****** 「明日…は、実家に帰るとか、するなり…考えます」 3階の空き部屋に置いてあったベッドの上に腰掛けて彼女がそう言 った。 「駄目、帰さないよ。3階の部屋は使って良いって言っただろう?」 どこにも行かせない。 「で、でも…」 「君の生活用品は明日揃えてあげる。不自由させるつもりないから」 「そんなの、申し訳ないです」 拒否はしているが、完全な拒絶とは違うソレに俺は思えた。 まぁ、どうであったとしても逃がすつもりはないのだけれど。 「駄目、決めたんだから。君は此処で暮らすの」 躊躇う様に視線を泳がせてから、沙英は俺を見上げた。 「すみ…ません、迷惑掛けますが本音を言うととても助かります…。 うち、実家が少し遠いし姉夫婦が同居してるので…帰りにくかった ので」 「迷惑とか言わないの。俺が良いって言ってるのだから」 「でもあの…」 まだ何か言いかける彼女を俺は遮った。 無駄に広いこの家が、役に立つ時がようやく来たのだ。 3階建ての一軒家であるこの家は、3階にある部屋は全て使用して いなかった。 使う必要がないからだ。 俺しか住んでいないから、生活スペースとして使っている2階以外 は使う理由がないのだ。 彼女を少し休ませようと思って下に降りたのに、彼女は割と早くに 2階に降りてきた。 寝付けないのは仕方ない事だろう。 「どうした?お腹すいたか」 「あの…喉が渇いたので、お水を貰いに来ました」 「ミネラルウォーターとかでいいの?温かいお茶がいいなら入れる よ?」 彼女は少し考える様な表情をした。 多分、温かいお茶の方が良いのだけれど、俺を使うのは申し訳ない とかそんな事を考えているのだろう。 あぁ、言う前にお茶を煎れてやれば良かったなと俺は後悔した。 「あの、じゃあ…お茶が欲しいです」 沙英が自分の望む事を口に出してくれて、俺は嬉しくなって笑った。 「ん、そこに座って待っていなさい。俺も丁度飲みたい所だったん だよ」 俺がそう言うと何故だか、彼女は泣きそうな表情を見せた。 緑茶を入れたマグカップをテーブルに置く。 沙英は俯いて緑茶を眺めていた。 何を考えているのかは窺い知れなかったけれど、そんな様子が何故 かいじらしく感じられ、堪らなく可愛らしいと思えた。 そう、それこそ手を出してしまいたくなる程にだ。 「なんかねぇ…可愛いね」 「え?」 「ちんまりしてて、小動物みたいに可愛い」 自分の気持ちを誤魔化す為に、わざとそんな風に言って見せた。 沙英はきょとんとしてから数秒、少し拗ねた表情をした。 それがまた可愛いから困る。 「…ちんまりで、すみません」 「あれ?気を悪くした?」 「いえ、ちんまりなんで構わないです」 「可愛い、可愛い」 「…もういいです」 「拗ねた?」 「拗ねてないです」 「いつまでも見ていて飽きない可愛らしさだよねぇ」 「はぁ…」 「可愛い、可愛い」 「……」 散々茶化す為に言った俺の言葉を、彼女は真意と思ったのかむくれ ながらまだ熱いお茶に手を出す。 「…あっつ…」 「ほら、慌てて飲むから」 「瀬能さんがからかうからです」 「からかっているわけではないけどね。楽しんではいるけれど」 「私は、楽しくないです」 「そう?だったらごめんね?」 そろそろこの会話を終わらせようかと思った頃。 「私は瀬能さんみたいに、綺麗じゃないんで」 小さな声で、そんな風に沙英は言った。 この子は事あるごとに俺を綺麗だと言うのだが…。 「綺麗ねぇ、俺のどこが」 「顔のつくりが綺麗とか、瞳の色が黒瑪瑙みたいだとか、色んな仕 種がいちいち様になるとか、なんだか段々腹ただしくなってきます」 どうせ、”判らないですけど”と言うのかと思ったら、沙英は思い の外、雄弁にそんな事を言った。 「ふーん」 いつも、そんな風に俺を見ているわけだ。 瞳の色を形容する代名詞までつけて。 「黒瑪瑙ねぇ」 「本当、からかうのやめて下さい」 「からかってないけどね」 「瀬能さんはそう思っていても、私はそう思うんです」 「―――――可愛いって思うのは本心だよ」 紛れもない本心。 笑いながら言ったのに、沙英はびくっとして俺を見た。 「からかう気持ちじゃない」 続ける俺の言葉を彼女は聞いている。 「いつだって君のこと、可愛いって思ってる。口に出すか出さない かの差はあるけど」 「…そういう風に言われるのもなんだか居心地が悪くなります」 「そう?何故?」 「そんな風に言われ慣れてないので」 「ふーん」 こんなに可愛いのにね。 言われ慣れないのは、余計な虫が傍に居なかったという事だから喜 ぶべきかな。 まぁ、口の下手な虫ばかりだったのかもしれないけど。 笑っていると、沙英が不満たっぷりに俺を見てきた。 「ま、またからかったんですね」 「からかってないって」 「ひどいです…だいぶ…かなり、へこんでいるのに」 「お茶、ぬるくなっているんじゃない?」 「…飲みますよ」 「俺もだいぶ気を張った。俺の言動をからかっていると言うのなら、 むしろ少しからかうぐらいは許してくれてもいいんじゃないの?」 それは本当の事だ。 これ以上ないぐらい、緊張は頂点まで達したし、神経はだいぶすり 減った。 