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● 熱情の薔薇を抱いて --- ACT.13 ●

  

******

それから、沙英をたびたび食事に誘った。

躊躇いながらも、彼女は誘いに応じてくれる。

笑顔を見せてくれる様にもなっていた。

俺が笑えば、彼女もつられる様に笑ってくれる。
その笑顔が堪らなく可愛かった。

猫舌で、熱い物がすぐ飲んだり食べたり出来ない、そんな様子さえ
愛おしかった。

一緒に過ごした時間を蓄積していく度に、確実に彼女との距離が近
づいている実感はあった。

実感はあったけど、踏み込む領域を計るにはなかなかの困難を要し
た。



鍋料理の店に行った時の事だ。


「あの、訊いても良いでしょうか」
「ん?何」
「…瀬能さんって、下の名前なんて言うんですか?」
何を聞いてくるのかと思えばそんな事で、まぁ、気になってくれた
のは良いとしても知らないと言うのはいささかショックだった。
「何、知らないの?」
「す、すみません」
「まぁ…良いけどね」
俺はスーツの内ポケットから名刺入れを取り出して、そこから名刺
を一枚出し彼女に渡した。
「かず…さ?」
名刺に書かれてある俺の名前を彼女は読んだ。
ただそれだけの事なのに、俺の心が揺れた。
呼ばれたわけではないのに、馬鹿みたいにときめいてしまう自分は
どうにかしてるんじゃないかとさえ思えた。
「うん、そう」
「…あの…、この名刺頂いても良いですか?」
「欲しいなら、どうぞ」
沙英は照れた様に小さく微笑んでから、自分の定期入れの中にそっ
と名刺を仕舞った。

何故、俺の名前を知りたいと思ったの?
何でたかだか名刺なんて紙切れ一枚を大事そうに仕舞って見せたり
するの?

その行動には意味があるって思って良いのか?

その日はいつも以上に彼女が可愛く見え、表情のひとつひとつに心
を揺らされた。

彼女に俺を好きになって貰いたいのに、俺ばかりが沙英にのめり込
んでいっている気がした。


******


鍋料理の店に連れて行った帰りの車での事だ。

「瀬能さんはズルイです」
彼女は不意にそんな風に言い、すこしむくれた様な表情をした。
「え?何が」
意味が判らず聞き返すと、今度は拗ねた様な顔をする。
「綺麗すぎるから、いつまでも見ていたいとか思ってしまいます」
綺麗すぎると言われて笑いそうになったけど、そこは堪えた。
「はぁ、見たいんだったら見ててもいいけど」
「見てる自分を見られるのは嫌です」
「何それ?」
「見てるって、知られるのは怖いです」
ちょっとだけ、沙英は悲しそうな表情をする。
どういう意味の表情なのだろうか?
「意味が判らないけど」
「知られて、どう思われるのかって考えるのが怖いです」
「どう思うって、俺が見ても良いって許してるんだから、何とも思
いようがないんじゃないのかな」
俺がそんな風に言うと、沙英はぱっと顔を上げた。
「あ、そうか…そうですね」
「どんな風にこっそりと君が俺を見ていても俺はそれに絶対気が付
くから、だったら正々堂々と見れば?って思うぐらいかな」
「そんなもんですか?」
「そんなものですよ」
沙英はほっとした様な表情をしていた。
先程の悲しそうな表情はもうそこには無かった。
安堵するのと同時に彼女の表情が俺の心をくすぐる。
そんな風にほっとした表情を見せる程、見ていたいのか、俺の事を。
見ていたいと、思う気持ちの正体を君は知っているのか?

信号待ちの為に車を止め、俺は沙英を見た。
「どんな視線にだって晒されても構わないし、それが侮蔑の類だっ
て、君が俺を見てくれるんだったら、構わないかな」
笑って俺は言ったけれど、心底俺はそう思っていた。
どんな風にだって、沙英が俺を見てくれるなら、見られないより
はるかにマシだからだ。

見る価値の無いものだと思われたくない。
沙英の心に俺を植え付けたい。

言葉の意味をどう捉えたのか、沙英は大きな瞳をこちらに向けて少
し震えていた。
少しだけ、おびえている様にも見えたから、俺はそっと彼女の頬を
撫でる。
「怖がらなくていいんだよ」
そう、俺が言った瞬間、沙英は顔を赤くさせた。
何を思っているんだろうね?

