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「沙英ちゃん、会社に行って来るからね」
３階の彼女が寝ている部屋に入り、ベッドの上で丸くなって寝てい
る彼女に声を掛けた。
勿論、部屋の外からだって何度も声を掛けた。
でも、返事が無かったから仕方なく俺は部屋に入ってこうして沙英
の寝姿を見ている。
仕方なくだよ？
俺の声に沙英は弾かれた様に身体を起こした。
驚かせちゃったな。
「あ、瀬能さん…おはようございます」
俺はベッドに腰掛けると、沙英の頭を撫でた。
「おはよう。勝手に入ってごめんね、一応ノックはしたのだけど返
事なかったから。朝ご飯なんだけど、昨日買ってきたコンビニのお
弁当で我慢してね。昼ぐらいには手伝いの人が来てご飯の用意とか
する様に手配したから。洋服とかもその人に頼んである、必要な…
例えば下着とかは全部彼女に言うといい」
「あ、は、はい」
「ん。本当は俺が全部してあげられればいいんだけど、プレゼンと
か色々立て込んでいてね、今日は会社を休めないんだよ」
「いえ、いいんです。仕事の方が大事なので」
そりゃあさ、仕事は大事だけど、仕事の方が大事って言われてしま
うとどうとも言えない気持ちになるわけだ。
「まぁ社会人としては仕事は大事かもしれないけど、昨日の今日で
君の傍に居てやれないのは辛いと思っているよ」
「…は、はい…そう、ですか」
「じゃあ、行って来るよ」
「あ、あのっ瀬能さん」
立ち上がろうとすると、沙英が飛びかかる様にして俺の腕を掴んで
きた。
「何？」
「…昨日は…すみませんでした」
「なんの事？」
「私、あの…思い違いとかしていて」
「なんの？」
「瀬能さんに恋人がいるとか、その…」
「あぁ、その事か」
沙英の寝姿が可愛かったのと、飛びかかってこられたのにびっくり
してそんな事失念していたよ。
「いいけど、別に。俺は彼女が居ても君を誘う位気安い男っていう
風に評価されてただけなんだし」
「そ、そんなんじゃないです」
「がっかりはしたけど」
ちょっと意地の悪い言い方をすると沙英は傷ついた様な表情を見せ
た。
それから何かを言おうとするけれど、言葉が見つからないらしく、
まごまごしていた。
「せ、瀬能さん、あの、私の事…」
言いかけて、止めて、何か躊躇う様な表情をする。
それからそっと顔を上げて上目遣いに俺を見てきた。
「私の事、嫌いにならないで下さい」
…そんなの言われ無くったって嫌いになんてならないさ。
ならないけど、そう言う沙英が反則的に可愛くて。
すぐに返事が出来なかった。
それを彼女はどう捉えたのか、泣きそうな表情でふるふる震えなが
ら俯いた。
「嫌われたく、ないんです」
２度言ったその言葉は、彼女の精一杯の気持ちの表れなんだろうな
と思えて愛おしさで胸がいっぱいになった。
抱き締めたい気持ちを押さえて、沙英の頭を撫でた。
「嫌いになれるわけないだろう？」
「瀬能さん…」
「ばかだね」
彼女の頬に手を置くと、そこに重ねる様にして沙英が手を置いて来
た。
「大丈夫だよ、そんな心配はしなくて良い。君がどんなにひどい事
をしたとしても、俺は君を嫌いになったりはしない」
「…瀬能さん？」
「些細な事で嫌いになってしまえるぐらいの容易い感情は持ち合わ
せてないのでね」
一呼吸おいてからもう一言付け加えた。
「多少傷つけられるのは覚悟の上だよ」
傷つけられたいわけではなかったけれど、そうされるのも致し方な
い事と割り切れる。
それぐらい、俺は沙英が欲しかったから。
「さてと、会社に行かないと遅刻する」
手を離すと、沙英は心許ない表情をした。
それが俺を堪らない気持ちにさせる。
どうして彼女はこんなにも俺を夢中にさせてくれるのだろうか。
「夜には戻る。そんな顔をするな」
笑って、家を出た。
―――――つもりだったのに。
帰宅すると、松川さんが準備してくれた昼ご飯には全く手をつけず、
沙英はリビングの隅に座っていた。
それは叱られた猫がいじけて部屋の隅にいるのとよく似ていた。
ご飯を食べなかった事を深く追求すると…。
「”気安い人だと思っている瀬能さんにほいほいついていく私”は
もっと気安い人だと思われても仕方がないと思います」
と沙英は言った。
あぁ、それで落ち込んでいたわけ？
食事出来ないくらいに。
「そんなの思ってないし感じて無いから」
「彼女の居る人の家に上がりこむのもどうかと思いますし」
「実際は居ないんだし、良いんじゃない？」
「最低ですよね、私」
「いや、そういう部分はあまり掘り下げて考えなくて良いから」
「…でも」
「聞くけどさ、君のそれって他人から最低だと思われるのが嫌で言
っているの？それとも俺の評価が気になって言っているの？」
「瀬能さんの評価の方です」
「だったら、評価は下がって無いから気にする必要ないよ」
「でも、普通に考えたら嫌になっても仕方ないと思うんです」
「嫌になる事はないので、大丈夫」
そう言って俺は沙英の頭を撫でた。
「そういう所はそんなに考えなくてもいいよ」
「…でも、言葉足らずで色々思われるのは不本意です。瀬能さんの
事だって、素敵な人だと思うから彼女が居て当たり前だと思っただ
けで、”彼女が居るのに誘って気安い”とかそんな風には考えた事
もなかったんです」
「ふぅん？」
へーえ、素敵な人、ねぇ。
「…彼女が居ると思ったのは、マフラーを編んでる最中だったんで
す。その時は、そんな事も気が付かないでって自分に呆れた位だっ
たんです。だから、彼女の居る人に手編みのマフラーとかあげられ
ないって思ったんですけど、毛糸を選ぶ時も編んでる最中もずっと
瀬能さんの事を考えていたから、仕上がったマフラーをプレゼント
出来ないのが辛いとか…思ったりして」
沙英はまくし立てる様にしてそんな事を言った。
時々、がっと自分の考えを言ってくるんだよな、この子は。
「そう？」
「…すみません、何言っているか判らないですよね」
「大丈夫だよ、まぁ、何を言おうとしているのかは判るから」
俺は彼女の頭を撫でた。
マフラーの事もそんな裏があったのか。
あの時言えば良かったのに。いや、むしろあの時に言えっての。
彼女は小さく息を吐いた。
「頭を撫でられるの…なんだか、安心します」
「そう」
気持ち良さそうな表情を彼女がしたから、こういう風にされるのが
好きなのだなと思えた。
「俺はね、スキンシップは言葉以上に重要だって思っているから、
不快に思われてないなら良かったよ」
「不快じゃないです」
撫でたいのは頭だけじゃないんだけどねぇ。
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