****** 「何か飲もうね。温かいハーブティーでも入れてあげるから」 家に着いて2階に上がってから俺はそう言った。 キッチンに入ったところで彼女が涙声で言う。 「…ごめん、なさい、瀬能さんにご飯、食べて貰わなくちゃいけな かったのに」 「別に、食べなくてもいいと思う人間だから、そんなのは構わない」 蛇口をひねって水を出し、ケトルにそれを入れる。 「こんなのだから、嫌われるんですよね」 カウンター越しに俺は沙英を見た。 その瞳からは涙が零れていて、すぐにでも傍に駆け寄って抱き締め てやりたいと思ったけど、俺はそうしなかった。 「んー、何で嫌いになる事が前提になってるんだか俺には理解でき ないんだけど、俺が沙英の事を嫌いになるとか脅した事があるなら 別だけどさ」 「それは…ない、ですけど…」 「今言うべきなのかはちょっと疑問なんだけど、沙英は俺の事を本 当にちゃんと考えた事ある?」 「……」 「君が”なんで””どうして”って俺に言った後、俺は答えださな かったけど、それについて考えた事はあるのかな」 「…考えて、ない、です」 予想通りの彼女の答えに俺は笑った。 「だろうね」 お湯が沸いて、小さなティーポットにお湯を注ぐ。 「例えば、君を今此処に住まわせている事についてだって、それが どうしてなのかって考えた?」 「私の家が…火事になったから…」 「それは”原因”でしょう」 俺は思わず笑った。 「じゃあ聞くけど、それがもし君でなくても、同じ事があれば俺は 部屋を貸すって思っていたりする?」 「違うんですか?」 「貸すわけないだろ」 何て言うか、やっぱり肝心な事は考えてくれてないんだなと思った。 俺は笑いながら、ポットの中身をマグカップに移した。 「ホント、君って考えない子だよね」 「…すみません」 「座りなさい」 沙英をソファーに座わる様に言い、近くにあるテーブルにマグカッ プを2つ置いた。 ソファーに腰を下ろしてから、俺はハーブティーを一口飲んだ。 「俺は考えたよ、色々と君の事をね」 沙英は俺の横に座り、こちらを見上げた。 「時々凄く苦しんでいるのも知っている、そうさせているのは半分 は俺の所為なのかなとも思うけど、だからと言って俺にだって譲れ ないものはあったりするんだよ」 譲れないもの、それは沙英への想いだ。 ずっとずっと心の中で温めてきた想いや感情。 たとえば、その俺の感情が元で彼女を苦しめていたとしても、俺の 気持ちは変える事は出来ない。 いや、もう…それ以上に受け止めて貰わなければ、どうにかなって しまいそうな所まで来ている。 「苦しませてるの知ってても、俺の心は変えられない」 沙英。 彼女の名を呼び、少しの躊躇いの後(のち)に、沙英の唇に自分の 唇を重ね合わせた。 触れた瞬間、気持ちが溢れてどうしようもならなくなる。 好きで、好きで堪らない。 その感情を再認識させられた。 唇を離せばその想いを口に出してしまいそうで、だから一瞬のキス で終わらそうと思っていたのに暫くそのままにした。 沙英は抵抗するでもなく、じっとしている。 俺にキスをされながら、一体何を考えているのだろうか? 唇を離して彼女を見ると、ぎゅっと目を瞑っている。 「俺を嫌いになった?」 俺の問いかけに彼女は首を振った。 「嫌いになんてならない…です」 「キスぐらいなら、許してくれるという事なのかな」 嫌いにならなければ、好きになってくれるの? それとも本当に、キスぐらいだったら許せるとかそんなレベルか? 俺は彼女を抱き寄せて、再びキスをした。 今度はただ温度を確かめるだけのそれではなく、奪う様に。 「…せ、」 彼女が少しだけ俺を押し、抵抗する様子を見せた。 触れる程度のキスなら許せるけど、それ以上は嫌だって事? 俺を押さえていた筈の理性がどこかへ飛んでしまう。 閉じていた唇が開かれた瞬間、俺は自分の舌を彼女の口腔内へと滑 り込ませる。 沙英の柔らかい舌を舐(ねぶ)る程に気持ちが焼き切れそうになっ た。 彼女が好きだ。 一つ残らず、全部自分のものにしてしまいたいという激しい感情が 沸き上がる。 「レイプしたい」という感情とは決して違う。 でも、俺がそうすれば結果的にはそうなってしまう。 抱きたいのは、欲望からだけじゃない。 そんなのしてしまった後で言ってもあとづけにしかならない。 力で彼女を支配しても、俺が本当に欲しい物には手が届かないって 事は判っている。 一度怖がらせてしまえば、それは永遠に覆されない物だと思えた。 沙英が首を振る。 ―――――これ以上は限界か。 キスを諦めて唇を離した。 「こういうのは嫌だった?」 笑って俺は言ったけど、心の中でくすぶる火が消えたわけではなか った。 