼女は俺を見て、小さく会釈をする。 事務用品を数点手にしているから、総務に用事があったのだろうな とすぐ判った。 ボールペン等は会社が用意しているのだが、沙英は自分用のボール ペンを持参していた。 それが制服のベストにある胸ポケットの所に刺してある。 通常ノックする部分が猫の顔になっているボールペンだった。 「彼女は可愛い物や綺麗な物が好き」と言うのは生田さんから聞い ていた。 香りにも敏感であるという事も。 どう敏感なのかはその時まで理解出来ていなかったのだが。 エレベーターに同乗していた他の男性社員が降りた後、沙英は少し 辛そうな咳きをした。 「風邪でもひいているの?」 俺が話しかけると彼女は俯いたまま首を振った。 「いえ、あの…」 言いかけたのに彼女は止める。 「大丈夫です」 「…そう?」 今度は咳をするのを我慢している様な表情をしている。 「咳をするのを咎めたんじゃないから、したかったらしなよ?」 俺が言うと、けほ、と小さく咳きをした。 「すみません、匂いで、呼吸が…苦しくなって」 「匂い?」 「あ、せ、瀬能さんの匂いじゃないですから」 「え?あ、うん…」 匂い、ねぇ。 そう言えば、エレベーターに残る男性用の香水の香り。 先ほど降りた男性社員がつけていた物と思われる、エゴイスト系の 香りがしている。 「香水は嫌いなの?」 「いえ、好き、ですけど…男性用のこう…はっきりした、きついの は苦手なんです」 「そうなんだ」 かく言う俺だって香水はつけている。 だけど「俺の香りは平気なの?」と聞ける程親しくなければ勇気も ない。 エゴイスト系の匂いのものよりはたまたま今日つけているものが弱 い香りだというだけであって。 もし、沙英の好まない匂いだったら、彼女は俺が近づく度にひっそ りと息を止めたりするかもしれない。 それはちょっと望ましくない。 匂いだけで嫌いになったりはしないかも知れないが、遠いなりにも それが要因になる事はあるかも知れないからだ。 俺だって女性の柔らかい花の様な香りは好きだったが、粉を思わせ る様な強烈な香りは苦手であり、なるべく長時間一緒に居たくない と思ってしまうのが正直な心だ。 ―――――そういうのは、凄く困るよなぁ。 俺がソリッドパフュームに変えたのはそういう理由があったからだ。