君が、どう思ったのかは知らないけど、俺は沙英にキスしたいと強
く思ってしまった。
頬を赤く染めて黒目がちの瞳を潤ませるものだから…。

キスしては駄目だという事は勿論判っていたから、彼女の愛らしい
唇に少し触れる事で我慢をした。
指先を彼女の唇の端に置く。
たったこれだけの事でも、胸が高まった。
少年の頃にだって、これぐらいの事でこんなに胸をどきどきさせる
事なんて無かった。

初めてキスをした時だって、こんなに興奮はしていなかっただろう。

理性というのはある意味厄介だな。
彼女の唇に触れたいと強く望んでいるのに、ソレが俺を押さえつける。

沙英に、触れたい。
その吐息を近くで感じてシンクロしたい。

同じ時間を共有している証の様に触れ合いたい。

今は、唇だけでも良いから。


この瞬間、沙英、君は何を感じて、何を思っているの?
切なそうに、何かに耐える様にしているのにはどんな意味があるん
だ?

俺と同じではない。
そんな事は判っている。

判っているけど、そうであって欲しいと望むぐらいは自由だろう?

「……」

助手席の彼女の様子に異変を感じた。
何か、苦しそうにしている。

「沙英ちゃん?」
呼んでも彼女は耳を押さえる様な格好をして返事をしてくれない。
「沙英ちゃん?大丈夫か?」
「耳…痛い、何も、聞こえない…感じがして…」
俺は出来る限り急いで車を端に寄せて停止させる。
沙英は更に苦しそうな表情をしていていた。
「沙英ちゃん…大丈夫?」
そっと近寄って身体を側に寄せた。
俺がそうすると、彼女は俺の肩口に額を押しつけてきた。
抱き締めるのが得策なのかどうか判らないまま、少しの時間が過ぎ
ていった。

沙英は小さく肩で息をしていた。

「…すみません、瀬能さん…治まったんですけど、もう少しだけこ
のままで…居させて下さい」
「あぁ、良いよ」
彼女の後頭部を撫でると、沙英は息を漏らす。
落ち着いてきている様子だった。

「心が痛いと感じた瞬間に耳鳴りがしたんです」
「そう」
心が痛い??
「原因があると思うんですが…判らないんです。でも、知りたくな
いんです」
「ん、じゃあ考えるな」
「すみません、なんか…変な様子見せてしまって」
「構わないよ」
”心が痛い”がどんな痛みなのか、追求したい気持ちを俺は抑えた。
苦しませたいわけではないからだ。

沙英はゆっくりと身体を起こす。
俺の肩の辺りをじっと見てから俯いた。

名残惜しいとか、思ってくれているのだろうか?
まだ寄り添っていたいとでも思ってくれたのだろうか。
沙英が望んでくれるのなら、抱き締める事だって構いはしないのに。

だけど…。

沙英の様子がおかしくなった原因が、俺が近づきすぎた事にあると
したら?

折角ここまで歩み寄ったものが、全て無になってしまう。



沙英、俺は今、どれぐらいの割合で君の心の中に在るの?
少しずつ、渡している俺の心の欠片にどれだけ気づいてくれている?

見えないものが歯痒かった。

全部渡してしまいたかった。
全部見せて、俺がどれだけ沙英を欲しているのかを教えてやりたか
った。

好きで好きで堪らない事を教えたかった。

だけど、それが有効ではない事に俺は気がついてしまっているから、
心のままに行動する事は出来ない。

駄目なんだ。

沙英が俺を好きだと言ってくれなければ何も始まらないんだ。
彼女が自分で思ってくれなければ何も有効にはならない。
思わせるのでは駄目なんだ。

何故だか俺はそんな風に思っていた。



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