名残惜しい彼女の温度をなおも確かめる様に、頬や指先、手の甲に キスをする。 沙英はそんな俺を濡れた瞳のまま黙って見ていた。 「俺は、こう見えて意地っ張りだし負けず嫌いなんだよ」 触れるキスを諦めて、彼女を見た。 「泣かれるとさすがにくるものがあるけど、君から言わせたいんだ よね、君の気持ちが判ってはいても」 「…なんの事、ですか?」 「判らないならいいよ、そろそろ…ハーブティーも冷めた頃じゃな いのか?」 俺が彼女から身体を離すと、沙英は慌ててマグカップを手に取った。 沙英の気持ち? 本当は判っちゃいないけどね。 「我ながら大人気ないとは思うけど」 小さく言った言葉に、沙英は不思議そうな表情をしていた。 俺は笑う。 「嫌われたくないって思ってくれているのが凄く嬉しいって事は言 っておく」 「…は、はい」 「そう思う事が凄く辛いっていうのも理解している、不安で、いっ ぱいになって…さ」 嫌われたくない。 思えば思う程に不安が大きくなる。 まだ小さかった俺が抱いていた感情を思い出して辛くなった。 ****** 年末が近くなり、俺は沙英に正月の予定を聞いた。 「沙英は正月実家には帰らないの?」 「あの、家には姉夫婦もいますし、帰ると逆に気を遣うから毎年帰 らないです」 「そうなんだ、俺は正月は実家に行かないといけないんだよね」 毎年、恒例になっているから外す事は出来ない。 それが正月沙英を一人にしてしまうと判っていてもだ。 「あ、私の事なら心配されないでいいので」 あっさりと彼女がそんな風に言うから、逆に面白くない気持ちにさ せられる。 「一緒に過ごせない事をなんとも思ってくれないんだな」 「…なんともって事は、ないですけど…」 「3日間家を空ける事になる」 「そうなんですね」 寂しそうな顔をするでもなく沙英が言う。 それにはとても残念な気持ちになった。 「…やっぱり、なんとも思ってなさそうなんだよね」 彼女は慌てた様に首を振った。 「そんな事はないです、瀬能さんが居ないと、寂しいです」 「そう?」 うん、嘘でもそう言ってくれないとね。 沙英は手に持ったマグカップをじっと見つめている。 「電話ぐらいは出来ると思う」 「あ、はい…」 「俺が居ない間どう過ごすの?」 「そう、ですね…初詣にでも行こうかと思います」 「初詣ねぇ」 「駄目ですか?」 「いや、好きにしてくれて構わないけど、何処に行く気」 「明治神宮に行こうかと思っています」 「本気?めちゃくちゃ混んでるよね?」 「大丈夫です、毎年行っているので」 「毎年??誰と?」 「え、っと…ひとりですけど」 「ホントに?」 「本当ですよ?」 毎年決まって行くのにひとりなわけ? にわかに信じがたい。 まぁ、誰と行くにしても俺がどうこう言える立場でないのは判って いるけど、この独占欲は自分ではもうどうにも出来ない。 「3日の朝には帰ってくるから、初詣はそれから。決定ね」 「…え??」 「俺と一緒に行くの」 「で、でも」 「何か都合が悪いわけ?」 「都合は悪くないですけど」 「じゃ、決定ね」 沙英は困った様な顔をしていたけれど、それは見ない振りだ。 「あの、瀬能さんひとつ聞いても良いでしょうか」 「俺が答えても良いと判断出来る事ならね」 「…えっと…」 彼女が考え込む様な顔をしたから、俺は言葉を続ける様に言った。 「前に、家族の人と食事会っていう話をされたかと思うのですけど、 食事会って毎月あるものなんですか?」 「あぁ、なんだそんな話?食事会は最近では3ヶ月に一度くらいか な、兄弟にあたる人達はみんな結婚していて忙しいしね。俺が小さ い頃は月に2〜3回はあったけど」 「お正月もお食事会みたいな感じなんですか」 「そうだね、もっと規模は大きいかな親戚とか集まるし、毎日パー ティーやってる状態だな」 「パーティー、ですか」 「今年は沙英がいるから3日間も拘束されるのはちょっとなぁって 思うけど、俺は絶対行かなきゃいけない立場なんでね、良い子でお 留守番してて」 俺は笑って見せた。 「絶対って言うのは、ナビゲーターが必要だからっていう意味です か?」 「んー、まぁそうだね。紅茶おかわり入れようか」 空いたマグカップを持ってキッチンへと向かった。 沙英が気になっているのなら、全部話したって構わない。 だけど。 君の目が同情の色に変わるのは見たくない。 沙英が今俺をどう思っているのか判らないから余計に、「カワイソ ウだから」とか「放っておけなくなったから」とか意味のない感情 から”好きになられる”のには我慢できない。 キッチンの壁に寄りかかりながら、IHの天面に置いたケトルを眺 めた。 (沙英、早く…俺を好きになって) 苦しい思いを抱えて、俺は溜息をつくしかなかった。