「俺に連絡をくれたという点はすごく良い評価が出来る事だけどね」 「それは…申し訳ないと思っているんです、気が付いたら瀬能さん に電話していたみたいで、その…あまりその時のこと覚えていない のですが」 「良いんじゃない?そういう中で俺が浮かんだのは、君の中にだい ぶ存在が植えつけられて来ているって事だと思えるし」 無意識の中で俺を呼んでくれた。 その意味。 ただ使い易い男だと、そんな風に考える君ではないと俺は知ってい たから、心の中でくすぶる火を消そうと思うのに煽ってしまう。 「…なんで瀬能さんはそんなに、私に構うんですか」 「……」 「なんで、そんなに親切にしてくれたり、優しくしてくれたりする んですか?」 「なんでには答えないよって言ってあるよね」 「…意地悪です」 真実の意味の”答え”を沙英が求めてきているのではない事は判っ ていた。 本当に何で?と思ったんだろうな、と思うから俺は余計に答えを出 さない。 いや、例え前者であったとしても俺は自分からは言ってあげない。 君が自分で答えを見つけるまでは教えてなんてあげない。 「俺から言わせて貰うと、まだ答えが見つかってないの?って気分 なんだけどね」 「そんなこと言われても…」 「いつ、答えを見つけてくれるの?それとも答えを見つける気が無 いのかな」 マグカップのお茶を一口飲んで俺が言うと沙英はしんみりとした顔 をした。 「そんなの言われたって判らない事ばかりだし、聞いても答えてく れないから」 「聞かれた事に答えないのは、それが”答え”に直結している、も しくはそれに近い返答をしなくてはいけないからだよ」 俺は笑った。 結構なヒントだよな。 「そんなの、言えるわけないだろ」 「…言えない事なんですか?」 「臆病者なのでね」 「判らないです、瀬能さんが臆病者っていうのも含めて」 「まぁ、いいさ」 急(せ)いても仕方ない事だ。 時計を見るとだいぶ遅くなってしまっている。 「時間遅いし、そろそろ寝たら?明日会社には行かなくてもいいと 思うけど、身体は休めないとね」 「…会社は、行きたいですけど…」 沙英が何かを考える様にしている。 「明日、色々買い揃える様に手配してあげるから、会社は休みなさ い」 「あ、の…瀬能さん」 「なに?」 「コンビニ行きたいです。化粧落としを買いたいんです」 「あぁ、そうか気付かなかったな、ごめん。買って来てあげるよ」 そう言えば、風呂にも入っていなかったな、そういうのを勧めてあ げるべきだったか。 「男の一人暮らしの家は沙英ちゃんにはだいぶ不便だな」 「不便っていうか…その」 「悪いね、不自由させないって言ったのに」 「いえ、それは」 沙英は考える様な顔をしてから口を開いた。 「でも、あるんだったら買わなくても今日の所は、瀬能さんの彼女 が使っている洗顔用品をお借りできればと思います」 ……。 え?今、俺の彼女とか言ったか?この子。 俺はコートを羽織っていた動きを思わず止めた。 俺に彼女居るとか思ってるの??本気で? 「す、すみません…使わせたりとかしたくないです、よね…ごめん なさい」 「なんて言うか、君、俺に彼女がいるとか思ってるわけ?」 知らず、溜息が漏れる。 「思ってます、けど」 「俺ってそんなに気安い男だと思われているのか、心外だな」 彼女が居るのに、食事に誘ったり出来る男だと思われているんだ? いや、それより俺に彼女が居ても平気なんだ。 その事に傷ついたり悩んだり苦しんだりとかしないわけだ? 俺はあんなにも沙英に誰かが触れているのかも知れないと胸が焦げ る様な思いでいたと言うのに。 沙英は平気なんだ? 俺が誰かを抱いていたとしても、そういうのを何とも思ってくれな いのか。 気が狂うと思う程の嫉妬の炎に身を焦がしたりはしないんだ。 結局その程度? 俺はその程度しか思われてないってわけだ。 慕われてはいても好かれてはいないって、そういう事なんだ? 「いえ、違います。そんなんじゃないです、ごめんなさい」 「じゃあ聞くけど、今まで俺の言葉のひとつひとつどんな風に受け 止めてきてた?俺の言葉の意味とか考えた?そんなのだから何も答 えが出てこないんじゃないのか」 我慢の限界一歩手前の感情。 思わず声の調子が強くなってしまい、案の定沙英は怯えた顔をした。 「ご、ごめんなさい」 「謝って欲しいんじゃない」 「…ごめんなさい」 彼女の声が消え入りそうになる。 こうなってしまうと、どう考えたって惚れた方が弱いに決まってる。 「怖がらせたいっていうのでもないから」 俺は壊れ物を触る様にしてそっと彼女を撫でた。 「ただ、もう少し俺の事を考えて。君なりに考えてくれる様にはな ったのかもしれないけど、でもそんなのじゃ全然足りないんだよ、 もっともっと…考えてよ」 「瀬能…さん?」 「でないと、俺の気持ちが焼き切れてしまいそうだよ」 それでも、俺は沙英を欲する気持ちを止められないとは思うけど。 「コンビニ、行って来るよ」 寒い空気に触れて頭を冷やす。 見上げた夜空には、数えられると思える程度の星しか見えない。 ちょうど良い。 今の気分じゃ、綺麗な夜空なんて見たくもなかったから。